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ヤング・ヴォネガット・デイズ
そのときわたしは暗い酒場で当時は飲みなれない酒を飲んでいた。信じられないくらいまっくらな酒場で、自分が何を飲んでいるのかも周囲に誰がいるのかも分からないほどだった。どうしてここはこんなに暗いのだろう。あるいはそのときのわたしの気分があまりにも暗かったからだろうか。
突然誰かに話しかけられたが、暗闇にその人物の顔はよく見えず、知り合いかどうかも分からなかった。むこうはわたしのことをよく知っているようだったけれど。
「ふさいでますね」とそいつは言った。
それはふさぎもする、親のすすめで通っている大学で、今やわたしは退学寸前に落ちこぼれているのだから。いらだちながら少し目を上げてみたが、ぼんやりした人影が見えるだけだ。
「そして迷っていますね」
それも正解。わたしは迷っている。状況を変えるための数少ない選択肢を手に、そのカードを切るべきかどうか。
「おやりなさい。間違いない、やったほうがいい」
そんな言葉が強く耳に響き、その人物のおぼろげな姿を食い入るように見た。こいつは天使か悪魔か、さもなくばただのいたずらなのか。
「あなたは行くのですよね、この戦争に。そのことで迷っている」
そうなのだ。戦争がはじまって以来、わが愛する国と人々を守るためにわたしにできることは何かと考えずにはいられない。それに戦争に参加することで、わたしだって何者かになれるのではないかと期待する不純な動機もくすぶっている。しかし家族は賛成しないだろうということが、ずっと気にかかっているのだった。
「これだけは保証します、あなたは戦争に行っても死にません。元通りの体で帰ってきます」
耳あたりのいいことばだが、そんなレトリックが果たしてなんの慰めになるだろうか。かりに生きて帰ってくれば予言通りだが、もしそうでなくとも、嘘を責め立てようにもわたしはもうこの世にいないのだから。
「おっしゃるとおり。でもあなたはすべてを了解した上で、なお戦場に進むことでしょう。なあに、ご両親だって止めはしませんよ。なにしろそこであなたは、『夢にも思わないようなでっかいもの』を見るんですから」
でっかいもの?
「このことばは、あなたが書くであろう最初の長篇小説に出てくることばなんです」
小説を書くという夢についてはこれまで限られた人にしか話すことができなかったのに、それをズバリ言い当てられたことで、驚いたあまりわたしの運命に対する興味はもはや押しとどめられなくなってしまったのだった。
「未来を予言しているのではありません。進んでいく時間の最初から終わりまでをいっぺんに見られる力、そういうものが想像できますか?そういった知覚が存在するのです。まあ、たとえ今は想像できなくとも、あなたの作品にはそれが描かれます。すばらしい作品たちに」
こいつの頭は狂気に冒されている。しかしその狂気はもともとわたしが植えつけた狂気なのだろうと、なぜかそれだけは確かなことに感じられた。自分の脳みそを見せつけられるようなおそろしい気持ちになった。
「それだけではありません、今あなたが愛している女性はやがてあなたの妻となり、多くのこどもたちに囲まれて暮らすでしょう。
そしてあなたがこの戦争について書いた作品はこの国だけではなく、世界中で読み継がれることになりますよ」
その他いろいろ。
気がつくとわたしはその狂気の巻きひげに絡み取られ意気揚々と戦争に飛び込んでいったのであった。
そしてあの夜語られたことは、まあ、大体そのとおり起こった。
わたしは戦争に行き、元通りの体で帰ってきた。(しかし精神はズタズタのボロボロになった。)両親もわたしを止めはしなかった(母は、わたしが軍から一時帰郷した日に自殺した。)わたしが戦地で見たものは「夢にも思わないようなでっかいもの」だった。(捕虜となったドレスデンで夜通し爆撃を受け、翌朝には街は月面のように破壊されていた。)
さらに戦争から帰り、愛する人と結婚したし(後年苦しみの末に別れた)、多くのこどもたちにも囲まれた(6人のこどものうち3人は、両日のうちに事故死と病死を遂げた姉夫婦の遺児だった。)
そして言うまでもなく私が参加した戦争を書いた小説は世界的に高い評価を受けた(それを書き上げるまでには終戦から23年もかかったのだが。)
すべては約束通りだったが、まったく思い通りにはならなかった。
あの真っ暗闇の日に私が会ったのは、天使だったのか悪魔だったのか。
なぜ甘い言葉を尽くしてわたしを戦地へと駆り立てたのか。
今のわたしが思いつく答はひとつだけ、それはわたしに小説を書かせるためだったのではないか。わたしが書く物語を待ち望むすべての人が、あの夜わたしを訪れ、わたしを利用したのだろう。
わたしの人生に起こったいろいろの、どれが良いニュースでどれが悪いニュースだったのかは、死んでみてもまだわからないままだ。
ピース