β-370 おとなになれてない
成人して、ある程度年数は経過した。
しかし、真の意味でおとなになれているかは、不明だ。
主観としては、なれてない。
客観としては、なっていると見なしているひともいる。
一方で年長者の方々から見ると、伸び代がある(まだまだ要努力)と思われているように感じるし、実際に対話のなかで、そういうふうに評した方もいたのは、紛れも無い事実。
できることはやっているつもりでも、それが自己満足担っていないか、独善的な判断で実行したものが、果たしてベターな選択だったのか、もし取り返しの着かない事態になってしまったらどうするのか。
おとなになって、できて当たり前のことや、できるようになったことは、こどものときと比べ、圧倒的に増えた。
しかし、そのことで、そのひとが<おとな>と言われる所以はどこにもない。
他のひとに見てもらったり、報告したり、相談したりして、適切かどうか判断するってのは、ひとつの選択としてアリかもしれないけど、当然ながらそのひとが私の全てを把握できていないこと、もしくは、そのひとがどれくらいの頻度で見ているか、どの程度聞いているのか、どこまで経験しているのかというようなことで、見出だして、私の特徴を可視化させることはでき、それが仮に認められたとしても、<おとな>という認定にはならない。
なんか、くどいね。
週末こんなこと考えて過ごすあたり、5月のスタートとしては良くはない。
<おとな>にはなれない、しかし、<こども>からは遠ざかる。
ちょっと強張ってるのかもわからない、老いていく姿を想像するのが厭なのかもわからない。
あるいは、現実逃避したいのかもわからない。
そのどれに当てはまるかはわからないし、どれも当てはまっているのだろうとは考えてはいるけれど。
ただ、<おとな>と呼ばれている年代は、ポジティブシンキングの方は別として、大抵は現実的に物事を捉え、やや懸念を抱いた面持ちになるような課題が多いとは思っている、めでたいことも少なからずあるけれど、そのことに関しても、穏便に済ませていくためには、あらゆる方向から考えないといけないのは、違いなさそうだとは。
責任というのも、のしかかってくるわけだしね。
さてさて、これから、いったいどうなるのだろう。
なにを身につけ、なにをまちがえて、なにに苦しんで、過ごしていくのか、やや俯瞰して見てしまうあした・の・β<ベータ>でした。
俯瞰して見てしまいがちなので、当事者目線でも捉えないといけないのが、いまの課題のひとつではありますが、なかなかこれがピントを掴めていない、そんな状況ですね、うん。
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