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沖縄の話「首里城火災とS川(前編)」

 2019年10月31日深夜、沖縄の首里城(国営沖縄記念公園首里城地区)は火災で正殿などを失った。
 その約一カ月前に北海道に住んでいる大学から友人のS川の沖縄出張が11月12~17日に決まった。俺が沖縄に住んでた頃、何度となくS川に「沖縄に来いよ。来たら俺が必ず案内する」と送っていたが、実現しなかった。それが俺が沖縄から東京に引っ越して1年半後、S川が沖縄に来ることになった。もちろん、案内すると約束した以上、東京に引っ越していようが関係ない、沖縄行きを即断した。

 会社には結婚式出席ですと言って、有給休暇を金曜日の午後半日と月曜日1日申請して、11月15日から3泊4日の沖縄旅行の日程を組んだ。当時は、週刊発行の住宅・不動産の専門紙で記者・編集をしていた。
 仕事は、担当ページ制なので、通常は週平日5日で制作するページを、1日休んでも4日で仕上げれば文句は出ない。これを逃すとS川と一緒に沖縄を回れるチャンスはそうそう来ないから、すぐチケットを予約した。

 S川とは、熊本での大学時代から九州中を旅行した。原付や軽自動車で鹿児島、長崎、天草など九州各地へ遠征して最高に楽しかった。社会人になって、S川が年に1、2回北海道から東京に出張してくると必ず会って、また遠征に行こうと話していた。そのチャンスが久々に来た。そして、今年1月以来の沖縄行きでもある。本当にワクワクして出発日を待っていた。
S川話「ダイ・ハードなサバイバー」(過去ブログ記事)|池さん (note.com)
 
 《火災発生と最後の正月儀式》
 11月の沖縄旅行を待っている間、10月末日に首里城火災が発生した。朝、テレビのニュース映像を見て、
「朝からフェイクニュースか」
と数分ほど思ったが、事実だった。完全に想定外で、唖然として夢を見てるのかと疑った。
 首里城火災については、近代の消防施設が整ったこの時代に城が燃えるなんて聞いたことがないし、放水銃はあったのに作動しなかったこと、後日公開された正殿正面の監視カメラだけ映像がすぐに電源が落ちていることなど、違和感を書きだすとキリがない。
 最終的に、警察の科学捜査研究所の調査結果も燃えすぎて原因不明、消防庁のホームページの火災発生時刻も後で修正され、発生時刻すら不明となった。うさん臭いとしか言いようがない。
   
 この時真っ先に思ったのが、その年1月の沖縄旅行で首里城正殿での正月儀式イベント「朝拝御規式(ちょうはいおきしき)」を撮影していたこと。あれが火災前の正殿での最後の琉球王が見れるシーンになった。
 1月2日の朝拝御規式の撮影は、完全に正月のプライベートな旅行で私服だったが、入場券(820円)を買う前になぜか急にメディア受付窓口に行き、会社の名刺を出して
「沖縄の紹介記事で使う予定なんですが、取材いいですか?いつ使うかまだ決まってわからないですが」
と、取材を申し込んだ。名刺には、住宅・不動産の新聞と書かれているが、自前の一眼レフカメラの機材も見せてアピールすると、
「取材ありがとうございます。メディアスペースで撮影してください。NHKの横になります。この腕章をつけて入場してください」
と、取材許可が出た。もちろん、入場券は不要。許可が出なければ、沖縄での前職(県の観光財団)の名前を出して、前にロケで首里城にも来ましたとか、年間パスポートを持っていたとアピールしようかと思ったがあっさり許可が出てホッとした。スーツ姿ではないが、一応ジャケットを来ておいてよかった。

取材に使っていた首里城の腕章

  正殿前の御庭(うなー、正殿前の中庭)に上がると、すでに観光客でいっぱいだった。でもよかった、メディアの撮影スペースは地元紙とNHK沖縄のテレビカメラクルーだけで余裕があり、高さもあるベストポジションだ。実は、沖縄に住んでいたが、このイベントは初めてだ。正殿での儀式イベントを撮影し、イベント後は場内も回った。だが、撮影したものの仕事の紙面には使いようがなかった。

2019年1月2日の首里城での「朝拝御規式」
火災前の首里城(平成版の首里城)で最後の琉球王が出てくるイベントとなった

 それが1月で、火災が10月31日、次の来沖が火災後の11月になった。当然だが、首里城火災の取材では当時の会社での出張許可は出ないが、火災前にS川の沖縄出張と案内で沖縄へ行くことを決めていたので、火災後の2週間後には沖縄に来ていた。
 2019年11月16日、S川がまだ仕事中の土曜日の朝から首里城に向かった。
 首里城にはゆいレール(沖縄モノレール)の儀保駅が最寄りだが、今回は正殿火災の現場を撮影しようと初めて首里駅で下車した。しかし、正殿に近づく首里城公園内の道という道に警備員や職員が立って封鎖していた。かなりの厳重体制で、ドローンで上空から撮影する以外に正殿が見れる場所はなかった。火災後2週間経っても、こんなに厳重って、火災現場で何か隠しているんじゃないかと思えたほど。
 結局、隣接する沖縄県立芸術大学のキャンパスからなんとか火災で燃えた建物を撮ることができた。

2019年10月末の火災後の首里城正殿近くの建物、2019年11月16日撮影
通常、昼間は開いている歓会門が閉まっていて引き返す観光客

 午後に那覇市の新都心でS川と合流し、レンタカーで沖縄を周り、翌17日再び首里城に行った。その際に、守礼門の近くで首里城の管理を委託されている美ら島財団の解説員のTさんと知り合いになり、守礼門の近くの世界遺産の「園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)」の説明と、火災の影響について話を聞くことができた。
 本来なら首里城の正殿内を案内するTさんも急遽守礼門付近で案内しており、声をかけられた時には何でこんなところにガイドさんがいるのかと思った。一瞬、キャッチかと思ったw
 Tさんから火災によって当然勤務状況が変わったことを聞き、他にも正殿に隣接した売店のスタッフも国際通りのショップへ配置転換になり、美ら島財団の契約社員は来年3月までは雇用は守られるが、4月以降の雇用はどうなるかわからないとのことだった。

2019年11月16日、守礼門の近くで、左からS川、解説員のTさん、自分。Tさんと俺は、沖縄版アロハシャツのかりゆしウェアを着てる
世界遺産の「園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)」。戦前の一部分が世界遺産。

 その後、S川と一緒に沖縄を回った。旅行前にS川に
「絶対に半袖持ってこいよ。11月でもいるから!」
と、くどいほど言っておいたが、実際に暑くて亜熱帯の面目躍如だった。
S川は出発前は「北海道はすでに雪が降ってる」と電話で話していたが、もってきてよかったと話した。すると、那覇市のおもろまちを歩いていて突然、S川が大きな声を出した。
「セミが鳴いてるっ!!11月に!」
と言い出した。
 俺は1年半ほど沖縄に住んでいてたのでまったく違和感はなかったが、言われてみたら他の県だと異常だ。
 俺も沖縄で住んでた時に、12月の沖縄の公園でカブトムシか何かの幼虫を見つけて、スマホで写真を撮って職場で
「すごいよ、12月に幼虫がいたよっ」と見せても周りは珍しくもないというか、女性からは幼虫なんか見せないでと言われたことがあった。

S川は、
「北海道じゃ雪をかき分けて空港行ったのに、ここはあちーね。Tシャツ持ってきてよかったばい。生態系も北海道より濃密だん」
「だろ?住んでたからセミは意識してなかったけど、言われたら普通に鳴いてるわ(笑)。小さい島だけど、沖縄は濃いんだ。こんなワンダーランドだから、ずっとS川と沖縄を回りたかったんだ」
 首里城周辺や国際通り、海中道路へ行き、俺が前から
「やんばるには、ジュラシックパークのような森の前に普通にバス停がある」と話してたことから、S川がそれを見たいと言い出したので夕方から高速道路経由で国頭村へ向かった。

 途中、名護市のA&Wで
「沖縄限定のバーガーショップだ。ここで食おう」
と、一人なら絶対に飲まない添加物ばりばりのルートビアで乾杯した。うまくもないのだが、S川が沖縄に来てくれたから飲んだ。

沖縄だけにあるハンバーガーショップ「A&W」名護店 (2015/7/1.撮影)

 バス停に向かう途中にある、国頭村辺土名の友人のHさんに連絡すると、ちょうど今夜は何かの前夜祭で屋外でパーティーをやっているという。
車を止めて、あいさつだけのつもりがHさんから
「友達も降りてきて、食べていったら」と言ってくれたので、カレーなどをごちそうになり、S川は地元の人から
「おまえ気に入ったから、これ持っていけ」
と泡盛をペットボトルに入れてお土産にもらったりしていた。
最初、いきなりペットボトルの中身を捨て始めた時には、酔っぱらってるのかと思った。

 HさんからもS川がいいなあと言った大きな貝殻の灰皿を2つもらい、帰ろうとすると周りから
「近くの民宿で泊っていけ。そして、ここでもっと飲んでいけ」
と、誘われたが、
「友達は明日北海道に帰らないといけないし、ホテルも那覇なんです」
と断り、結局ここでは1円も使わずに飲み食いして那覇に帰った。
 この国頭村でのパーティーがS川が一番の思い出になったらしく、
「池〇さんのおかげで、地元の人と触れ合えて楽しかった。一人で沖縄来ても地元の人とあそこまで打ち解けれんかったと思う。北海道の会社がもしなくなったら国頭村に住もうかなあ」
と、後で茨城空港からメールが来た。

 大学時代からS川と旅行すると、いつもこんな感じでラッキーが多く発生する。俺も初めて国頭村へ一人で来た時は、Hさんが観光案内施設を開設した日で、しかも初めての利用者だったのですごくもてなしてくれた。
 以後、ずっと来る度によくしてくれて平安山さんは、
「池〇さんは、いつもいい時に来る」と言って笑っていた。俺も引きは強いほうだが、S川も強い。2人だとさらに引きが強くなり、幸運に恵まれる。解説員のTさんと知り合ったのも2人で首里城に行ったからかもしれない。

 S川は、一足先に日曜日の午後4時ごろの便で茨城空港経由で北海道に帰るので、那覇空港へ見送った。S川との別れ際、握手しながら
「また来いよ!」
と、思わず言っていた。S川がまた来る時には、俺も沖縄に来ないといけないのだが、住んでるわけではないのに自然に言っていた。

 俺は、S川が帰った翌日の月曜に東京に戻った。翌日を使って沖縄での職場(観光財団)をはじめ、知り合いにあいさつして回った。で、火曜日から今週分の仕事を平日4日で開始した。しかも、通常の担当ページに加えて、ローテーションでニュースを解説するQ&Aの連載記事が回ってきていた。ちょうどいいので、台風被害と首里城火災の記事をタイムリーとばかりに書き上げ、正月儀式から火災後の写真を3枚も掲載した。
 住宅・不動産の専門新聞なので、住宅ではないが沖縄観光の定番施設がなくなることでの影響や保険金額、正殿など首里城の有料区域での従業員の雇用問題などを書いた。県の管理になって一年目で火災という点も。
 この時、電話で首里城の運営を委託されている「(一財)沖縄美ら島財団」の広報のMさんに電話で取材した。当初、東京の新聞社というと警戒気味だったが、那覇に住んでいて前職の観光財団の名前を出すと同じ沖縄観光関連の団体にいたということで、話しやすくなった。

 紙面スペースの都合で記事には書かなかったが、Mさんに戦前の首里城は瓦が黒く、平成に再建された朱色のカラーリングが違うという指摘も質問した。
「首里城は過去に何度か再建されており、朱色のカラーリングは王国の歴史の中でそういう時期の首里城があったので、戦後(平成)に再建する時に朱色を選んだそうです」
「なるほど、実際に過去に朱色の首里城があったんですね。ネットで首里城は元は黒瓦だったとか書かれてたので」
「おそらく、貿易などで琉球王国が最盛期だったんじゃないかなと思います」
 沖縄県にも管理のスキームを取材した。首里城の所有は国で、2019年2月から県が申請して正殿などがある有料区域の管理者になり、美ら島財団に管理を委託している事業スキームも確認した。26年間火災がなかったのに、県の管理になって一年目で火災か‥。どっちみち、そこで働く職員は大変だ。
 タイムリーなタイミングで現地取材できたので、記事は普段よりはるかにスラスラと書けて無事に掲載された。紙面はカラーではないので、ウェブ版だけでもカラー写真に差し替えておいた。
 記事掲載紙を首里城の管理事務所のMさん宛てに送って、「首里城に行ったら連絡しますので、ごあいさつさせてください」と言っておいた。社交辞令ではなく、本当に行くつもりだ。

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