地に墜ちた衛星 #14 劉子超(ノンフィクション作家)
第五部 カザフスタン
テュルキスタンの小人物
1
中央アジアを漫遊する日々で、僕はかれこれ四度、アルマトゥイを出入りしていた。旅路の中で、この街は終始、宿駅の役割を果たしていた。ここで、僕はつかの間の安息を取ることができた。旅の目途を立て、メモのディテールを補い、ついでにいくつかの素敵な小さいレストランをめぐる。
僕が目にした中央アジアのほとんどの地域は、いまだに歴史と宗教的伝統の深みに足元を奪われ、なおかつ地政学と民族主義にとらわれて、グローバル化に踏み出せないでいた。そうした中央アジアが今に至るまで存続していて、だからこそ苦労をいとわずに足を運ぶ価値があった。主な観光スポット以外は、旅はいつも大変で、次々と現れるトラブルに向き合わなければならない。快適かつ経済的な宿に出会えることなどめったになかった。場所によっては、最低限の設備が整った清潔な部屋であれば、それだけで立派な贅沢と言えた。アルマトゥイの状況は全く違った。宿とレストランはすべてぴかぴかで、しかも良い雰囲気が漂っていた、ここでは、僕は中央アジアの未来について少しばかりビジョンを持つことができた。
僕はアルマトゥイに一週間滞在し、これから始まるカザフスタンの旅の段取りをし、必要な許可証を申請した。そして、列車のチケットを購入して、あとは一路テュルキスタンへと向かうのみだった。列車が深夜の出発だったため、夕食時に僕はジョージア料理のレストランを訪れた。ハチャプリと烤羊肉を頼み、カヘティ地区産のワインを一杯飲んで、更に天山山脈の麓で作られたワインをもう一杯飲んだ。その後、タクシーで駅まで向かい、自分の車両を探して、ゆらゆらと揺れる二等寝台にもぐりこんだ。目が覚めた時、僕はすでに大草原の中にいた。
この時期の草原は、光沢のある紅いチューリップがどこまでも広がっていた。時おり軽快に駆ける馬の群れを見ることもできた。コンパートメント内には、下の段のベッドで眠る女性のかすかないびきが響いていた。まるで洞穴動物の小さいねぐらのようだった。駅には木材を積んだ貨物列車が停車していた。斜めに張られた波型トタン屋根に光が差し、空気中には春先の雨の香りがした。
僕はコンパートメントを出て、食堂車の厨房を通り過ぎた。スカーフを巻いたカザフ人のおばさんが、揚鍋をつかんで懸命に餡餅を揚げていた。額には大粒の汗がにじみ出て、腕についたぜい肉が上下に揺れていた。僕はコンパートメントに戻って、ハイドンのトランペット協奏曲でいびきに抵抗しながら朝食を待った。列車はレールの上で揺れている。廊下からようやくおばさんのロシア語での売り声が聞こえてきた。僕は熱々の揚げ餡餅を一つ買って、そのまま一口かじりついた。ところが、中には具が入っておらず、僕は幾分がっかりした。
僕は南ロシアの草原を走る列車で食べた揚げ餡餅を思い出した。乗務員のおばさんが作ったものだ。細かく刻んだ羊肉と玉ねぎに香辛料がまぶされ、それを生地に包んで、油で揚げる。ここから南ロシアの草原までは帯状になっていて、地理的な阻害物はほとんどない。そこは歴史的には遊牧民族が潮の満ち引きのように征服と移動を繰り返した伝統的な道だった。南ロシアの草原へと続く道の上では、歴史的に重要な名称にもいくつか遭遇する。タラズ(※1)もその中の一つだ。忘れ去られた歴史のために、僕はここで途中下車した。
中国の典籍では、タラズは〝怛羅斯〟と表記されている。西暦七五一年、当時、世界で最も強大だった東西二つの帝国――アッバース朝イスラム帝国と唐王朝――はここで軍事衝突を起こした。唐軍は大敗を喫し、その後の安史の乱でも活力を削がれ、以降、中央アジアの舞台から退出した。アラビア人の彎月刀とミナレットは、そこから数世紀かけて、中央アジアを永久のイスラム世界へと作り変えたのだった。
『新唐書』と『資治通鑑』の記載によると、タラス河畔の戦いが起きた原因となったのは、西域諸国の石国(首都はタシュケント)の〝無番臣礼〟(蛮族が臣礼を欠いた)だった。安西節度使の高仙芝は兵を率いて征伐に乗り出した。石国が投降を申し出てからも、高仙芝は石国で虐殺を続け、財物を略奪し、国王を長安に連れて帰り斬首した。幸運にも逃げ出すことができた石国の王子はアッバース朝に助けを求めた。
『大唐西域記』が出来上がって十年も経たないうちに、唐朝は西突厥を滅ぼした。これ以後、唐朝は西突厥のあった地に行政機構を徐々に設置し、西域の統治を強めていった。もとは西突厥に臣服していた中央アジア諸国家は唐朝に従うようになった。中央アジアのほとんどのエリアが唐の版図に収められた。
これと同時に、アラブ人(大食)は中央アジアでの勢力を迅速に拡大していった。ササン朝ペルシアは元々はアラブ帝国と大唐の間の障壁となっていたのだが、六五一年にアラブ人に併呑され、二つの大帝国の境域は直接触れるようになった。タラス河畔の戦いは、まさに唐朝が大食たちによる対外拡大を抑え込もうとした中で勃発したものだった。
アラブ側のリーダーは、傑出した軍事戦略家のアブー・ムスリムだった。中国の歴史書では并波悉林と記されている。彼は奴隷の出身で、のちにウマイヤ朝に反旗を翻し、ホラーサーン、イラン、イラク、シリアを占領し、ついにクーファでアッバース家のアブー・アル=アッバースをカリフに擁立し、アッバース朝の時代の幕を開けた。唐側の高仙芝も同じく名将であり、西域全体の軍隊を統率した。彼は大唐連合軍を率いて、七百里余り進んで急襲を図ったが、最終的にはタラスで大食の軍隊と遭遇。当時の大唐連合軍には、多数の葛邏禄(ウイグル人の祖先)と拔汗那(フェルガナ盆地に位置する)の兵士がいて、唐兵は全体の三分の二ほどしかいなかった。
タラス河畔の戦いは五日間続いた。唐軍がやや優位に立ったものの、連合軍内の葛邏禄部隊が突如寝返ったため、唐軍は両側からの挟撃に遭い、壊滅状態に陥った。高仙芝は生き残った兵馬を集め、安西の方向へと敗走した。その途中で潰走してきた拔汗那兵の一群と遭遇した。副将の李嗣業は大食の追兵に追いつかれることを恐れ、百名余りの拔汗那兵を殺害し、率先して突っ切っていった。唐軍はほぼ全軍が壊滅し、少数の者だけが命からがら逃げ出すことができた。
タラス河畔の戦いは二大帝国の国境沿いで起きた挿入曲に過ぎない。それでも、この戦いで敗北したために、大量の唐軍の兵士が捕虜にされ、アラブ人が統治するエリアへ送られた。これらの兵士の中には腕の良い職人も少なくなく、そこには製紙職人も含まれていたという。アラブ人は職人たちを集めて、サマルカンドに製紙工場を建てた。アラブ人が攻め入ったことで、製紙技術は中央アジアから西アジア、北アフリカ、そしてヨーロッパへと伝わったのだった。
タラズは確かに歴史の古い場所だった。しかし、唐朝の影響は考古遺跡にさえ見いだせなかった。今ではそこには二つのイスラム時代初期の建物が残っているだけだった――カラハン朝の遺跡と、チンギス・ハンが去ったあとの一面の瓦礫だ。
小雨が降る中で、僕は唯一の観光客だった。チケット売り場には個性的な見た目をした女の子が僕に手を振ってそのまま中に入らせてくれた。遺跡の中を歩いていると、タラズの歴史は実はとても単純なのではないかと感じざるを得なかった。ほとんどの時間は空白で、流れ星のように煌めく〝決定的瞬間〟がほんのいくつかあるだけなのだ。
侵略者がやってきて、去っていき、国境は常に変化する。滅亡の年、王朝の交代、勢力範囲、これらすべてが覚えづらい。書物を必死にめくっても、退屈な基本データしか得られない。長い歴史の中で、タラズには達成と呼べるものが何もなかった。〝タラス河畔の戦い〟のために足を運んだ僕という物好きを除いて、他の旅人は見かけなかった。
ソ連はタラズを再建し、そこを〝ジャンブール〟と呼んだ。しかし、そこは依然として帝国における辺境の町であり、失意の落伍者たちの流刑地だった。タラズの博物館では、ある展示室がレオニード・ブレーメという画家に丸々充てられていた。彼はウクライナで生まれたドイツ人で、長年にわたってクリミアで仕事をしていた。〝第二次世界大戦〟時、ドイツ軍がクリミアを侵略した。スターリンは〝信頼できない〟民族を、ことごとくはるか遠い中央アジアへ追いやった。そこにはクリミアのドイツ人や、ギリシャ人、タタール人が含まれていた。
人生の最後の三十年間を、ブレーメはタラズで過ごした。彼のタラズでの生活について文字の記録は残っていない。とはいえ、彼はおそらくあまり絵を描かなくなったのだろう。なぜなら、陳列室に残された絵画作品の多くがクリミアにいた時期のものだからだ。海から遠く離れたインナーアジアのタラズという小さな町で、ヤルダーの海岸の景色はまるで古い夢の描写のようだった。
最後に僕はようやくタラズの風景画を見つけた。季節は春のようで、高く伸びたポプラは毛筆のようにそびえ立ち、淡い緑の枝葉が風に揺られていた。僕はこの絵が描かれた時期に注目した。一九五四年。その前年にスターリンはこの世を去り、ソ連は〝解凍〟時期に入った。タラズですでに十三年滞在したブレーメは、きっとほんのわずかな春の気配を感じたのだろう。彼の絵の筆使いには意図して控えめに表現している軽さを見出すことができた。
ブレーメは名声の轟く画家でもなければ、後世に広く伝わった傑作もない。僕がタラズで目にしたのは、ばらばらになった歴史の脚注であり、ブレーメと同じような運命をたどった人々の縮図だった。
2
タシュケントで療養していた時に、僕はカリン・カートという若い女性と出会った。彼女はアメリカ人で、端正な顔立ちをしていた。シムケントにあるカザフ女子サッカークラブの選手だった。ちょうどシーズンが終わったばかりで、彼女は旅行かばんを背負って、マイクロバスに乗って国境を越えて、数十キロ先のウズベキスタンまで旅行に来たのだった。彼女はソファを提供してくれる現地の人の家に泊まることになっていたが、その人とは連絡が取れなくなってしまっていた。彼女のカザフスタンのSIMカードには電波が入らず、さらにタシュケントにはWi-Fiの提供を必要なサービスとみなすカフェはほとんどなかった。
僕は彼女に僕のホットスポットを使わせた。その時、僕はカフェの外にあるテーブルでトマトスパゲティを食べていた。僕が食事をしている様子を見て、彼女もお腹が空いてしまった。彼女は英語でウェイターに、ヴィーガン料理があるかどうかを訊いた。まさか彼女が厳格な菜食主義者――肉や乳製品を食べず、なおかつ動物性の素材が用いられたアイテムは一切使用しない――だとは僕は思いもしなかった。そのことは、遊牧国家でサッカー選手として生きる彼女に、パフォーマンスアートのような生き方を強いた。
たしかカリンは僕にどうしてシムケントを選んだのかを話してくれたのだが、僕はそれを心に留めていなかった。タラズで列車に乗って、次の停車駅がシムケントになって、僕はカリンのことを思い出した。同時に、僕の脳内で、シムケントのイメージの輪郭が浮かび上がり始めた。
列車には入隊したばかりの新兵が多く乗車していた。車両はまるで魚の缶詰のように混んでいた。僕の正面に座った青いセーターを着た女性が、ウズベク語で僕に話しかけてきた。プラットフォームには、兵士を見送りに来た婦人たちが列車に合わせて小走りしていた。傷のついたガラス窓越しに、ぼやけた一人一人の顔と、そこから光る一本一本の金歯が見えた。
シムケントはカザフスタンとウズベキスタンの国境近くにある。タシュケントまでは車でたった二時間の距離だが、アルマトゥイからは七百キロも離れている。ここには数多くのウズベク人が住んでいて、周囲はほとんどすべてウズベク人の村だった。歴史的にシムケントはシルクロードの重要な貿易拠点であり、現在では女子サッカークラブやカリーンのような外国人選手を擁している。僕のイメージするシムケントは、歴史と今が融合したような街だった。
ところが、シムケントには少しの旧跡もなかった。唯一、行く価値のあるところは、草木が無造作に生い茂った公園だった。公園には何もなく、ただ時間を持て余した少年や、ベビーカーを押した婦人が何人かいるだけだった。僕はシムケントにある最高級のホテルで夕食をとった。ホテルはヨーロッパの城を模したところだったが、想定外にがらがらで、まるで経営困難に陥っているテーマパークのようだった。レストランは〝パン・アジア〟料理と銘打ち、メニューには中央アジア、西アジア、更には東アジア、東南アジアまで網羅していたが、メインシェフはたった二人の韓国人で、客もたった二人だけだった。ウェイターはいつも通りナプキンを開いてくれ、料理を並べ、皿を下げ、そして堂々と伝票に十パーセントのサービス料を追加した。
シムケントの郊外にはサイラムという小さな町がある。玄奘大師は『大唐西域記』でここを〝白水城〟と呼んだ。シムケントで何もやることがないと気づいてから、僕はそこに向かってみた。最初、僕はそこで半日ほどぶらぶらできると思っていたのだが、実際に到着してみると、自分が楽観的すぎたことに気づいた。サイラムはかつてシルクロード上にあった歴史ある町だが、今ではかつての名声で得たものはすべて失われていて、閉鎖的で鬱屈とした景色だけが残っていた。
サイラムの三千年の歴史を記念する拱門をくぐって、僕が足を踏み入れた町は、感心してしまうほどに何の変哲もないところだった。見苦しい鉄筋コンクリートの建築はすでに町のあちこちに蔓延っていて、どれも最近建てられたばかりのようだった。町の中心地には、二階建ての小さいショッピングモールがあり、新しくも古くもないモスクが一つあった。また、古代の聖人の廟が二つあったが、明らかに後年に建てられたものだった。
雨が降り出すと、道はぬかるみはじめ、僕はどこへ行くべきなのかますます分からなくなった。中が真っ暗な現代的な茶館を道端で見つけ、僕はそこに入って座った。茶館の中は狭くはないが、内装のデザインはいい加減だった。隣には数人の女性客がテーブルを囲うように座り、一塊の大きなケーキを分け合って食べていた。その中の一人の少女はおそらく十二、三歳だったが、なんとすでにスカーフを被っていた。
店員はでっぷりと太った女の子で、外国人が面倒を起こすのを嫌がっていた。僕はロシア語で彼女にメニューはあるかと訊いた。すると彼女は驚きに満ちた表情を浮かべた。その後、彼女は何度か僕の近くを通ったのだが、まるで僕を空気のように見なした。僕は少しずつ自身の置かれている状況を覚った。こんな没落した小さな町にあるこんな素朴な茶館に、メニューなどという大層なものがあるはずがない。そこで僕は彼女のエプロンをつかんで、標準的ではないウズベク語で尋ねた。「プロフある? 茶ある?」
彼女は意味を理解した。そしてすぐに料理を運んできてくれた。
※
【訳者注】
(※1)第一部の原注でも記されているように、キルギスタンでは〝タラス〟(Talas)と呼び、カザフスタンでは〝タラズ〟(Taraz)と呼ぶ。二つの地は元々密接な結びつきがあり、経済の往来も活発だった。ソ連解体後、両国は厳格な国境管理を行い、二つの地の関係は以前に大きく及ばなくなった
〈次回は11月6日(月)公開予定〉
劉子超(作家・翻訳家)
1984 年、北京市生まれ。北京大学中文系卒業後、雑誌編集者・記者を経て、2016 年から作家・翻訳家として活動を始める。最新作の中央アジア旅行記『失落的卫星(地に墜ちた衛星)』(2020 年/未邦訳)は、豆瓣 2020 年ノンフィクション部門第 1 位・第 6 回単向街書店文学賞(年間青年作家部門)を受賞。その他の単著にインド・東南アジア旅行記『沿着季风的方向(モンスーンの吹く方へ』(2018 年/未邦訳)、東欧旅行記『午夜降临前抵达(真夜中が訪れる前にたどり着く)』(2015 年/未邦訳)。
写真:本人提供
翻訳:河内滴