一片:九月二六日 よる
この歳になって折角気づけたことなので残そうと思う。
人は、というと範囲が広いから言い換えよう。
ある一定数の人は、歳を重ねると記憶の共有を求めたがる。
それはなぜなのか。
歳を重ねるごとに肉体的、社会的、その他めんどくせーことも含めて
やりたいこと、やれることの活動範囲が限られるから
どんどん自分の中の引き出しが減っていいく。
これはしょうがないことだし、モチベーションだったり、
気がかりと言い訳づくりと、歳を重ねたからこそできる諦念が
為せることだからそれはしょうがないということとして。
そうなるとどうなるかというと会話の中での共感性が薄くなるわけで。
歳を重ねると社会性が備わるわけで、お行儀の良い共感性で人と接するから、自分が感じる共感性の純度が下がる
タバコや酒、麻薬と同じもので、物足りなくなる。
しかしながら、自身もお利口な人との距離感を覚えてしまったがために
若かりしころの一方的な共感性をぶつけて、そこからのくじ引きをするほどの体力がなくなるわけだ。
これはほどほどに生きた我の強いお利口さんが陥る典型だと思う。
そんなわけで、そうなった人たちの末路は自分の人生の経験というバックグラウンドの中から「当時の心を打った記憶」の共感を求めるわけだ
禁煙中の人間がニコ/タールの強いタバコを吸うようなものである。
手っ取り早くパンチの効いた感触を味わえるからだ。
聞かされる方は溜まったもんじゃないというのもわかってるから、
酒でそこらへんの「気遣い」をぶっ飛ばして一時の快楽を得るわけだ。
これが万人がそうだと言わないが、少人数とも思わない。
そう思うと、大人はそれとなく上手くやって、それなりに充実感を得ている日々を送っていると思いきや、延々と瘡蓋になりかけた傷口に我慢もできずに剥がしては晒してを繰り返しているわけだ。
大変なことだ。
未だこの感情に名前はつかない。