自信が持てなかった私が、『愛され係』に任命されて、自分で自分を認められるようになった話
40代前半までは、自分にぜんぜん自信が持てていなかった。
いや、50歳を目の前にしている今でも自信マンマンなわけではないのだが、その頃まではほんっとうになかった。
まず、誰かに認めてもらうには「役に立つ人」でなければならないと思っていた。そのためには、飲み会の席では運ばれてきたサラダやパスタの大皿料理をいの一番に取り分けたり、誰かの飲み物がなくなるとすぐに希望を聞いて注文したりしていた。
職場でも自分の仕事をしていても誰かが文房具の備品を探しているのに気づくと、何を置いてもその在処(ありか)を教えることに自分の存在意義を見出すような事務員だった。
ほかにも、20代で海外に飛び出し経験を積んだあと地元に戻って飲食店をオープンした親友とか、地元で有名な創業〇〇年の会社の社長とか、「すごい誰か」と友達だったり知り合いだったりすることを自慢することも多かった気がする。
いま思うと「誰かに認めてもらう」方向性を完全に見誤っている振る舞いだけど、当時は身体に染みついた反応だった。
こうやって自分なりの努力は積み重ねていたものの全く自信が持てないまま大人になった40代前半に出会ったのが「Kコーチングサロン」。主宰者は知り合って1年ほどになる友人ケイティ。プロのコーチである彼女から「コーチングを学べるコミュニティをつくる」と聞いて、すぐさま参加を決めた。今や鹿児島イチのコーチングサロンとも言われるコミュニティの第1期生だ。
「コーチング」を学ぶコミュニティとはいえ、誰かのコーチを目指す前に、まずは「セルフコーチング」から。自分自身が”ありたい自分”に近づくためのマインドセットやあり方から学び始められる、そんな場に身をおくことにした。
今でも定期的に参加しているコーチングサロンは、第1期から少しずつバージョンアップしているが、当初から主宰者ケイティの心地よいファシリテートのもと、学びのテーマに合ったワークやシェアを繰り返し、メンバー自身が自分の課題や必要なもの、すでにあるリソース(資源、要素、強み)や仲間の変化に気づいていく経験を積み重ねている。
そんなサロンに参加してから半年間ほどは、口を開けば、
「わたし、自分に自信が持てないんですよね」
とシェアしていた覚えがある。ありたい自分の理想はあるけれど自分はそこに近づくためのリソースは何も持っていない。
振り返ってみると、そうやって落ち込んで、「そんなことないよ」と周りから言ってもらえるのを待っている自分がいたかもしれないが、その時は真剣だ。本当に「何も持っていない」と思っていた。
そんなわたしに主宰者から投げかけられたのは、陳腐な慰めの言葉ではなく
といった趣旨の問いだった。
はて?
朝ドラの主人公ではないが、当時の脳内には「???」が飛び交っていた。
学びの師でもあり、心友でもある彼女からの言葉だったこともあり、驚きこそすれまったく嫌な感じはしなかった。
むしろ、そう言われてみれば心当たりしかなかった。
着ている服や髪型を褒められても「いえいえ安物ですよ」とか「そんなことないですよ」と返すのが口癖だったし、話し方や人前でも緊張しないところを認めてもらっても「口から生まれてきたので」とか「ツラの皮が厚いのですかね」なんて自虐で返すことが多かった。
たとえるなら、キャッチボールでせっかく良い球を投げてもらっているのに、体全体でそのボールを避けている感じ。謙遜が美徳だと思っていたし、何より恥ずかしくてなんて返せばいいか分からなかったのだと思う。
こうやってわたしは「愛され係」に任命された。
最初のころは慣れないこともあり、むず痒くて、「ありがとうございます」の声も小さく、比例して体も小さくなっていた気がする。
それでも役割を与えられたことが功を奏して、どんなに「私にはもったいない」と思えるような褒め言葉でも、まずは満面の笑みで「ありがとうございます」と伝え、(心の中で)両手を広げてからだいっぱいで受けとめることが徐々に習慣になっていった。
ここで思い出すのがマザー・テレサの名言。
不思議なもので、習慣づいてくると、それまで自分の存在価値を測るモノサシが完全に「他人軸」だったのが、いつの間にか「自分軸」へと移っていた。
今となっては、自分が自然体で貢献できることに目を向け、無理に誰かの役に立とうと躍起になることはなくなったし、、友人の活躍は応援こそすれ自慢することはなくなった。
そのうえ、自分の努力をまずは自分でしっかりと労うことができるようになたし、たくさんのリソースを持っていることに気づき、なりたい自分にいつかなれると信じることができている。
けっきょく、自信って自分を信じられるってことだし、あの「愛され係」としてのお稽古期間は、誰かに認めてもらうよりもまずは自分で自分を認める力を養う期間だったのだと今は思っている。