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語られないこと、語れないものは何?

スロウな本屋さんのフラワー読書会『ことばが変われば社会が変わる』(中村桃子・著、筑摩書房)に参加した。
進行役はてつがくやさんの松川えりさん。
 
「ことばに自覚的でありたい」「変わること、変えることを恐れないでいたい」と力が湧いてくる読書と読書会だった。


(以下ネタバレを含む感想です)
 
この本は、“「ことばが変わったから社会が変わる」という視点から、新しいことばの普及や流行語が起こす社会変化に注目することで、ことばが社会を変化させるメカニズムを明らか”(p.8)にしている。
 

「ひとの配偶者の呼び方がむずかしいのはなぜ?」問題

 本の帯にある「ひとの配偶者の呼び方がむずかしいのはなぜ?」は、私の長年のモヤモヤにドンピシャだった。
自分のパートナーは「夫」と呼ぶのに、他人のパートナーは「夫さん」と呼ぶことができない。
いつもモヤモヤしながら、「ご、ご主人は?」とか「だ、旦那さまは…」などと言っている。
 
こんなモヤモヤを抱えている人は、実は多いようだ。
この本で紹介された「日経2023年調査」によると、現在、配偶者を「夫」「妻」と呼ぶ人は、以前より増えている。
しかし、他人のパートナーは「旦那さん、旦那様」「奥さん、奥様」と呼ぶ人が多数派なのだ。
このことについて、著者は、調査への様々な意見や著名人の発言や扱われ方(松山ケンイチの「嫁」発言、「大谷翔平の妻」へのメディアの呼び方)、SNSの反応、歴史的に配偶者の呼び方にどんな意味付けがされてきたのか、を紹介し、以下のように述べている。

パートナーの呼び名に関する問題の核心は、他人のパートナーは丁寧に呼びたいが、「妻/夫」には丁寧さが薄いため、「奥さま/ご主人さま」を使い続けなければならない

(p.175)

多くの話し手が、「奥さま/ご主人さま」は避けたい」という自分の考えよりも、「他人のパートナーは丁寧に呼ぶ」という言葉づかいのルールを優先している

(p.175)

「主人」の〈丁寧な呼び名〉という意味は、〈夫婦の主従関係〉というより、〈高級感〉からもたらされた可能性

(p.175‐176)

この箇所を読んだ時、すごく腑に落ちた。
 
まさに私は、自分の考えより言葉遣いのルールを優先させている。
そして、話す相手を尊重したいから、丁寧に呼びたいし、ルールに沿いたいと思っている。
 
なによりも、相手を「ギョッ」とさせて、関係に摩擦を起こしたくない。
摩擦を起こすくらいなら、自分の意志やモヤモヤを抑えようって思ってしまうのだ。
 
相手を尊重したいと言いながら、結局自分を守りたいんだな…。
変わること、変えることが怖いんだな…。
 
この本は嬉しいことに、最終章に「パートナーの呼び名問題」解決編がある。
そして、メディアや自治体、企業などで、呼び名を対等なものに変えていこうとする具体的な動きがあることをこの章で知った。
最終章を読みながら、とても勇気づけられた。
 
社会が変わること、誰かが決めてくれることを待つのではなく(待ってたら、あっという間におばーちゃんになってしまう!)、少しずつでも自分が変わろう、変えていこう。
 
これから、ひとの配偶者を呼ぶ時、「ご主人」「旦那さま」ではなく、「パートナーの方」と呼んでみよう。
とは言ってもビビりなので…、身近な人と話す時にまず使ってみて、少しずつ使う範囲を拡げてみよう。
読書会で「パートナーは、ビジネスパートナーなどでも使う」と指摘があったし、使いながら使いづらさを感じる時もあるだろう。それも含めて、実験だ。実践しながら変化させてみよう。

あらたなモヤモヤ

「ひとの配偶者の呼び方がむずかしいのはなぜ?」問題の霧は少しずつ晴れてきたが、別のところで、あらたなモヤモヤも湧いてきた。
 
私がこの本の中で印象的だったのは、作者が紹介した哲学者M・フーコーの指摘だ。

フーコーは、ことばは単に社会の変化を反映しているのではなく、ことばで語ることによって、その語っている現象が社会的に重要な概念になると指摘した。

(p.5)

確かにそうだ。
「セクハラ」「ちかんは犯罪」「LGBTQ」…、その言葉があることで、「ないもの」にされてきたものが、確かに「あるもの」となり、重要なものとなる。
 
では、今、語られないこと、語れないことって何だろう?
 
そこに「ある」のに、重要だとされていないもの、「ない」とされているものは何か?
 
そしてそれはなぜ語られないのか?語れないのか?
 
私は、このことを読書会で皆さんに聞いてみたいと思った。
 
私はずっと〈性〉〈セクシュアリティ〉について語りにくさを感じていた。
そしてそれをずっと変えたいと思っていた。
 
自分の二次性徴に伴う身体の変化に嫌悪感があったし、
初潮を迎えた日の状況と暗く沈んだ気持ちを昨日のことのように思い出す。
 
中学一年生の時、生理でプールの授業を休んだ時、
「オマエ、アレナノカー?〇〇、プール入れないんだってよー!」とニヤニヤしながら言いふらした男子の顔と名前を今もありありと思い出せるし、その時恥ずかしくて下を向いて黙って耐えた自分を思い出すと悔しい気持ちでいっぱいになる。
あの時に戻れたら、その男子に、
「はい、生理中ですよ。それが、何か?」って、思いっきり冷ややかに言い放ってやりたい。
 
読書会では、私と同じように生理中に嫌な思いをされた方がいて、この悔しさはきっと多くの人が体験していることだろうと思った。
 
他にも、ブラジャーが必要だったのに、母親が気づいてくれなかったことがとても嫌だったという話もあった。
 
スロウな本屋の小倉さんから、「性教育」に関する書籍や絵本を購入されるのが、お母さん達だけでなく、お父さんもいらっしゃると聞いて、時代が変わってきていることをとても嬉しく思ったし、私がスロウな本屋さんで「性」に関する絵本を選んで息子と読んだ日々のことを思い出した。

私は、息子には自分の身体の変化をポジティブに捉えてほしい、他の人の身体も大事にしてほしいと望んでいた。でも、どのように伝えたらよいのかわからずにいた。
そんな時にスロウな本屋さんで教えて頂いた本の数々はとても力になった。
 
そして、自分が生理中の時は、生理がどのようなものか隠さず息子に伝えてきた。
また、息子が小学校まで住んでいたマンションのカフェのトイレにはナプキンが常備してあり、息子は当たり前に目にしていた。
 
参加者の方がおっしゃっていたが、朝ドラ『虎に翼』で寅ちゃんの生理痛が重いという描写も画期的だったと思う。生理痛がどういうものか、それには個人差があることが朝ドラで描かれるなんてすごくいい。
 
また、子宮の疾患による重い生理痛や体調不良について、伝えないと学業や仕事の上で自分が不利になるという切実な理由から、オープンにしたという話もあった。
 
皆さんの体験に基づく話にハッとしたり、共感しながら、頭の中がグルグルしてきたところで、
松川さんが、対話の内容の〈「性」について語れない、語りにくいこと〉について、
①「健康」に関すること
②「身体」の変化に関すること
③「性欲」に関すること
と分けて下さった時、自分の抱えるモヤモヤが焦点化されてきた。
 
自分自身の体験やジェンダーという概念を知ってから、色々なことを実践してきたけれど、
今、私にとって、語れない、語りにくいことって③の「性欲」についてなんだなぁ。
 
参加者の方が、「〈性〉についての話題は家庭内でタブーになっていた」「〈性〉について話すことは恥ずかしいという刷り込みがあった」「母とセクシャルなことは話したくないと思っていた」とおっしゃっていた。
 
参加者の方の話や私自身の体験からも思うことは、身近な他者であり、時に子にとって絶対的な権力者である「母」によりタブー化されたことって、ずっと隠され、語りにくくなるのかもしれない。
 
ではどうして「母」たちは、〈性〉をタブー視したのだろう?〈性〉を語らなかったのだろう?
今はまだわからないが、今後考えてみたい。
(あー!今、母が生きていたら、直接聞けるのになぁ!)
 
この本では、“セクシュアリティは語られることでつくられる” “セクシュアリティが何なのかは、性について語られ、表現されることによって(言説によって)つくり出されていく”(p.65)と指摘されている。
“「セクシュアリティは、両脚のあいだではなく両耳のあいだにある」” (p.66)という言葉も「まさにそうだ」と思った。
 
女性の性欲について(少なくとも私は)語りにくいのはなぜなのか?
 
また、以前NHK+で〈アセクシャル〉という「他者に対して性的欲求・恋愛感情を抱かないセクシュアリティ」の特集を観た。
私が今まで、「性欲がない人」のことが見えていなかったのはなぜだろう?
 
見えないもの、語られないことから見えてくるもの、聞こえてくることに目を凝らし、耳を澄ませてみたい。
 
〈性〉はアイデンティティ、実存、生きていくことに関わるとても重要なことだと思うから。

これから考えてみたいこと

その他、話を聞いていて面白かったのは、“男性も「見られる客体」になった” (p.43)についての参加者の見解の違い。
この本で紹介されていた、「男性ダンサーを前面に出したクラシックバレエ公演の広告」(『朝日新聞』2016年6月27日付、28頁)について、私は「いいな♪」と思ったけれど、「いやだ」と感じる方もいた。
 
私が「いいな♪」と思うのは、バレエの美は身体美だと思うことと、自分がどうしても惹かれる人間の身体のパーツがあり、それを「見たい!」という欲望があるから。
 
でも、逆に女子ダンサーがこの広告のようにただ身体を強調して並べられていたら、不快に思うだろう。
 
この広告が「いやだ」と感じる方の嫌悪感はどこからくるのだろう。
以下のような理由だろうか?

・自分(女性)がされたら嫌なことを男性でしているということ
・外見に優劣をつけること
・見たくないものを思いがけず見せられること(この場合は新聞広告。インターネットでも性的な広告は溢れている)
・身体を消費すること
 
身体を消費することに関しては、私は一般人、特にこどもの身体の消費には嫌悪感とともにあってはならないことだと思うが、ダンサーはOKだと思っている。ダンサーは身体が「芸術」であり「商品」だと思うから。
うーん、でも、人の身体を「商品」って表現するの抵抗感があるなぁ…。
 
むずい。
 
また、「見る・見られる」ということについて、誰かと哲学してみたいな…!
 
参加者の方からの、語られる相手に対して「配慮」がない時に、その話題は不快になるのでは?という指摘にハッとした。
 
はあぁー!
今回は、いつにもまして振り返りがめっちゃ長文で、自分でも驚きだ。
 
他にも「女子力」「GIRLS POWER」についての対話も面白かった。
“女子は、まず、きれいにならないと、強くなれない” (p.115)という箇所から、「美容男子」や「自己肯定感」の話まで、とても興味深い。

読書会の最後に参加者の方からの、
「弱くてもいいじゃない」
ということばに胸を衝かれた。
その方が言われた「弱さ」は「やさしさ」や人と助け合える「しなやかさ」。

「弱くてもいいじゃない」ということばは、今もお守りのように心の中で光っている。
 
とても良い読書と読書会だった。

 
スロウな本屋さん、松川えりさん、参加者のみなさま、ありがとうございました。

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