一片:二月十一日 夜
自分という人間は、変化を好まない。
ただ、そのままでいると今日も明日もその先も
同じ人間でいる気がして、それが少し今は怖かった。
花を買った。フリージア。
花の色から「浅黄水仙」、甘い香りから「香雪蘭」とも呼ばれているらしい。
気まぐれに選んだものの、気に入っている。
「感情の発露」について、少し残しておこうと思う。
自分は感情表現が得意ではなく、別の媒体を介して表現することで
バランスをとることが多いことが今更になって気づいた。
それは物であったり、文字であったり、写真であったり、踊ることであったり。
文字や踊ることが自分になかったら、
物の価値を金銭的尺度で見ながら表現するような典型的な昭和気質なことを乱発するところだったので、そうならずよかったと心から今は思う。
多少、酒を入れているので取り留めのない足跡となるかもしれないが、
「感情の発露」が苦手な人はどこかでバランスを取らないと
生きていく上で何処かで瓦解すると思っている。
なぜ、「感情の発露」が苦手なのか。
それは人格形成、生きてきた道程の中で自分を歪めないと保てることが出来なかった。生きることが出来なかったが故の結果だと私は思っている。
要は生きる上での帳尻合わせだ。
しかしながら、感情というのは発しないと自身の中で蠢きつつ付ける。
其れは生き物なので、生まれたら自身の中で生き続ける。
そして、放っておくとドロっとする。
そんなドロッとした感情は大抵救いを求め、人に手を差し伸べる。
ただ、
人に対して発露が出来なかったからこそ蠢き続けた感情だ。
そう簡単に自身では差し出す手は出てこないだろう。
幾千の時間、幾年の時を経て手を差し出すことができる人が居たとしよう。
その時、自身の手はどうなっているか見えているか?
そして、相手は自身の手を握り続けることができるのか?
大体の人は耐えられないだろう。
もののけ姫の祟り神の瘴気を浴び続けるようなものだ。
だから、結局自分が生んだ感情の始末は自分でつけるしかないのだ。
それはどんな方法でも構わないと思う。
居酒屋で見知らぬ若人に説教を垂れるでもいい。金銭で成立した性のはけ口を見出すでもいい。酒で頭の螺子を外して我が侭に動くもいい。
ネット知り合った見知らぬ人間に虚飾した「本当の自分」だと思っている一側面で話し続けるもいい。
それで自分の両腕で抱えられる大事だと思える人、そして自分自身を支えられるのならするべきだろう。
単純に私はそれはしたくないし、できない。
自分の生き方的なものだろう。行儀良く言えば
それは「美学に反する」から。
幸い、初めたきっかけは異性にモテたいという不純な動機だったが、
踊ることは続けられている。ブランクはあれども。
どこを目指しているわけでもない。今の自分の感情の発露。
その感情の共感性を他者に求め、そして何より自分を救うことのため、
好きなこと、自分が誇れるものを誇れるままでいるために続けている。
どれだけの人が共感してくれれば満たされるのか、
それは人数なのか、特定の人なのかはわからない。
多分、今は特定だろう。
私はこれからも踊り続ける。
「感情の発露」と「自分を見捨てないため」に。
未だ、寂しさとこの生きている「感情」は隣にいる。