地獄で待つ
恋人が蒸発した。
尤も、こいびとなどとは私の勘違いだったらしい。
いつものように、夕食の支度をしようと彼のアパートを訪ねると、大家のおばさんがボロい扉の前で私をかわいそうなものを見る目で見た。
三日分の常備菜になるはずだった少し良い豚肉と、いつもより安かったほうれん草と、その他諸々が出番を失って揺れていた。
「マヤちゃん、それ、ヒモ男ってやつだよ。絶対、別れた方がいいよ。」
同僚が、彼のことをそう評した。あれはいつのことだっただろうか。
そうかなあ。でも私、貢いだりしてないし。苦笑いしながら、そう答えた気がする。
大家のおばさんに曰く、彼の家を訪ねてきたのは私で三人目だそうだ。
一人は封筒に入った札束を持って。
一人はアルコールとタバコを持って。
二日も続けてインターホンを鳴らし、ボロい鉄筋の階段を揺らすものだから、どうしたものかと考えあぐねていた矢先、三人目が来た。今度の女は両手にいっぱいの食材を買い込んで。
大層苦い顔の、(いや、酸っぱい顔かもしれない。ともかく、話したくて堪らないのに話し辛そうな顔)大家のおばさんの話は、私の耳を前から後ろへ流れていく。
一方私は、この人が大家さんだったのかあ、とか、口元の小皺にファンデーションが埋まっちゃってるなあ、とか、そんなしょうもない考えばかりが頭を巡っている。
「だいたいねえ、ここに住んでた人。あなたは知らなかったかもしれないけど、人殺しだなんだって、この辺でちょっと噂になってたのよ?」
「エッ、あ、まあ、そうですね……」
そんな為体だったから、おばさんの鋭く潜めた声についつい体が反応して震えてしまったし、知らない振りができなかった。
−−……知っている。酔った彼が、話してくれたから。
しまった、と思った時にはもう遅く、おばさんの目は爛々と光り吊り上がっていく。
泡でも飛ばしそうに口角を戦慄かせて、信じられない、と半ばヒステリックに喚いた。
「あなたも知ってて付き合ってたのね⁉︎」
あ、そうか。他の二人にも言ってたんだ。
ほんとうに、こいびとなどとは、甚だ私の勘違いだったのだ。
私と彼との出会いは、大して面白くもなければ、運命的でもなく。
今にして思えば、愛してるだとか可愛いだとかをベッド以外で囁かれた覚えは無いし、付き合おうとか、明確な言葉も、なかったのだ。何一つ。
仕事帰りに初めて入った居酒屋でカウンターに通されて、隣に並んだ知らないおじさんの体温に辟易しながら酒を飲んでたら、声をかけられて、向こうも一人だったから一緒に飲んで、済し崩しに彼の家に行って……。
それから、一年半。
毎日連絡して、三日おきに食事を作りに彼の家に行った。
朝になれば彼の家から出社して、また三日経ったら会える、と指折り数えて。
それでよかったのに。
「……明日、仕事……。」
玄関で座り込んだままの冷たい体にため息を落として、ダルいなあ、なんて誰もいないフローリングに言葉が反響する。
朝。
カーテンの隙間から光が瞼を突き刺す。
アラームを止めて、欠伸を噛み砕きながら支度して、寝癖の取れなかった髪は、えいやと適当に結んでしまう。
昨夜拵えた小さな弁当と麦茶の入った水筒を掴んで鞄に詰め込んだ。
最寄りの駅は学生や会社員でそこそこに混雑していて、そのほとんどが眠たい目を擦りながらスマートフォンと手を繋いでいる。
私は、というと。
毎朝メッセージを送り合っていた相手がいなくなってしまったため。
こうしてぼんやりと周りの人間を眺めている。
そこそこの人が乗った電車が動き出して、やがて隣の人と肩がくっついて、そこそこの満員電車が会社の最寄り駅に着く。
大して昨日の通勤風景と変わり映えしないはずなのに、寂しい寂しいと騒ぎ立てる胸に知らない振りをしてまた歩き出す。
大して重要でもない書類を作って、大して重要でもない会議をして、大して重要でもない問い合わせをして、大して重要でもない上司の説教を聞き流して、昼。
「マヤちゃん、お昼行こうよ。」
大して重要でもない同僚の誘いを笑顔で受けて、大して重要でもない雑談をして、大して重要でもない……。
「あ、そういえばマヤちゃん、昨日も行ったんでしょ。ヒモカレシのところ。」
ピタ、と、箸が止まる。安かったほうれん草が出番を失ってまた揺れる。
胃に石でも詰まったみたいに、急速に食欲が減退していく。
「うん、行ったよ。」
うげえ、とあからさまに顔が歪む。そんな顔するなら最初から聞かなきゃいいのに。
「で、今日も朝帰り?ねえ、ほんとに幸せなの?それ。」
うるさいな、前にも言ったでしょ。
「幸せだよ、それに、あの人ヒモじゃないよ。だって私、お金渡してないもん。」
私は。他の人は渡してたみたいだけど。
「それに三日おきにしか会わない、なんて、絶対変だよ。他に女、いるよ。」
余計なお世話。
「大丈夫だよ。浮気する人じゃないよ。」
これは少し違う。浮気どころかそもそも付き合っていなかった。
「本当に?マヤちゃん、ちょっと騙されやすそうだから、私心配なんだよう。」
……うそだ。目が笑ってるのが隠し切れてもいないくせに、よくもまあ、抜け抜けと。
「……心配してくれて、ありがとう。」
うそだ。
名前も碌に知らない同僚からの好奇の目線は、うその感謝で受け流すには少し重すぎて、出番を失ったほうれん草は箸で啄かれすぎて、お世辞にも美味しそうとは言えない見てくれになっていた。
夜。
大して重要でもないたくさんの仕事。
大して重要でもないたくさんの関わり。
依存だと笑われるかもしれない。
それでも私は彼を愛していて、彼への愛だけで毎日を過ごしていたから、気がつけばもう、私の生活は大して重要ではないものだらけになっていた。
電車を待つホームは、世界と繋がるために誰とも目を合わせない人たちでいっぱいで、まるで私だけが誰とも繋がっていないような心地になる。
「俺はサ、死んだら地獄に行くんよ。」
ふと、酔った彼の言葉を思い出した。
あの日も、三日分の常備菜を作って、二人でご飯を食べて、彼が買ってきてくれていた少し良いビールを飲んで、それで、サスペンスドラマか何かを見ている時のことだっただろうか。
彼の表情は、先ほどまでとは一転して、感情が抜け落ちたようにのっぺりとしていた。
どこか遠くを見ている目が、液晶のもっと先を見つめている目が、動かないまま、また、訛りまじりの言葉が続く。
「親父がサ、まあ、嫌なやつでサ。殴るし、蹴るし。酒もタバコもギャンブルもやるし。
そんでな、誰も助けてくれんの。みいんな。クラスのやつも、隣近所も、担任も、みんな見ねんだ、俺のこと。
あれ、俺、ひょっとしてここにいないんか、て感じでな、ほんまに。」
私は、スチル缶から流れる水滴が膝に落ちたのも気がつかず、彼の横顔をじいっと見ていた。
「大人なって、もう親父なんかと絶対縁切ったる、て思って家飛び出したんにな、電話かかってくるんよ。金寄越せー、って。だからサ、俺、親父殺したんだよ。」
だから、地獄行き。
そう言って、ようやく私の方を見た彼は、ひどく晴れやかな顔で笑っていた。
本当は、今日までずっと、もっと悩んだのかもしれない。もっともっと苦しんでいたのかもしれない。
これからも彼は、どこかで都合の良い女を入れ替えながら、誰かと繋がりを求めて苦しむのかもしれない。
もしかしたら、勘違い女のことなど綺麗さっぱり忘れて、面白おかしく暮らすのかもしれない。
私にそれを知る術は、もうない。
人もまばらのホームに風が吹き込む。もうすぐ電車がやってくる。
私は一歩、二歩、足を進める。
弾むような足取りは、私のこれからが大して重要ではないから。
顔が笑みを象るのは、新しい三日に心が躍るから。
「地獄で待ってるね。」
(了)
第17回坊っちゃん文学賞 応募作品