『悲しくてやりきれない』メロディが先にできた ???
私の音楽好きはザ・フォーク・クルセダースから始まった。
500円のゲルマニウム・ラジオで肌色をしたイヤホンを耳に突っ込んで『帰ってきたヨッパライ』がきこえてくるのを楽しみにしていた。
後に「加藤和彦、北山修・はしだのりひこ」が作詞家音楽家として有名になったのも『帰ってきたヨッパライ』の大ヒットがきっかけだっただろう。
彼らの唄を聴いた頃の私は中学生。遊び心でギターを弾き始め、僕にも曲作りができると思ったりしたんだね。でもまあ、当たり前だけれど、私はただの音楽好き男でサラリーマンとして生活してきた。
さて、私の事なんかどうでもいいか。
『悲しくてやりきれない』という曲について書くのだった。
ある記事を読んで不思議に思ったことがある。
らしい。
つまり、メロディが先で 後で詩をはめ込んだというわけだ。
あれ?と思う。
『悲しくてやりきれない』のメロディ作りは、詩がない状態では どうも考えにくい。
◆ まず、出だし。
弱起で始まっているのだとしたら、「胸に」の「に」が突然、4度のコード(へ長調の曲であれば B♭コード)で始まっている。曲の最初に3拍の休符があるのだとしても特別。もちろん、これは加藤和彦の独特な感性であり、通常の曲作りから脱したいという意思からできあがっているんだろうとは思うんだけど。
◆ 次に、コード進行が まばら。
1960年代のポピュラー音楽に多いんだけど、例えば「C→Am→F→G7」みたいな感じで1小節ごとにコードを入れ込んでいたりする。『悲しくてやりきれない』では、小説の区切りに関係なくコードが組み込まれている。
詩がない状態では、定番に頼ってしまうのだけど、そうではない。
◆ さらに、小節の長さ。
4/4の曲なのに、最後に2/4が入っている。
以上の3項目は、なにも特別なことではない。
ありふれたメロディではなく個性的な作曲をしようとした場合、以上の手法をとることはある。
私が不思議に思ったのは、詩がない状態でメロディを作ったということだ。詩がない状態でこのメロディを鼻歌でテープレコーダーに吹き込んだのだろうか。
歌詩がない状態でこのメロディを作って、自分自身「よし、出来上がったぞ」という充実感があったのかな。
不思議だ。
私のような、ただの音楽好きレベルの素人では理解しがたい。
まず、歌詞があって、その詩の語感・流れを優先することで「出だしが特徴的になり」「コード進行が標準外になり」「異なる小節の幅が入ったり」…これは オリジナリティを追及する作曲家なら十分に(または普通に)ありえる。
加藤和彦は、幼い頃から音楽家として教育を受けたのではないからこその天才なのか。それとも、まだ20歳をちょっと過ぎたころの若かった「ぽっと出音楽家」が作りあげた「ヘタウマ」なのだろうか。
私ごときが、優れた音楽家である加藤和彦の音楽を語るなんてもってのほか。結論のないまま不思議だけが残る私論になってしまった。
それでも最後に言えることは、ほんとにメロディが先なの?... 不思議だね。
ちなみに、なんやかんやと言いながら、加藤和彦は大好きなので、カバーして録音したりしてます。