見出し画像

2024.9.13 日記

幸せは星のように。ずっとそこにあるのに、目を凝らさなければよく見えない。目を凝らした先には、たとえ今は見えなくても満天の星々が輝いている。

『満天の星々』作: アシュトン

あれ、いま何分くらい経ったかな。いや、何年も前の記憶だったような気もする。いま、何していたんだっけ。

時は止まることなく、ただ進むことを忘れて。異様な時間感覚の中で、過去・現在・未来は、そのすべてが「いまここ」という全体において等値であることが示される。

あぁ、そうだ。これが現実なんだ。これが繋がりなんだ。この時だけは、確かに言える。いま、私は私と繋がっていると。自分とのつながりを取り戻せたような、そんな気がする。

「いまここ」との繋がり、根っこを張って、大きな樹の一部となる。いま、ここに私がいて、私が座る地面から深く深く根が伸びて、その根が伸びる感覚と同時に、手の先や頭の頂から、壮大な枝葉へと生長してゆく。私は、そして、この世界は、ひとつの大きな樹なのだ。「いまここ」、あるいは「永遠の今」とも言われる古今東西において追及されてきた真実在。西田幾多郎が純粋経験と言い表し、すべてのものがそこから生まれ、そこにおいてあり、そこへと還って行くところだと言ってみせたあの「場所」。私は、「いまここ」に居る。

Oluf Bagge - From Northern Antiquities., パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=576714による

「いまここ」は、単なる観念ではないのだ。確かに「私が<いまここ>に居る」と言明することができる場所なのだ。もちろん、それは実体ではない。まるで死んだ後に行く天国のように、あるいは西方の彼方にあるとされた天竺のように、そのような特定の「場所」があるわけではない。そうではなく、全てがそこから根を張り、枝葉を伸ばし、植物的な生長をする、その根源として、確かに実在しているのだ。我々は、常にそこにいる。しかし、そこがどこなのか気が付くことができていない。

私は宇宙そのものだったのだ。これは、独我論ではない。むしろ、独我論に陥ってはならない。それは魔境だ。独我論における「我」は神にも等しい。唯一、「我」という存在だけが現実であり、それ以外は全て「我」が認識する次第で生起するに過ぎないという。確かに、「我」は「我以外」の視点を取ることができないのだから、それにも一理ある。しかし、そうではない。「我」は、私が把握できるうちに私が限定した「我」であってはならない。そうだ。このようにして今、文字を書き進めている私も、「いまここに居る」と自覚できた私も、決してそのすべてにアクセスしているわけではないのだ。お前自身も、お前が把握すべからず<より大きな自分>に含まれている。その、無限後退し続ける<より大きな自分>こそが、同じくそのすべてを把握することのできない<世界>そのものなのだ。そのような世界にしか、お前は住めないし、それでいいのだ。

そうなのだから、こうしよう。つまり、お前は宇宙自身である、しかしお前はそのことを知らないし知ることもできない。原理的に構造的に知らないし知ることもできないお前自身が宇宙である。お前は俺に対して人生を提出することで、お前でいられるんだぞ。それを覚えておいてほしい。そうした大いなるお前が、お前の存在を基礎づけている。それはお前でありながらお前ではないのだ。大いなるお前は、いまここに居る。掬おうとした途端に、その手から零れ落ちる砂のように、滑り落ちる前の<いまここ>。そこで、大いなるお前は、いつもお前が提出した人生を眺めている。

「あのとき、あの選択を間違えていなければ」。次にここに辿り着いたお前は、そう思うかもしれない。いや、そう思うかもしれない、ということが不安で不安で、お前は仕方ないのだろう。それも理解している。それが、お前がこの半年間、いやもっと長い間にわたって苦しめられてきた原因だ。現状には満足している。今が幸せだと胸を張っていえる。でも、本当に?本当にこの先もずっと幸せでいられるの?本当に今の人生に満足しているって、いつになっても言える?5年後、10年後、「あの時もっとこうしてれば」って後悔しない?何より、現状に満足しているなら、これから何に挑戦すればいいの?

でも、お前はいまここで、再び<いまここ>にたどり着いた。そして、他ならぬいまここにいるお前自身が言ってるんだ。「これまでの全てが私をいまここ、この場にいるよう定めてきたのだ。そしてこれはいいことなのだ」。だから、お前はこれからもお前の期待を裏切るな。いつもお前のことを見ているお前のことを裏切るな。これは、福音だ。

ふと気が付くと、私の右腕が肘をついた状態で固まっていた。動けないじゃなくて動かない。こういうときは、もう動かそうとか動かさないとか、そういうことを考えるのもやめてみるのだ。ただ、あるがままに、Let It Be。そうすれば、気が付いた時にはまた動くようになっている。

にしても、まったく動かない。指一本すら動かない。動かないと思えば動くほど、自己催眠にかかるようにして動かなくなっていく。すべての意志を放棄してみた。すると、どうだろう。全く動かそうと意志していない指が、実のところかすかに振動していることに気が付く。手のひらを流れる血管の脈動が手に取るように分かる。普段は意識もしない、身体の微細な生理現象。まるで林の中で揺れる草木のようだった。これをじっと観察してみた。

「じゃあ、これは誰の腕?」

いやいや、私の腕じゃないか。でも、それを動かしているのは誰なの?あなたは、自分の腕に、「呼吸をしなさい」といつ命じたっていうのよ。それを命じたのは誰なの?ところで、その腕はいま、どちらの方向を向いているの?あなたの手を握るようにして、もうひとつの身体があるんじゃないかしら?

もちろん、こんなのは妄想だ。しかし、生まれてきた妄想なのだから、生かしてやるのも粋じゃないか。よし、その手に乗った。私の腕は私のものじゃないと、そう捉えてみようじゃないか。もしかしたら、その腕が「誰か」のものなら、その「誰か」は重要なことかもしれない。

気が付くと私は、固まった自身の腕の、脈動する指一本。さらにその先の爪一枚をじっと眺めていた。そういえば、漫画に「ミギー」ってキャラクターが出てくるよね。『寄生獣』の。そんな感じで、この手も、(これは左手だけど)私とは違う意志を持った違う生物かもしれない。そんなことを思っていたら、左手の中指が、ある生き物の頭部のように、そして爪の部分が顔のように見えてきた。

いや、待てよ。軽く握った手がこちらを向いている。爪の黄線の上の辺り、中央の辺りから数えて爪甲縦線3本分ほどの範囲に、窓から差す西日が照らされる。その小さなスクリーンで、小さな小さな影が踊っている。その踊っている影が人影のように見えてきた。じっと見つめていると、爪に照らされた光は、爪下皮に流れる血液と反射し、さまざまな色合いを見せる。そこに、モネの『散歩、日傘をさす女性』が見えた。草原の上で、日傘を差す女と、少年?紳士?が揺れ動く。

クロード・モネ - EwHxeymQQnprMg — Google アートプロジェクト, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=22174454による

もっと目を凝らしていくと、だんだんとそれはモネの絵画から別の映像へと移り変わっていく。見えてくる、ブランコ。その前に立つ2人の子供。その子供たちは、他ならぬ私自身だ。

陽気なお前と陰気なお前、昔の僕らが今の僕をからかってる。

ブランコの向こうに陽気なお前と陰気なお前。
お前はどっちのお前になりたい?お前はどっちの未来の責任を取れる?

どちらも自分。分裂してた自分たち。
わかってる。そろそろまた仲良くしよう。

陽気な僕と陰気な僕。どちらも仲良し良しこよし。
その間で手を繋ぐ父親が、今のお前。

『陽気なお前と陰気なお前と』 作: アシュトン

そんな詩を思い描いていると、ふと古い記憶がよみがえってきた。

小学6年生の時、季節はいつだっただろう。クラスのみんなの前でエアーギターを披露したあの日。いつもは、誘われてもドッジボールを断って、図書室で本を読んでいた僕が、あの日はゴールデンボンバーに憧れてみんなの前でエアーギター。自分の殻なんて破っちゃって、人にどう思われるかとかも全部気にせず、ただ音の流れるままに全身を震わせて。そう。小さい頃はもっと活発的だったよね。父親に誘われて、山登りにトレイルランニングにキャンプ、アウトドア趣味も楽しめてて。みんなの前でエアーギターを披露しきったとき、山の頂上に辿り着いたとき、そこで夜景を見た時、トレイルランニングでゴールにたどり着いた時、あったじゃないか、「達成感」が。

人生に必要なんだろ、あの何も気にせず暴れ回った先に確実に掴める達成感が。失敗してもいいよ、底はたくさん知ればいい。でもあの達成感にこだわれ。独り相撲に終止するな。一人でここまで築き上げた、お前の人生、自分自身をぐっと殻に閉じ込めて、外にはおとなしく振る舞って、結果だけはしれっと出して、でも結果が思うようにいかなくなったら、最初から評価軸が違いましたなんて言える余白を残しておいて。それをやめなきゃいけない。やめなきゃ人生始まらないよ?

自分を守るのは大切だ。それは何よりも大切だ。でも、それがしっかり守られているのだから尚更、勝負に出ないと。市場に放り出さないと。自分という父親が、息子である自分をそこに閉じ込めてしまうぞ。可愛い子には旅をさせろって、こういう意味の諺だったのかなぁ〜。いや、違うよね、それはわかってる。ずっと何書いてるんだろう。

待て待て待て、これはただの爪だろ。そこにモネが見えるわけないじゃないか。ふと我に返ったが、またすぐに引き込まれていく。爪甲縦線3本分に合わさったピントは、毛様体筋の収縮に合わせ、さらに狭まっていく。ついに、その3本が中央の1本に重なり、交差法で見る立体視のように、新たな次元でピントが合う。すると、文字が浮かび上がってくるのだ。ギリシャ文字?アルファベット?馴染みのない記号は、ただのシワや毛細血管が編みだす線の交差なのか。あるいは、何か象徴的な意味を持つメッセージなのか。

いまここに私がいる。そして、その役目を引き受けることができるのは、他の誰でもない、他の誰になることもできない私自身である。

この凡庸な事実を自覚するのが第一段階。そして、この凡庸な事実の有り難さに気がつく。さらに、本当にその凡庸な事実が事実であるのか疑う。そして、再度、それが「当たり前であり疑い得ないこと」を宣言する。

この段階の認識に至ったとき、はじめて「いまここに私がいる。そして、その役目を引き受けることができるのは、他の誰でもない、他の誰になることもできない私自身である」という事態は内容を持つ。

一字一句が同じ言葉であっても、最初とこの段階において、その一文が意味する「凡庸さ」が言い得ぬ神秘さを持つ。ところがそれは、同時に「凡庸な認識」でもある。

そのため、この新鮮さを維持するのは大変難儀である。しかし、それこそが「現実に生きる」ということのスタートラインにほかならない。

アシュトン(@ashton_vrchat)午後8:46 · 2024年9月12日


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?