国語の勉強法 やるな!編

国語の勉強法で、やるな!というものを紹介する記事です。
世の中の国語の勉強法に違和を覚えることが多くあり、それに対する反論の意味もあります。


・筆者の実力証明


・試験中に、現代文からやるな!!!!

俺たち受験生の最終目標は、1月中旬にある共通テスト・2月にある二次試験会場に行き、そこで受けるテストでいい順位を取って、そして定員以内に結果的に入る、ということ以外にありません。

それまでどれだけ模試でいい点を取っていても・それまで学校が皆勤賞でも・友達の多い陽キャラでも、誰も筆記試験では評価してくれません。あくまで、当日の出来しか見てくれません。

したがって、試験当日に、試験中になにをするかが、決定的に大事です。
適当に勉強していたら受かるんじゃなくて、試験中にしたい動き・パフォーマンスを考え、実際にそのために繋がる訓練をして、当日にそれを発揮して初めて、意味があります。(それでも、勝負事だから、相手が強ければ負けちゃうけど)

さて、本題に入ります。
国語の試験は、基本的には、現代文と古典(漢文はないことが多いけれど)から成っています。基本的に序盤が現代文で、古典は後半の大問に設置されています。

今から言うことは、なかば懇願です。

たのむから、現代文から、解かないでくれ!!!!!!!


自分は冒頭にも書いた通り、実績をある程度重ねています。その自分が言うのだから、頼むから、現代文から、やらないでください。「そういうものか」と頼むから受け入れてください。

といっても、どうも受験界隈は、先達の経験を無視して自分の浅い経験と頭でっかちの理論でしかものを見ない人が多いので、一応、理詰めの説明もします。受け入れてくれている人は、親切な人です。ありがとう。その人は、次の見出しまでスキップして構いません。

駄目な理由は10コ以上あるのですが、理屈好きな人も論破できるように理屈っぽいのを、2つだけ書きます。

現代文から絶対に解かない方がいい理由①:現代文でわからない・迷う理由と古典でわからない・迷う理由は、根本的に違う。

どの試験でも、試験本番では、わからない選択肢なり設問なりに必ずぶちあたります。
ただし、現代文と古典とでは、わからない理由が違います。

古典は、正直、「わからないのは努力してきていなかった自分のせい」です。古典で文章がわからない時の原因は、大抵、単語文法の理解の精度の低さ・主語判定技術の習熟の浅さ・古典常識の不足などであり、それらは本来、試験場までに身に着けておくべきものです。(時間なくて対策できないのはまあ仕方ないんだけど、性質がそうだということ)そして、それらは試験中にいくらわからない文章とにらめっこしても、解決するものではありません。

古典では、わからない!となった時に、文章をグッとにらんでいて問題が解決することは滅多にありません。

しかし、現代文は違います。

根拠に乏しいのなら文章を読めば(そしてそれらは日本語で書いてあります。日本語ネイティブならだいたい読めるものです)、目の前に答えが書いてあります。
現代文では、わからなくても、目の前の文章とにらめっこすれば、何度も何度も読み返せば、答えが見つかる可能性が高まります。

時間を費やしてもわからないもの・時間を費やせばわかるもの。どちらに時間をかけるか?そう、現代文です。
そして、時間がかかるものは、きちんとそれ以外のことを片付けてから取り組んだ方が、落ち着いて取り組めます。

古典が本当にわからなければ、最悪、最初に全部③とかにマークして、残りの時間を全て現代文の精読に使えばいいし、どんな古典の出来の人も、古典からやるべきです。埋めるだけでもいいから。

現代文から絶対に解かない方がいい理由②:現代文は「推敲科目」

俺が提唱している、設問・科目分類法のひとつに、「推敲科目or not」という基準があります。
解答を書いても(選んでも)、よく考えたり見直したりすることで、クオリティの向上が図れるものを指しています。

たとえば、英語のなかで、要約・英作文は、「推敲」に入ります。かけた、と思っても、表現を見直すことで、より多くの要素を入れられることができますから。
一方、推敲しても仕方がないものもあります。
歴史の知識問題などはその例で、最低限見直しはあるにせよ、知っていたら知っているし、知らなかったら考えている時間は無駄です。

そして、現代文の設問のほとんどは「推敲」が必要で、古典の設問のほとんどは「推敲」が不要です。(注:ここで「」をつけたのは、記述以外の選択肢問題でもこの概念は当てはまるからです(「」は筆者の特別な使い方を表す。))

現代文では、一度選んだ選択肢でも、よく読み直すことで間違いを発見できることも多いです。記述では言うまでもなく推敲は大事で、正解に近くても、自信があっても、表現を短くすることで、より多くの要素が入れられるなど、推敲のメリットは尽きません。

そして、英語でも国語でもなんでもそうですが、推敲の必要なものを試験の序盤にやらない方が良いです。

なぜならば、試験の序盤にやれば、「後の問題もあるしここは切り上げておくか」という、妥協の精神、ないしは焦燥が強く働き、推敲のクオリティが著しく下がってしまうからです。

推敲すれば得点の向上が見込めるものを序盤にやってしまうのは、自分で自分の首を絞めていることと同じです。

古典にも確かに記述はありますが、だいたいは現代語訳で、説明はわずかです。そして、それらの推敲が必要な度合いは、現代文よりはるかに低いものです。


・読みながら解くな、最後まで読んでから解け!!

文章を読みながら、傍線部にであったら設問を解く、という人がいるらしいです。

まず端的な事実として、俺を含め国語が安定して強いヤツ、また、有名かつものすごい実力の予備校の先生(駿台:中野先生、内野先生)の誰も、そんなことをしていないし推奨もしていません。

一応簡単に反論を書きますが、まず、傍線部に出会ったら設問を解く、というのは、傍線部より後のことをヒントとして使えない、という致命的欠陥があります。
自分で自分の首を絞めていることに、気が付きましょう。

また、人間の脳はそこまで器用じゃないです。
文章を読み、筆者の意見を受容するモードと、設問を解くというモードは結構頭の使い方が違うので、それを短時間にスイッチできる人は、多くないと思う。

むしろそれができるのなら、もともとの地頭が良いということなので、なおさら文章を最後まで読むようにすれば、もっと点数が伸びます。


・頭使うな、目と手を使え(注:極端な言い方にしてあります)

俺のIQは80~90台くらいです。
俺は人生で、「頭がいい」と大人から言われたことは、離散に受かるまでありませんでした。(受かったあと言ってくるのは経歴しか見ていないだけなので、結局地頭は悪いままだということ。)

その俺が国語はできて、他の東大生・東大受験生が国語に苦手意識がある理由はなんだろう、と考えていて、ある結論に至りました。

国語は、自分の頭の良さ・天性のひらめきを駆使して問題を解決してみせる科目ではありません。
国語は、目の前の文章が伝えようとしている主張・描こうとしている世界観をそのまま・主観を入れこまずに読み取れたかどうかを聞く科目です。

おそらく国語ができない人は、よほど対策不足じゃない限り、頭が良すぎる・頭で解決しようとしすぎているのだと思います。

数学や理科は頭の良さを発揮する科目なのでそれでいい(というかそれこそを目指すべき)のですが、国語では、いくら「自分が思いついた論理」があろうと、筆者が言っていなければ、それは自分の主観・妄想に過ぎません。

特に理系の人に多いのですが、文章に書いていない因果関係を勝手に読み取って自爆するのをよく見ます。それは、自分の頭を使おうとしすぎているのだと思います。

それに反して、自分の地頭がすんごーーく悪いことを自覚している俺は、そんなことをしません。常に目の前の文章を目を動かして読んで、手を動かして線を書き込み、「文章がなにを言っているのか」だけを読み取ろうとしています。
俺は自分の頭に自信がないからこそ、他者が書いた文章をそのまま読み、そのまま受け入れられるのだと思います。

頭を使うな、目と手を動かせ、というのはそういう意味です。

(注:まったく頭を使わないか、というと、そんなことはありません。ただし現代文の中級者(共通テスト170安定・二次試験で6割安定くらい))になるまでは、頭を使う優先順位は最下位に下げてよいと思いと思います。
上級者になれば、「なぜここに傍線部があるのか」「どう表現を圧縮するか」ということに頭を使うようにはなりますが、いきなりはしなくても良いです。)


・「論理」を重視しすぎるな

さきほどの話と似ています。

「論理を読み取ろう」「論理が大事だ」「現代文は論理の科目だ」という言葉をよく耳にします。
上級者が自分で思っているぶんにはいいのですが、実力があまりない人に言うと誤解を与える、危険な表現だと思っています。

まず誰にでもわかる反論として、全ての文章が「論理的」かと言われると、そうではないです。

たとえば、筆者の想いをひたすらにつづったエッセイに、少なくとも数学のような「論理」を見出すのは困難です。かといって、「論理的」でないものは存在してはいけないかというと、全くそんなことはありません。それだって立派な文章だし、出題もされています。

また、評論とされる文章であっても、具体例を多く提示して主張を訴えていく、という文章に数学のような「論理」はやはり存在しないと思います。(数学の答案で具体例を多く提示しても意味はないのは周知のとおり)

そして、先ほどの話とつながってくるのですが、「現代文は論理だ」と思い込みすぎると、「論理が書いていないところにも論理を見出す」ようになります、これは「論理」という言い方をしても主観に過ぎず、そうなるとあとは地獄への坂を真っ逆さまです。

書いていないことは書いていないし、書いていることしか書いてありません。

論理を示す言葉・示さない言葉が日本語にはあり(というか英語にもあるし、きっとスペイン語にもスラヴ語にもあると思うが)、たとえば「よって」「したがって」「ので」「から」「だから」「ここから」などの論理を示す日本語があって、「論理だ」と反応できるのは良いのですが、「りんご」「馬」「ワールブルク効果」という言葉は論理を示すものではありません。

記述では、答案に「ので」「から」と使う時、本当にそれが理由として書いてあるかということは常に気を付けましょう。


・好き勝手に言い換えるな(記述限定)

これも、「とにかく筆者が書いた目の前の文章を尊重しろ、自分の頭の良さを不必要に発揮するな」という話になるのですが、好き勝手に言い換えるのは、やめましょう。

筆者が使った言葉をそのまま使っている限り、「筆者の文章をそのまま読みましたよ。この言葉はここに書いてあるので、使いましたよ」というアピールが採点者にできます。また、言葉のニュアンスもズレることはあり得ません。

しかし、「んーこれはこう言ったら似てるんじゃね?」と自分の頭で思いついて(ここがもう主観が入っている)、それを勝手に使うと、採点者は文章のどこを読んだかわからず、筆者が書いた文章を読みましたよという一番だいじなアピールが、できません。

確かに、「自分の言葉」を使わざるをえない時はありますが、それは、どこに目を動かしても傍線部の言い換え箇所が無いときに、初めてしぶしぶ、考慮するものです。


・読解力がないまま読書だけするな

読書がだいじ!!という人や「教養」を重視する人が多くいます。
確かに、最終的には、それら「も」だいじではありますが、読解力=文章に登場する表現に目を付けて客観的に読む力がないまま文章を読んでも、多くを誤読して曲解して頭の中に収容してしまうだけです。

ふつう、勉強や読書はすればするほど良いとされますが、やると力が落ちる・悪い手癖が付いてしまうというものだってあります。

読み方がままならないのに多くを読んでも、多くを誤解してしまうだけです。