Life in Rohingya, his memory by Zaw Min Htut. ロヒンギャでの生活の記憶。Zaw Min Htut氏
在日ロヒンギャ難民の氏が語るロヒンギャの生活、そして彼の記憶。
我々のロハンという場所は金のアラカンです。金のアラカンというのは、金が出てくる場所ということです。我々の生活は非常にシンプルなものです。1年間12か月の中で6か月働き、6か月休む。他にやることは何もない。ただ楽しく時間を過ごすのです。
なぜそのようにシンプルな生活になったかというと我々の土地がすべてを作ってくれるからです。我々は広大な土地を持っているので、その土地からなんでも出てくるのです。米など食べるものは全部出てくるのです。買うものがないのです。洋服しか買うものがないのです。魚も取れる、自分の家で山羊、鶏、牛など全部持っているのです。それらを使って生活をすることなんです。今、僕の記憶に残っていることは、若い時にすごく楽しかった場所であったということです。若者がすごく楽しんでいました。学校行って、戻ってきたら、色んな遊びをしていました。サッカーやったり、バレーボールをやったり、色んなことをしていました。また夜、友達たちと遊んでいて、鶏を持ってきて絞めて食べるんですよ。ピクニックみたいなことです。9月終わりぐらいから雨が降らない乾季に入ります。翌年の4月まで雨が降りません。ずーっといい天気なので9月から翌年4月までずーっと楽しく過ごせます。今の状況の話を聞くと心が痛くなります。今の子供たちは我々が遊んでいたようには遊べなくなってしまった。我々の人生がすごく悪くなっているのです。
(Zaw Min Htut さんから見たロヒンギャ庶民の幸せ)
繰り返しですが、ロヒンギャ人の生活はすごくシンプルです。土地を持っている人がいて、土地を持たない人は土地を持つ人のところで働く。5人ぐらいの家族だとお父さん一人だけが働いて、もらってくる給料で十分みんなが幸せになれる。我々の人生はすごくシンプルです。1日3食ご飯を食べるだけです。朝ご飯を食べて、そのあと紅茶とか飲む。子供たちも働くことなく、お父さん一人が働くことでみんなが幸せになっていた。我々の土地から産み出されるものはすごくおいしい物でした。水が特にそうです。日本ではまだそこまでにおいしい水を飲んだことがないです。甘い水です。そういう幸せな生活をしていたが、ミャンマー政権が押し付けてくることに我々は我慢できなくなってきたのです。我慢して我慢していたのですが、我慢できなくなっているのです。どんどん先ほど言った、幸せが無くなってきているのです。これもできない、あれもできない、ということになってもう我慢できなくなっているのです。
(このあと、大橋のおいしい食べ物の記憶はありますか?という問いに対して)
ロヒンギャの焼き鶏料理の話(ドゥルスクラ)
ありますよ。鶏を焼いて、丸で結わいて焼いて食べるのがロヒンギャの文化かな。それを火で焼いて食べるのがロヒンギャの料理です。それは例えば日本の焼き鳥みたいなものです。焼き鳥は切っているでしょう、ロヒンギャは切っていないこのまま。例えば3,4人で食べるとき、片方に持っててと言って、ちぎって食べるんですよ。(この後ドゥルスクラを日本語で補足説明を始める)
ドゥルスクラは焼いた鶏料理で伝統的ロヒンギャ料理です。それは世界でもロヒンギャでしか見られないかもしれない。でも日本の鶏で作ると全然違うものができる。日本で何回もやってみたのですが、日本の鶏はブラジルから冷凍で輸入されている物なので、味が全然ないよ。向こう行くと、捕まえてすぐ絞めて作るから全然味が違うのですよ。それを今僕は食べたいよ。