そのまま。
『オカン』なんていう便利な言葉を使って、母親を自分主催のイベントでフランス語の前説をさせたり、
SONYのサイトで無理やり文章を書かせて、親子リレーコラム連載を一緒に担当させたりなんてした。
私が30代になってからの話だ、こんなのは。
ただ、1980年代の阪神地域には、そんな便利な言葉は存在しなかった。
だから私は、こう呼んでいた『ママ』と・・・。
この言葉に、その後とんでもなく苦しめられるとは当時思いもよらなかったが。
そのママは
大学時代、世間的に学生運動が盛り上がっていたらしいが、
高校時代に既に経験済みだったため、学生食堂でひとりアコギ片手にボブ・ディランを歌っていたという。
そんなノンポリヒッピーなカレッジライフの後は、1970年に開催された大阪万博のコンパニオンとして働く事に。
ただ、最初に決まった某日本大企業館とは研修時に喧嘩別れ。
が、親に示しがつかないと、ある外国館の面接を受ける事にするが、何故か着物姿で向かったという。
その為、ほとんどタイプライター試験がおぼつかなかったらしいが、持ち前の愛嬌と着物という出オチで乗り切ったらしい。
てな感じで気が付けば外国暮らし、そして帰国して、後にバブルが来る前に勝手に弾けてしまう我が父と結婚するはめに。
で、私が1978年2月2日に生まれるわけだ。
だが、私が幼稚園年長の時、先述のバブルが来る前に勝手に弾けた我が父と見事別居して、実家である阪神地域の芦屋市へと戻ってくる。
・・・と、駆け足ダイジェストでお送りしたが、ここからがママと私との深くも濃いい(?)話になる。
164センチで45キロの体型からは見掛けも寄らず、ママは常にパワフルだった。
私が小学生低学年の時、細腕にも関わらず片方に同級生をひとりずつぶら下げて筋肉モリモリポーズを取ったりしていた。
完全に男親のする技だ。
街頭テレビで力道山を観ていた世代でプロレスが好きだったため、こういう力技が得意だった。
同じDNAが流れていたのかプロレスにはまっていく私に、ある日ママはこう言った。
「ママね、昔、女子プロレスラーだったの。でも体重がないから、ベルトは取れなかったんだけどね」
アホな私が、それを信じないわけがない。
疑う余地なく、翌日には学校中で先生、生徒、教育実習生誰かれ問わず話しまくっていた。
その後、どうやらママは、とんだ恥をかいたらしいが、そんなのは知った事でない。
本人の口が災いの元である。
まぁ、裏付けるわけでないが、本当に当時のママは女子プロ並みに強かった。
プロレスごっこをしては、スリーパーホールドで締め落とされ、泡を吹かされた事もある。
漫画ばっかり読んで勉強しなかったら、電話帳ほどの分厚さがある漫画雑誌を奪い取られ破り裂かれた事もあった。
りんごを握り潰すパフォーマンスをした外国人レスラーを思い出し、むちゃくちゃ縮み上がったものだ。
女手ひとつで育てていた事もあり、とにかく厳しくて怖かった。
ある夜、怒られて泣き喚いていると、近所迷惑を考えたママは車で近くの山へと連れて行かれた。
不良でお馴染みの高校が近くにあり、その上、野良犬が吠える山。
震え上がって動けないでいると、引きずり下ろされ、置いて帰ろうとした・・・、容赦なさ過ぎだ。
何とか私が中学3年生になった1992年、「ずっとあなたが好きだった」というドラマが大流行した。
いわゆる、“冬彦さんブーム”というやつである。
要はマザコン具合をデフォルメした冬彦さんという登場人物の奇怪さが人気を博したわけで、
いちドラマとしては誠に引き込まれた作品であった。
しかし、多感な中学生たちが、その話題を放っておくわけがない。
私とママの関係を、冬彦さんとそのお母さんの極度なマザコン状態に置き換え、イジリ始めてきたのだ。
それ以前からにも、ママとの関係をイジリ出してきた彼らにとって、冬彦さんは勝手の良い題材だったのだろう。
そのイジってきたメンバーの中心人物たちが小学校からの同級生で、
家族ぐるみの付き合いをしていた奴らだったというのもおもしろい。
つまり彼らからすると、ステレオタイプに大人びた独立した中学生を演じているのに、
母親と仲の良いままを保っている友達がいたら厄介だったというのがあったのだろう。
でも申し訳ないが、こちらは自分の事しか興味ないし、
「あいつ悪ぶってるけど、実はお母さんの事を『ママ!』って呼んでるぜ!!」とか暴露するわけがない。
我の保身の為に友達を貶めるという彼らは、ある意味人間味がある。
今となっては落ち着き払って分析が出来るが、当時は初めてぶち当たる“ママ問題”にとんでもなく苦しめられた。
というか、非常に迷惑だったというのが本音である。
誰にも迷惑かけていないのだから、人ん家の状況は放っといてほしいという感じだった。
近くのスーパーにママと出掛けても、同級生たちがいたら慌てて隠れたりしたものだ。
当の本人であるママには面と向かって何も言えず、しおらしくはにかむ彼らも、
いざ本人がいなくなったら「派手だ!」、「煙草吸っている!」、「学校にいた!」と好き放題言ってネタにしていた。
最後の「学校にいた!」に関しては、父兄参観やPTA会議だからいて当たり前なのだが、何か言いたいのだろう。
もちろん、ママという呼び名も言葉狩りにあい、彼らの前では言えなかった。
ママという言葉ほど、思春期の子供たちから馬鹿にされる和製英語はないだろう。
家から少し離れた私立の高校に行ってからは、中学校ほど言われなくなったが、それでも言いたがる奴はまだ若干残っていた。
流石に大学生になると我の保身の為に身を貶める感覚も無いのか、
大学の同級生たちは愉快な豪快なお母さんという捉え方で面白がってくれるようになった。
社会に出てからもそうで、ファンキーなママというイメージを持ってくれ、
「ウチの母親は、こんなんじゃない! 素敵だ!」なんて言って、ママと知り合いたちが一緒に飲んだりまでしている。
あれだけ蔑まされたママという言葉も、こちらが使わずとも勝手に「ママ~!」などとみんな呼ぶ始末。
気が付けば、私よりも人気のある存在になっている。
不思議なもんだ。
ママ自体は、中高時代の事を未だに覚えているのか、ママという言葉を避けて、
いちいち「淳史に『お母さん、それは駄目やって!』と言われたの!」と気を遣って言葉変換をしてくれたりしている。
もう15年以上前になるが、“オカン”をテーマにした本があり、そこから映画、ドラマに派生して大ヒットした事から
オカンという言葉を使わない別地域の人間までもが間違えた意味で流行旬に感化されて、「オカンがさ~」なんてほざいて
母親を大切にする自分を演出して、女子の気を惹こうとしていた。
そんな奴に限って中高時代、母親の存在を封印しようとしていただろう。
そうそう、それから、中高時代にママという存在を馬鹿にしていた連中にも、「私は何も間違えてなかったでしょ」と思っている。
結局、一貫してママという存在を一度も封印しなかったのは何でかというと、ずばりママが愉快で面白かったからだ。
最近では友人たちから、ママの言葉を知ったりする事も多くなった。
2011年の東日本大震災が起きた時、阪神淡路大震災の話を振り返りながら、私の友人にこう言ったという。
「家が全壊したんだけどね、一番最初に淳史の制服を瓦礫の中から引っ張りだしたの。何せ、学校に行かしてやらないといけないと思って」
初めて聴いた話だっただけに、その責任感には驚いたものだ・・・。
とある暑すぎる夏の日には、私のTシャツに丁寧にアイロンをかけながら、こんな事も言っていた。
「あんたにとってのTシャツは、みんなにとってのスーツなんだからね」
わかりやすいサラリーマンにならず、フリーランスでヤクザな仕事をする私を気遣ってくれている。
決して溺愛する事なく、責任感だけで育ててくれた。
『あんたがグレたら刺し違える気だった』とも言われ、
本当にグレなくて良かったと今更ながら想う。
くわばらくわばら。
3年前に結婚した今も、同じ芦屋市内に住む
そのママのもとを頻繁に家内と訪れては
村祭の打ち上げかという程の食事を振る舞ってもらっている。
まだまだ、子育ては現在進行形なのかも知れない。
こちらからすると、ありがたやありがたやだが。
私と言えば、昔と変わらずの呑気な子供そのままである。
相変わらず
ずっと
そのままの関係性が続くのだろうな。
2023年【母の日】。
45歳の私、75歳の母を、ふと想い返してみたりした。
おあとがよろしいようで。