見出し画像

インタビュー「ファインダー越しに見つめた中国との60年」齋藤康一(写真家)

 週刊誌や月刊誌などで、時代を象徴する人物のポートレイトを撮り続けてきた写真家の齋藤康一さいとうこういち氏。黒澤明、三島由紀夫、井上靖、司馬遼太郎、平山郁夫、棟方志功など、昭和や平成を彩った数多くの著名人の素顔に迫ってきた。
 そんな氏が生涯をかけて撮り続けてきたテーマの一つが「中国」だ。
 日中の国交が回復する前の1965年に初めて訪中を果たして以来、市井の人々を通して、異なる時代の中国の〝表情〟を写し続けてきた。2025年で初訪中から60年の佳節を迎える。
 戦時下の記憶、写真家を志したきっかけ、中国へと向かわせたもの――さまざまなエピソードとともにロングインタビューでお届けする。


戦時下での祖父の一言


―― 齋藤さんがお生まれになったのは昭和10年(1935年)の東京都品川区大井町。日中全面戦争が始まる2年前にあたりますね。

齋藤 今振り返ると、戦時中だった子どもの頃は、変わった生活を過ごしていましたね。

 当時、母方の祖父が、たびたび帝国ホテルに連れていってくれたのです。フランク・ロイド・ライトの設計で、建物が珍しかったのはもちろん、食事や調度品、トイレまで洗練されていて驚きましたよ。特に、洋式便座のトイレを初めて見て、子ども心に衝撃でした。外国の人たちはこんな生活をしてるんだって。祖父は食事に出てきたステーキを包み分けて、こっそり胸ポケットに入れて持って帰ったりもしていました。お肉がめったに食べられない時代だったんですね。面白い祖父でした。

 次第に戦火が拡大してきて、国民学校4年生だった僕は、昭和19年(1944年)に父の生まれ育った埼玉に疎開しました。今の東武動物公園があるあたりです。姉と弟は祖母の生家がある長野に疎開したので、一家離散で暮らしていました。疎開先では田舎の子どもたちにいじめられもしたので、心細かったですよ。

 度重なる空襲で、大井町あたりはずいぶんと焼けてしまいましたが、幸いにも我が家は無事でした。後で聞いた話ですが、実家に落ちてきた焼夷弾を父が素手でつかんで表に放り投げたらしいんです。ただ、友達の家がかなり焼けてしまったり、疎開先に残った人も多かったりで、戦争が終わると小学校の友達の半分くらいが変わってしまった。戦争の思い出となると、そうした嫌な、苦しい記憶が残っています。戦争ほど残酷なものはないですね。

―― 疎開された翌年に戦争が終わりましたが、その時はどういった気持ちが一番強かったですか。

齋藤 「ああ、やっとこれで東京の家へ帰って、みんなに会えるんだ」という安心した気持ちが大きかったですね。

 戦争が終わって、疎開先の人たちのもとに次々と迎えがくるんです。僕は10月まで埼玉にいたんですけど、自分にはいつ迎えがくるんだろうって、もう毎日首を長くして待ち続けましたよ。離れ離れになった家族と会えた時は本当に嬉しかったです。

 こうして話をしていてあらためて思うのは、やはり僕は母方の祖父の影響を強く受けていたということですね。あの当時、学校では〝鬼畜米英〟だとか、中国人を見下したような話をさんざん聞かされるわけです。子どもだったので、先生の話を聞いて、「そういうものか」と素直に飲み込んでいました。

 ところが、家に帰ると、祖父が真剣な顔をして、「支那人は優秀な民族だから、仲良くしなければいけないよ」と語るんです。およそ学校とは真反対のことを言っているわけです。祖父がどんなふうに育ってきたのかなど僕は全く知りませんが、友人と一緒に構えていた事務所があった帝国ホテルに連れていってくれたことや、疎開先から戻って小学校5年生のころから祖父と一緒に謡曲の稽古に励んだこと、折々にかけられた言葉は、鮮烈に残っているんですね。

―― 戦後、東京に戻ってきてからの日々はいかがでしたか?

齋藤 僕が小学校を卒業して、中学校に上がった昭和22年(1947年)に、いわゆる新制中学校が発足しました。僕が通ったのが、小石川にあった東京第一師範学校女子部付属中学校という長い名前の学校で、今は東京学芸大学の付属中学校になっているはずです。

 大井町から電車に乗って通学していたのですが、とにかく混んでいて、子どもは簡単に乗れないわけです。そこでなんとか婦人子供専用車や進駐軍の電車にもぐりこんで、もみくちゃにされながら通学していました。なかなか大変でしたが、それでも随分ぜいたくなことをしていたなと今になれば思います。


二人の師のもとで過ごした日々


―― その頃、齋藤さんは将来の夢をお持ちだったのでしょうか。

齋藤 いや、もう全然持ってません。写真家という仕事も聞いたことのない状態でした。

 ただ、僕の通っていた中学校が立派な施設を持っていて、理科室には暗室があって、そこにモノクロフィルムを現像する道具が一式揃っていました。子どもだったから、部屋が真っ暗になるのが面白くて、そこで遊ぶついでに現像をやってみたりもしたんです。でも、写真家になろうなんて意識の中に全くありませんでした。

―― 写真家になろうと思われた契機は?

齋藤 お恥ずかしい話ですが、大学受験に失敗して浪人生になり、2度目の大学受験でも、答案用紙の半分以上が書けなかったんです。さすがにまた浪人するわけにはいかないから、どうしようかと思い悩みながら帰りました。

 それで帰り道に中央線のどこかの駅で降りて、本屋さんに立ち寄って、今からでも受験できる大学はないかと探してみたんです。そしたら、日大芸術学部の写真学科で3月末に試験があると知って、受けてみたらすんなりと入学できました。

 日大に入ってすぐの頃に、文部省に通っていた僕の叔父から、「お前は将来どうするんだ」と聞かれたんです。僕は「大学で特にやりたいこともないし、やめてしまおうと思っている」というような生返事をしたら、叔父が「俺がよく行く居酒屋の飲み友達に、はやし忠彦ただひこさんという写真家がいるんだ。紹介するから一度会って話してみろよ」と言って、紹介状を書いてくれたんですね。

 後日、紹介状を手に林先生の事務所に行くわけですけど、写真家という職業もあまりよく知らなかったし、当然、林先生のお顔も知りません。日比谷の今の日生劇場の近くにあった事務所の扉をノックして、中で目が合った男性に「すみません、林さんですか」って聞くと、向こうも「うん?」という感じで、とりあえず紹介状を見せたら、その人が林先生だったんです(笑)。そこで、「明日からまたおいで」と声をかけてくださって、それ以来、林先生の助手として事務所に通い始めました。昭和29年(1954年)、19歳の時のことでした。

―― 日大芸術学部を受験できたことや、叔父さまが林忠彦先生の知り合いだったことなど、さまざまな偶然が重なって写真家・齋藤康一としての人生が始まったんですね。

齋藤 始まっちゃった、という感じですよね。ほとんど成り行きでした。僕の親父がカメラを持っていたんですよ。蛇腹のカメラですけどね。でも、写真の撮り方を学んだのは林先生のもとについてからです。

 林先生の事務所は、ヌード写真を中心に撮っていた杉山すぎやま吉良きらさんが借りている場所で、そこに秋山あきやま庄太郎しょうたろう先生も共同で事務所を開いていたんです。3人でよく連れ立って、仕事終わりに銀座に飲みに行っていましたよ。結局、大学の勉強よりも事務所にいるほうがずっと面白かった。ただ、大学も入った以上は授業に出ないわけにもいきませんから、人より時間はかかりました。6年かかり、なんとか卒業はしました。

 林先生と秋山先生はすごくお人柄が良くて、魅力に溢れ、第一線で活躍されており、独特な雰囲気でオーラを放っていました。周りもそのことをよく分かっていました。僕が林先生の助手になって3年が経った頃に、僕よりも10歳年上の人が二人訪ねてきて、林先生の助手になりたいといったんです。先生もそれを断らなくて、受け入れました。

 それで林先生から、「庄ちゃん(秋山庄太郎の愛称)のところへ行ったらどうだ」と声をかけていただいて、そこから僕は両先生のもとで助手を務めました。その頃には大学を出た後に勤め人になるつもりはなく、林先生や秋山先生のようにフリーになりたいとはっきり自覚していました。

―― 林忠彦先生は太宰治や織田作之助といった昭和初期を代表する文学者を撮影しておられ、秋山庄太郎先生は女性のポートレイト写真の名手として知られていますね。

齋藤 お二人から具体的に何かを教わったということなく、そばで仕事を見ながら技術を学んでいきました。そうやって覚えるしかなかったんです。あとは、自分のやりたいことに突き進んでいったり、壁にぶつかったりするなかで、少しずつ成長もしますが。まあ、無我夢中でよく分からないというのが正直なところです。そこもはっきり言って成り行きですよね。

―― 齋藤さんが最初に愛用されていたカメラは何でしたか?

齋藤 アイレスフレックスという二眼レフのカメラです。今はもうありませんね。その後は、ニコンやライカのカメラも使っていて、最終的にはキヤノンに落ち着きました。

 僕よりも先に大学を卒業した同級生たちは会社員になっていましたが、その間も僕は林先生と秋山先生の助手として充実した日々を送っておりました。先生たちの仕事を間近で見られただけでなく、たくさんの助手の姿も時に反面教師のように見てきました。やがて自分の性格等々が分かってきて、そろそろ写真で食っていけるんじゃないかという気持ちになり、大学を卒業したタイミングでフリーの写真家として働き始めました。


移ろいゆく中国を写し続けて


―― 齋藤さんは、1965年に第1回日中青年友好大交流団の一員として初めて中国を訪問されますが、本来はアルジェリアに行かれる予定だったんですよね。

齋藤 僕は映画の『望郷』が好きで、その舞台のアルジェリアに憧れを持っていたんです。それで世界友好祭がアルジェリアで開催されると聞いて、主義主張は関係なく、ぜひ行きたいと思っていたんです。

 中国を経由して、船でアルジェリアに入るというルートで旅券も下りたんですが、直前にアルジェリアでクーデターが起きてしまい、世界友好祭には参加できなくなってしまった。そこへ、交流団の一員として中国に行きませんかという話が飛び込んできて、僕たちは旅券を持っていたのでたまたま参加できることになったんですね。これも事の成り行きで、中国との出合い。面白いものですね。

 冒頭にも申し上げた、子どもの頃に祖父から聞かされた言葉を除いて、中国に関しては何も知らない状態で訪中しました。当時イギリス領だった香港の羅湖らこ駅から、徒歩で国境のある鉄橋を渡って深センに入りました。広州、武漢、長沙、南昌、上海、北京、西安、延安など計48日間をかけて各地を歩き回りました。良い意味で、不思議なところが中国にはたくさんあって、とても楽しく充実した面白い48日間でした。

 もちろん言葉は分からないし、先方の案内にしたがって見学をするという形にはなるのですが、僕たちのグループは画家、演劇家、日本舞踊家、評論家、写真家など、自由業の16名で、交流団のグループのなかで一番好き勝手に行動していたと言われました。街角には「大躍進」の文字が浮かんだ横断幕がまだ残っていた時代でした。

 文化大革命の始まる前年でもありましたが、街は大変のんびりとした雰囲気でしたよ。そういう場所しか案内されなかったといえばそれまでですが、とはいえ、自由に写真を撮ることができました。

―― 最初の訪中で印象に残っている出会いなどはありますか?

齋藤 国慶節の天安門のバルコニーには、毛沢東、周恩来、チャウシェスク、シアヌークなどがおり、大会堂の宴席では間近に宋慶齢そうけいれいがいました。なかでも、周恩来にじかにお目にかかったことは鮮明に覚えています。夜中近い時間に僕たちのグループだけが起こされて、スーツに着替えて、案内された先に周総理がいらっしゃったんです。そこで一人ひとりと握手してくださいました。

 最初は記念になると思って、それぞれが握手する写真を僕が撮っていましたが、最後になって僕も握手しないと損をすると思って、慌てて握手をしてもらったんです。というわけで、僕だけ握手の写真だけがないんですよね。とはいえ、初めての訪中は20代最後の1年を締めくくる記憶に残る旅になりました。

―― 65年に訪中された際に、齋藤さんが撮影された人民大会堂での宴席の写真は、高い視点から円卓がずらりと整列していて、一目見て強く印象に残りました。

齋藤 今だから言えるのですが、本当は撮影してはいけない場所だったんです。とはいえ、あんな立派なところに足を踏み入れられるのは一生に一度あるかないかのことで、写真家として気持ちが奮い立つわけですよ。そこでトイレに行く振りをして、上階からこっそり撮影したんです。我々は〝お客様〟として招かれているわけですから、少々のことは許されるかななんて思ったりもして。若気の至りでしょうか。

―― その後、齋藤さんが本格的に中国を撮り始めたのは、国交が回復し、文革も終結して、改革開放政策が進められていった1980年代以降のことですね。

齋藤 最初に写真集として出版したのが『蘇州にて』(1984年刊行)でした。本当は上海を撮ろうと思っていましたが、どうもその当時の上海は写真の収まりが悪くて、中途半端でね。感覚的な話になってしまいますが、街そのものに〝動き〟が感じられなくて、これじゃ写真は撮れないとなったんです。

 それで訪れたのが上海に隣接する蘇州でした。まるで呉をそのまま残したような歴史と文化の薫る街で、運河のある美しい佇まいなど、大変気に入りました。あの頃の蘇州を写真集にまとめることができて本当に良かったなと思います。写真はすべてモノクロで撮っているのですが、このほうが中国のイメージによく合うと思ったからです。

 そういえば、撮れなかった話に戻ってしまいますが、旧満州のあたりにもじつは何度も足を運んだんです。あそこもすごく写真の撮りにくい場所でした。別に撮ったらそこの人たちに怒られるとかは全くないのですが、やはり街に〝動き〟がなくて、結局は本を出すことができませんでした。

―― その後、93年に『上海 '92-'93』、97年に『北京 '95-'96』を出版されましたね。

齋藤 初訪中の時には、自分がこれだけ長く中国を撮影することになるとは思いもしませんでしたね。でも、頭の片隅にずっと祖父の言葉があったことは事実です。

 僕は日本で月刊誌や週刊誌の連載仕事を抱えていたので、一度に長期間滞在するのではなく、何度も日本と中国を行き来して撮影をするというスタイルでした。だから、自分のなかにある明確な形を写真集として表現するというよりも、その都度カメラを首からぶら下げて、街でシャッターを切りながら形にしていくという感じです。

 おかげで数え切れないほど日中間を往復しましたが、時代の移り変わりや機微が上手く写真に表現できればいいなと思っていました。

―― 日本人の写真家が、戦後の中国で人々の写真を撮るとなると、嫌な思いはされたりはしませんでしたか。

齋藤 嫌な経験はしませんでしたよ。そもそも僕は言葉が分からないので、相手が何を言っているかは分かりませんし(笑)。言葉が喋れないというのは時に強みでもありました。

 それはそれとして、「勘」という言い方は心もとないけども、お声がけしてから撮影する時もあれば、そうでない時もありました。なにか決まりがあって判断していたわけでもありませんが、結果的に中国で撮影をしていて、相手から怒鳴られたりしたことは一度もありませんでした。その場の気分、空気など、これも成り行きなんです。

―― 被写体の皆さんはいずれも自然体ですよね。事前に作品集を拝見したなかで、特に胸を打たれたのが、『北京 '95-'96』に収録されているちんろくさんとそのご家族の写真とエピソードです。

齋藤 彼とは本当に不思議な縁がありましてね。陳禄さんは昭和16年(1941年)に、5人の兄弟の長兄に連れられて、日本にやってきたんです。長兄は病で倒れた父親の代わりに、大使館の料理人として来日しました。

 陳さんも料理人として、山王ホテルなどさまざまな場所で働いていました。驚いたのは、彼の次兄が大塚にあった山海楼という中華料理店で働いていて、陳さんもよく行っていたみたいで、そこは偶然にも僕も大好きで通っていた店だったんですよ。

 陳禄さんたちは戦時中の日本に来ていたので、大変な思いをされたのかなと思ったら、「みんな親切にしてくれました」と語っていました。ただ、次兄を空襲で亡くしたことだけは悲しい思い出として残っていましたね。戦争が終わる直前の昭和20年(1945年)4月に帰国をして、新中国になってからは国務院の料理人となって、かく沫若まつじゃくさんや宋慶齢さんに食事を作っていたそうです。

 僕が陳禄さんたちの住む四合院しごういんを訪れた時は、家族がみんな揃っていたタイミングで、皆さんともお話することができました。陳禄さんは日本に住んでいたから日本語を少し話せましたが、彼の奥さんも日本語を話せたのは驚きでした。

 彼ら家族が本当に良くしてくれて、北京で撮影する際には、何度もそこを巣にさせてもらいました。陳さんご夫妻がお亡くなりになった時は、北京へ行って手を合わさせていただきました。

―― まさに日本と中国の現代史を生きてこられた市井の人々と交流を結んでこられたのですね。最近ではいつ中国に行かれましたか?

齋藤 2018年に写真集『岁月中国1965』『40年後再回首』を中国で出版し、その写真展とパーティーに招待されて、家族8人で参加しました。楽しい思い出になっています。年齢的にも最後になるかもしれないと思い、家族を連れて一緒に参加しました。北京の街もずいぶんと変わりましたね。

―― 60年近くファインダー越しに中国を見つめてきた齋藤さんですが、今の中国を撮影したいというお気持ちはありますか?

齋藤 今の中国を撮りに行きたいという思いはないです。なぜなら、一度撮り始めると、入れ込み過ぎ、まとめて撮りたくなってしまいますから。また、年齢を考えると……。

 それにしても、初訪中からもうすぐ60年になるのですか。自分でも驚きます。やはり祖父の言葉が中国を撮り続けるエネルギーになっていたのだろうという気がします。戦時中によくぞあんなことを言ったものだと思います。あの言葉があったから、中国に興味を持ち続けられたということなのでしょうね。

 僕の少し後の世代には、いわゆる中国好きの人たちはいたんですけれど、彼らとは違った感覚で、僕は中国を見つめてきたように思います。

取材・文)南部なんぶ健人けんと
インタビューカットと写真集書影の写真)Yoko Mizushima
その他の写真:齋藤康一写真事務所提供


<取材後記>
「成り行き」という言葉を齋藤さんはインタビュー中に何度も口にされた。ただ、その言葉に軽薄な響きは一切なく、むしろしなやかで示唆に富んだ人生の哲理のように聞こえた。
 順風のときは成り行きに任せられるとしても、逆風のときに自然体でいられる人はどれほどいるだろうか。
 おだやかな口調で、ユーモアを交えながらお話されるなかで、言葉の端々には確固たる矜持きょうじが宿っているようだった。
 そんな齋藤さんが撮られる中国の庶民はみな自然体で、やさしい表情をしている人が多い。動乱の歴史を生き抜いてきた名もなき人々への尊敬の眼差しが、そこには光っている。


齋藤康一
1935年、東京都品川区大井町に生まれる。1959年、日本大学芸術学部写真学科卒業。在学中より林忠彦氏、秋山庄太郎氏の助手を務め、その後フリーランスに。雑誌などに数多くの人物写真や、ルポルタージュを発表。1965年に第1回日中青年大交流に参加。以後、約80回中国各地を訪問・取材する。日本写真家協会名誉会員。日本写真協会監事。作品集に『蘇州にて』(潮出版社・キヤノンクラブ)『上海 '92-'93』『北京 '95-'96』(日本カメラ社)『昭和の肖像』(玉川大学出版社)『写真家たちの肖像-先輩・後輩・仲間たち』(日本写真企画)40年後再回首』『岁月中国1965年』(山東画報出版社)など多数。


いいなと思ったら応援しよう!