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【後編】「言語」と「生」の思考宇宙:『ウィトゲンシュタインはこう考えた』(著:鬼界彰夫)を読んで

さて、前編においては『論考』の成立過程とその重要な諸概念を検討していくことで、ウィトゲンシュタインの「前期」思想について理解を深めてきた。本書『ウィトゲンシュタインはこう考えた』では、第四部以降が『哲学探究』を中心とする「後期」思想に関する解説となっている。

ウィトゲンシュタインは、その「前期」と「後期」において大きな転向を見せた。著者曰く、彼の哲学の主題は生涯を一貫して「言語と生」である。では、「後期」においては何が大きく変わったのか。それは、「独我論」の扱いであり、かつ「言語(論理)の厳密性への疑問」である。『論考』で一度示した「語りえぬもの」の境界線を再度検討し、より豊かな言語観・生世界観へと導かれるのが「後期」思想だといえるだろう。そこで、本記事では前編になぞらえて『ウィトゲンシュタインはこう考えた』に習いつつ、「後期」ウィトゲンシュタインの思考の展開を追っていく。主題は、「言語ゲーム」「私的言語批判」「魂を持つ私」である。


『考察』で振り返る『論考』の独我論

『論考』で一度は全ての問題を解決したと考え、哲学から引退したウィトゲンシュタインが、再びケンブリッジに赴いたのは1929年1月であった。『哲学的考察』(以下、『考察』)は、この時期に書かれた遺稿をまとめた著作である。

『考察』期の思考は一言でいえば『論考』の延長だ。『論考』は言語と論理について、言語とは世界の論理像であり、論理とはそうした言語が可能となるための条件である、という根本的見解を示した。『論考』を再整理するなかで、その未完の体系を補完しようとした試みの焦点となったのが「検証」「文法」「独我論」という三つの主題である。

中でも、前編であまり直接触れることのできなかった「独我論」について、ここで定式化された定義を与えたい。独我論は、「私」が世界に対して比類のない関係を排他的に持っているという特権的性質である。その関係を私が認識することにより「私」は「世界は私の世界である」ことを確信する。「私」はこの関係を「これ」と名付け、それとして認識する。「これ」によって指示される独我性とは、「私」の「現在」の体験のみが持っている実在性、生命性、躍動性であり、それこそ真の意味で「存在する」というにふさわしい性質であり、しかも具体的に記述できる内容を一切持っていない性質である。

「私」は「現在」の体験においてこの独我性を感じるからこそ、真の意味で存在するといえる唯一の主体なのである。それゆえ独我論の根底には「私の現在の体験のみが実在する」という思考(唯現論と呼ぼう)が存在する。しかし、「絶えず流れる、あるいは絶えず変化する現在を把握することはできない。我々がそれを把握しようと考える間もなくそれは消え去る。」(MS107, pp.1-2)。これは、「対象が当の性質を有しないということが思考不可能なとき、その性質は内的である」(『論考』4.123)でいうような意味において、「私」と「現在」が持つ内的性質である。よって、独我論と唯現論は命題によって語られるのでなく、その内的性質により示される。この独我論(と唯現論)はウィトゲンシュタインの思考の中で、何度も批判され蘇り、そして晩年の思想において、「魂を持つ私」という宣言に到達する。

『論考』と『探求』の分水嶺:論理の自然史的観点

『論考』と『探求』の言語観は、根本的に対立する二つの見地であると言われる。これは、ウィトゲンシュタインの哲学が「前期」「後期」と称されることの所以である。本書の著者によれば、その考察の転換が行われた時期は、1931年から1932年の1年足らずの間に集中しているという。これを、「TS231期の思考」と呼ぶ。「TS231期」において、『論考』の言語観を支える三つの原理(命題の意義と概念の確実性論理の超自然性命題の写像性)が一つずつ疑問に付され、批判され、否定されていった。そこから見出される『探求』の根本的な言語観とは、言語・論理の自然史的(自然主義的)観点と言えるものである。

数学と論理学の命題は必然的真理か?

通常は、数学と論理学の命題は、単に真であるというだけでなく、そうでないとは考えられないという意味で、必然的に真であると考えられる。たとえば「2+3=5」という命題は、誰が行っても、いつ行っても、どこで行っても真であり、他様の解答というものは論理的に正当な形で考えられないであろう。

他方で、自然界に関する経験的事実は、そうでないことも考えられるという意味で、必然的ではない。たとえば、我々の遺伝子は核酸からできているが、太陽系と地球の歴史が異なれば、別の物質からも生命なるものは生まれ得たかもしれない。数学・論理学と経験的命題(経験科学も含む)のこうした違いについて、それは数学と論理学が自然界の事実と異なった特別な真理を表現しているからだ、という考えがプラトン以来の哲学を強く支配してきた。つまり、形而上学に形而下学とは異なる地位を与えるという二世界説的なとらえ方である。

しかし、ウィトゲンシュタインは自身の内に暗黙裡に前提とされていた反自然主義を意識的に捨て、自然主義へと移行する。ここでいう自然主義とは、「数学と論理学は人間という一生物の生態に関する事実、(すなわち人類学的事実)であり、その限りにおいて自然的事実である」という見解である。この見解に、彼は「自然史(naturgeschichte)」という言葉を好んで用いた。これは、当初『論考』で前提としていた数学と論理学の必然性の問題に対して新しい検討を加えるものであるが、その徹底はより困難な問題を生み出す。なぜなら、この「自然史的観点」とは、ともすれば「2+3=5」といった命題が人間の慣習に関する命題であり、人間という生き物が存在しなければ「2+3=5」という命題には何の意味もなくなる、という主張であるからだ。これは、数学・論理学の「必然的真理」という性質そのものを批判する主張である。

「言語ゲーム」とは何か?

言語ゲーム的転換の本質は、言語をゲームとして見ることにあるのではない。それは、意味概念の根本的な転換、すなわち内容主義的意味概念から機能主義的意味概念への転換にある。『論考』において、命題は世界の像であり、世界に関してある事実を述べていると考えられていた。こうした言語観において文の意味とは、それが述べている内容に他ならない(内容主義t系意味論)。しかし、この内容主義的意味論は、叙述文以外の広大な言語の領域に適用することが難しいという致命的な欠点を持っている。

たとえば、「早く来い」という命令文の意味を説明するには、そもそも「命令する」といはどういうことであり、それが「述べる」こととどのように違うのかを説明しなければならない。「命令する」という行為がどのような役割を演じているのか、それは「述べる」という行為とどのように違うのか。このように命題(文)が演じる「役割」に即して意味を説明する立場を、機能主義的意味論と呼ぶ。ウィトゲンシュタインが到達した意味概念は、こうした機能主義的意味論の一種だ。

我々の生活は無数の行為の織り成す巨大なネットワークだ。ウィトゲンシュタインは、「言語ゲーム」という概念を通して、この巨大な行為のネットワークを、いくつもの典型的な言語使用局面、つまりある種の単純な劇(シュピール)の集まりのごとくみなそうとする。この単純な劇(典型的言語使用局面)を「言語ゲーム(シュプラッハ・シュピール)」と呼ぶ。

ドイツ語の「シュピール」という言葉には、「遊び」「劇」「ゲーム」といった意味が内包されている。「言語ゲーム」を理解するうえでも、特にこの「シュピール」の意味する「劇」という要素をイメージすると分かりやすい。各々の文の意味は、それが言語ゲーム(劇)の中で果たす役割に規定される。同様に、各々の言語ゲーム(劇)も固有の意味を持っている。それは各言語ゲーム(劇)が、我々の生活という大きなドラマの中で果たす役割によって規定されるのだ。こうした意味での「言語ゲーム」とは、我々の生活に繰り返し現れる活動のパターンである。それは人生全体の形として「生活の形(レーベンス・フォルム)」を構成する要素である。

クモが自らの糸で巣を織りなしてゆくように、我々人間は言葉を紡ぎながら人生という織物を織りなしてゆく。それは無秩序な織物ではなく、いくつもの型が交わりながら浮かび上がる複雑な模様を持った織物である。そのなかで繰り返し生じる生の「型」、つまり人生の様々な典型的な場面・典型的な言語使用局面が「言語ゲーム/劇」と呼ばれるのである。「人生という織物の型としての言語ゲーム」こそ、ウィトゲンシュタインの思考の展開において現れた最も進化した言語ゲーム観だということができる。

言語ゲームの多様性を心に留めない人は、「質問とは何か」といったことを問いたくなるだろう。――質問とは、私はかくかくのことを知らない、という言明なのか、あるいは相手にかくかくを教えてほしい、という願望の言明なのか?あるいはそれは私の心の不安定な状態の記述なのか。――そして「助けて」という叫びはそうした記述なのか。

『探求』S24

規則問題と「数学の正しさ」

規則問題を考えるにあたって、『探求』における数列問題が端的に示しているのは、言語行動の規範性、すなわち「正しさ」についての根本的な問いだ。教師が生徒に数列を教える例を通じて、ウィトゲンシュタインは、我々が「規則に従う」と言う時、その規則の理解がいかにして正当化されるか、そしてその根拠をどのように説明し得るかという問題を提起している。

本書では、『探求』において登場した仮想問題を通して、規則問題を純粋な形で扱っている。それは、次のような仮想問題だ。

【状況設定】
・教師が生徒に「+2」の規則に従って数列(例: 2, 4, 6, 8…)を続けるよう指示する。
・生徒は1000までは正しく数列を続けるが、1000を超えると「1000, 1004, 1008…」と異なる数列を続ける。
・教師は生徒に誤りを指摘するが、生徒は「1000以降では+4を足す」と解釈し、これを「同じ」で「規則的」と信じて疑わない。
【問題を理解するうえでの前提】
・この問題は、規則の理解に関する規範性(正しさ)の問題である。
・数列という明確な領域においても、規則の解釈が問題になることがある。
・生徒は意図的に間違えているわけではなく、自然にそのように振る舞っている。
【問題提起】
・生徒に誤りを説明することが難しい。生徒にとって今のやり方が「規則的」で「自然」だからである。
・教師も自身の正しさを説明する根拠を持たない。「規則に従う」ということ自体が、それ以上説明できない確信に基づいているからである。
【まとめ】この数列問題は、自然数や足し算に対する確固たる信念が、実際には説明不可能なものであることを示している。

しかし、個人的にはこの例えは「規則問題」を純粋な形で論じるうえで、まだ理解のしにくさが含まれていると思う。特に、本書においてはこの問題を説明するうえで、自然数列の公理系である「ペアノの公理」を援用し、ユークリッド幾何学が公理に変更を加えることで、非ユークリッド幾何学になるように、「非ペアノの公理系」を想定することができる、と紹介されているのだが、これが分かりにくい。「数列問題」で言わんとしている重要な論点は、通常我々が「同じ」ように「規則的」に「自然」に行えばいいと思っている、単純な足し算の操作が、(多数派の)人間に特有の「制度」に過ぎないという主張だ。それは、「次の数」という概念そのものを、我々が「物を数え上げる」という原初的で身体的な実践に基づいて理解しているという主張だと捉えられる。

もし、生徒が「1の次に2が来る」という関係性そのものを全く理解できないとしたら、彼はどのように数列を理解することができるだろう。「『1』と『2』は全く違う記号で、その間に何の関係性もないじゃないか」と生徒に強弁されたら、先生はどのように彼を納得させることができるだろうか。さらに、生徒が「『1』の次が『2』というなら、どうして『2』の次が『月』ではダメなんだ」と言ったらどうだろう。彼に、「+2」の規則に従って「1,3,5,7,9……」に続く数列を記述しろと言って、彼が「1,3,5,7,9,海,星,×,宇宙,IX」などと書き連ねてきたら、先生は彼にどう「規則」を教えればいいだろうか。もし、生徒が「意図的に間違えているわけではなく、自然にそのように振る舞っている」としたら、先生は彼に誤りを適切に納得させることができるだろうか。

この問題において重要なのは、規則が単なる記述ではなく、むしろ規範的な力を持つものであるという点である。たとえ単純な足し算であっても、それをどのように続けるかという規則の理解は、ある意味で我々の生活世界に深く根ざしたものである。それゆえ、ある生徒が1000以上の数列を誤った形で続けた場合、教師はその誤りを説明することができないという事態に直面する。なぜなら、教師自身もまた、その規則を「自明」で「自然」と感じるに過ぎないからである。

こうした数列問題が示しているのは、我々の数学的知識や論理が、実際には何らかの外的な基準によってではなく、むしろ我々の内的な確信によって支えられているということである。この「規則に従う」ということは、いわば言語ゲームにおける暗黙の了解のようなものであり、それ自体がさらなる正当化を必要としない原初的な実践である。

論理の必然性、そして「制度としての人間の島」

規則問題の最終的な決着は、人間は果たして他の島に移住することができるのかということにかかっている。他の島に住むとは、さきほどの生徒のような計算を、「自明なものとして」、「選択せずに」、当たり前のこととして自然にできるかである。これは、さきほどの「1,3,5,7,9,海,星,×,宇宙,IX」を理解できないように、思考不可能である。あるいは、もしそのようなことができた(他の島に移住できた)人物がいるとすれば、彼は基本的な語や計算の例による説明が周りの誰にも通じない状況に陥り、人は彼を「狂気」と呼ぶだろう。

「規則に従う」や「自然数」といった表現が指し示すこの人間の島は、我々の言語と思考の語りえぬ土台、しかも可能な唯一の土台である。それは我々にとって限りなく自明であり、身体の一部のごとく当たり前で自然な存在である。そして、これらはあくまで人間によって造られた制度である。しかし、制度とはいえそれは社会制度のように、人間が取り決めた規約ではない。それが単なる取り決め(可能な公理系のひとつ)であれば、別様の取り決めができたはずだが、「規則に従う」や「自然数」は人間にとって選択の対象ではなく、そこからすべてを始めるべき固定点だからである。これは、原-制度なのだ。

数学的真理が必然的であるということは、他の数的秩序が我々には想像すらできないことを意味する。このような「数学的真理」は、あくまで人間の島に属している。人間がそこに住み始めたことは、自然史の様々な偶然の結果であろう。我々は、「なぜこの島に住んでいるのか。他の島はどのような秩序を持つのか」と問うことはできない。なぜなら、我々はこの人間の島に永く住み続けるにつれ、人間の言語と思考がこの島の外延であるばかりか、その可能性の限界、つまり「他の秩序が想像すらできないように」進化してきたからだ。観察者がいかにこの島を外部から中立的に見ようとしても、この島の外部にいる自分を想像できないのである。これは、もはやア・プリオリと呼んでも差し支えないだろう。この島の発見により、ウィトゲンシュタインは自然史的観点と数学・論理学の堅固さを確保したのである。

しかしあるものが思考不可能であるとは、それが存在しないことを意味しない。それが意味するのは、他の数的秩序を人間は自己の精神の内部に取り込むことができない、ということである。

「私的言語批判」から「魂を持つ私」へ

独我論を否定する「私的言語批判」

ウィトゲンシュタインの後期思想の中核にある「私的言語批判」は、彼の前期思想において重要な位置を占めていた「独我論」の成立を原理的に否定する。もし独我論の論理的可能性を問題にしようとすれば、私秘性の可能性を問題にすればいい。その結果、私秘性が不可能ということになれば、いわんや私秘的な独我性など存在せず、独我論は内容を持たないことが導かれる。

私的言語とは、他者には共有できない感覚や経験を指示する言語のことで、話者である「私」だけが理解できるものだ。もし何らかの感覚や体験が私秘的であれば、それを体験する「私」はそれを名指して「これを他の誰も知ることはできない」というふうにその私秘性を主張することになる。主体がある性質を私秘的性質として認識するためには、必ずその性質を「これ」等と名付け、その上で「これは他の誰にも知ることはできない」ことを認識しなければならない。したがって、もし何らかの原理的理由により私的言語が不可能ならば、主体は私秘的性質の存在を認識できないことになる。それが私秘的性質が存在しないためなのか、存在するが私秘的であることが決して認識できないためなのかは問題ではない。ともかく主体は、私秘的性質の存在を認識できないのである。

この際に、彼が用いた批判は「私的命名批判」と呼べるものだ。つまり、私的言語における感覚の命名は命名ではなく、従って私的言語の語は感覚の名ではない(従って語ですらない)という議論である。ウィトゲンシュタインは感覚の私的命名を「右手から左手への現金の贈与」(『探求』§268)になぞらえる。

こうして私的言語の可能性は否定される。それとともに我々の感覚が私的対象であるという考えも否定される。それは、「痛み」等の感覚語は我々が直接体験する自分の感覚の名である、という「感覚語」に対する通俗的理解を否定することに他ならない。

「痛み」は言語ゲーム/劇の実践を名指している

ウィトゲンシュタインの新たな「痛み」概念の基本となる概念が「表出(オイセルンク)」である。表出とは話者が自分の現在の状態を記述するのではなく、記述とは違った仕方で自己の現在の状態を他者に示す言語的行為なのである。たとえば「痛い!」は痛みの表出であり、話者は何かを記述しているわけではない。これに対し「痛かった」は過去の事実の記述であり表出ではない。「私は痛い」という発話は私の感覚の直接的記述などではなく、泣いたりわめいたりする自然的表出の代理である。泣いたり、わめいたりする代わりに「痛い」と言うことを覚えることにより子どもは「痛み」という言葉を覚え始めるのである。それゆえ「私は痛い」という言葉は子供にとって泣くことと同じ役割を持っているのである。

こうした新しい「痛み」概念を通じて、まったく新しい言語概念が浮かび上がってくる。「私は痛い」という発話において、痛みの感覚、自分の状態の認識、訴える態度、そして言葉と身振り、これらは一体のものとして存在している。「私は痛い」という発話は、それらが一体となった一つの振る舞い、行為なのである。子供が「私は痛い」という表現をマスターするとはこの行為を自ら行えるようになることであり、それはそこに含まれる一定の感覚、感情、認識、態度、動作を自ら体験し、示しうることを意味する。ある表現をマスターするとは、それに伴う感情、認識、態度を体得することなのである。

それゆえ「痛み」とは感覚の名でなく、人間がこのようにして習得するある複雑な劇の題名として最もよく理解できるだろう。言語を習得するとは単に言葉の使い方を覚えることではなく、こうした劇を数多く体験し、マスターし、それを通じてより幅広い感情・認識・態度を自ら「知って」ゆくこと、それらを自ら生きてゆくことなのである。それは我々の生の様々な型を体得する過程であり、人間という存在になる過程そのものである。このように我々が言語を習得し、人間になる過程でマスターしてゆく様々な劇が「言語ゲーム/劇」なのである。

「痛み」とは感覚の名ではなく、一つの言語ゲーム/劇、すなわち実践の名なのである。それは「私」や「あなた」や「彼」という様々な非対称的な役割を内包する複雑んが言語ゲーム/劇であり、「痛み」の概念とは、このゲーム/劇を、それに付随する感覚・感情・態度とともにマスターしたときに、初めて人が獲得するものなのである。それは我々が現に生きる「痛み」概念なのである。それに対して旧来の「痛み」概念は我々が考えた「痛み」概念である。ウィトゲンシュタインの晩年の思考の根底には、生と一体となったこのような新しい「概念」の概念が存在していたのである。

しかし、ウィトゲンシュタインの後期思想は、この「私的言語批判」を超えて、「魂を持つ私」という新しい人間観に到達した。これは、言語ゲームに参入する「主体」とはどのような存在であるか、という宣言として捉えることができるものであり、彼の「生の思考」と「言語の思考」が最晩年において結びついた到達点である。「魂を持つ私」は、単なる社会的に形成される存在ではなく、言語ゲームの中で自らの確実性を賭ける主体としての「私」だ。

「私」を差し出し、言語ゲームに参入する「魂を持つ『私』」

「私」は次のような意味で特別な概念である。「私は信じている」と「彼は信じている」が我々の生の中で果たしている役割の違いを理解することなく、「信じる」という概念(従って「信念」という概念)の実相に触れることはできないのであり、このことはあらゆる事物の概念に当てはまる。つまり「私」という語は我々の生きるあらゆる言語ゲーム/劇に極めて重要な要素(変項)として登場するのである。

「私」という概念を規定している固有の「私」言語ゲームなるものは存在しない。「私」はあらゆる根本概念の言語ゲームに重要な要素として登場するのである。すべての言語ゲームに習熟した時にのみ、我々は「私」という言語ゲームに習熟するのである。そのときはじめて我々は「私」という概念を生き、「私」として存在するのである。「私」という概念はあらゆる言語ゲームの奥に宿り、言語ゲームそのものを成り立たせている根底の一部を成すものだともいえるだろう。それは我々の生の最も深いところに幾重にも織り込まれているがゆえに、最も測りがたく、触れ難い概念なのである。

ところで、一体いつ、ある存在が単に音声に反応しているだけでなく、名を知っているのだと言えるようになるのだろうか。それはその存在が、単に名を使うだけでなく、人や物には名があるのだということを知るに至ったときである。そしてそれは、この存在が「名」という概念を持つようになる時である。そして「名」という概念を持つとは、単に様々な名を使うばかりでなく、「名」という言葉を用いて「あの子の名はルーだ」等と名に言及できることである。そしてこうした名の概念の存在を決定的に示すのが「私はあの子の名を知っている」のような自らの名の知識を表明する言明なのである。

それゆえ「私は知っている」という言明こそ言語の言語性の源なのであり、言語の根源である。「私は知っている」という言明によりはじめて人は言語を本当に知るのであり、それによってはじめて言語が生まれるのであり、それによってはじめて言語を知る存在としての人が生まれるのである。真の意味での言語ゲームもまたここで初めて生まれる。言語の根源である「私は知っている」という知の言明は、同時に「私」の根源でもある。

「私は知っている」の固有の機能の探求においてウィトゲンシュタインはまず他の表現によって代行可能な機能を次々と取り除き、その後に残るものを固有の機能として同定しようとする。知識の内容を伝達するのでなく、誰にも自明なことの確実性を再確認するような役割をウィトゲンシュタインは「ここで私に間違いはありえない」という言明によって表現する。これは主張されている命題に対して、誤りの可能性を無条件に拒否し、排除する言明であるという意味で超越確実性言明(略して、超越言明)と呼びうるものである。それは当の命題の真理性を絶対に譲らないという宣言である。

超越言明において「私」は二つのことを宣言している。第一は、このことについて自分の見解がどのように他人と異なろうとも、「私」は決して他人の判断に従うことなく、自分の判断を絶対に譲らない、ということである。第二に「私」は超越言明において、もしこれが間違っているなら、私の全ての判断が放棄されねばならない、と宣言している。このことにより「私」はこの命題の確実性に対する担保として、認知し判断する自己である「私」そのものを差し出しているのである。

「私」と名乗るとは、魂を持つ者と成るということである。魂を持つ者で在るとは、自分の言葉に対し「私の言葉だ」と言ってそれを庇護し、自分の行為に対して「私の行為だ」と言ってそれを引き取る用意があるということである。付随するあらゆる帰結とともに自らの言葉と行為を慈しみ、それらの親となる用意があるということである。この「用意」によって人は担保とすべき「私」を生み出し「私」と成り、そうした「私」の存在を担保として言葉を持つのである。そうした担保が存在するからこそ、すなわち「私」が在るからこそ、他人は「私」の言葉に答え、「私」は他の「私」に答えるのである。そして「私」は「責任」を負いうる存在となる。

言語ゲーム・言語は公的論理によって規定されている。しかし公的理論はあくまで人間の活動の化石化した痕跡に過ぎない。それは言語ゲームに形を与えることはできても、力と命を与えることはできない。言葉が力を持ち、我々が言葉に動かされ、言葉を生きるのは、我々が言葉を通じて自らを魂ある「私」として在らしめるからに他ならない。

この、「魂を持つ私が、『私』の全存在を担保に、言語ゲームに参入する」という図式をもって、ウィトゲンシュタインの「生と言語の思考」は終着点を迎える。「生の思考」と「言語の思考」が複雑に絡み合い、その等根源の場として「魂を持つ私」を見出す。それは、決して語りえないし、測りがたいし、経験的に確かめ得るものではないという意味においては、ある種の「仮構」ですらあるだろう。しかし、そのような図式をもって、自己の全存在を差し出し、「私は…を知っている」と宣言することで、私は「人間」として振る舞うことができる。これが、ウィトゲンシュタインの人間観である。


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