存在しない夏に対する幻想

暑い夏の日に、肌が焦げる匂いと芝の熱気を浴びながら飲む、冷えたビール。運動後の火照った身体の内側を突き刺す苦み。文面からだけでも容易に想像がつく、倦怠感と爽快感の同居とそれに伴う矛盾。梅雨になると、近づいてきた夏を想起してこのようなビジョンが私の脳裏に浮かぶが、これらの景色はすでに述べたように矛盾であり、私の人生に実在した記憶ではない。

外で思いっきり運動をした後に飲むビールは美味いという幻想はビール好きの日本人に共有されるビジョンであるはずだが、実際にその光景を実現することは難しい。そもそもこの光景の再現には全力で運動をすることが前提となるが、そんな過度な運動に耐えられる身体は一般的には十代後半までが限界で、飲酒が二十歳未満に禁止されている日本においては再現性が取りづらい。私がビールの旨味に気づいたのは二十代を何年か経験してからで、飲酒を始めた二十歳ごろではまだ炭酸飲料のほうがよっぽど美味しく感じていた。

意外にも、それは私にとっては何ら意外ではないことではあるが、他者の私への印象を鑑みるに意外にも、私は可能な限り法律を遵守するタイプであり、二十歳になるまで飲酒をしたことがない。一般的な大学生のように新入生歓迎会を機に十八歳ごろからお酒を飲み始めていれば、あるいは身体が全力の運動に耐える強度を維持した状態で、その放出を終えたのちに飲むビールを味わうこともできたのかもしれないが、そもそも継続的な飲酒と継続的な運動は両立の難しい要素であり、私の脳内にある幻想の、存在しない夏を追い求めることは難しいように思える。

暑い夏の日。太陽の下。青い芝生を駆け回ったのち、心地よい疲労感の中で冷えたビールを飲む。唇に触れた缶よりもより冷えた液体が、口腔から喉、食道を通過し胃へと流れ込むあの感覚。

存在しないその感覚をより幻影たらしめているのは、我々が飲酒をする際に基本的には室内であるということに起因するのではないだろうか。屋外で飲酒をする場合というのは、私の理想とする幻想の夏にあるか、あるいは河川敷でのバーベキューや、ビアガーデンなどといった体験が挙げられるだろう。これに関しては、どちらも私自身の記憶に存在することではあるが、それだけでも十分に、幻想の夏に近づくことはできた。コストパフォーマンスの面から見れば、それは、幻想の夏よりも理想的ですらある。運動という最大の手間を省いて、爽快感を得ることができるのだから。

であるならば、十分に熱された屋内で飲むビールというのも、また幻想の夏に届きうるのではないだろうか。可能性としてここで考えられるのは、サウナや温泉といった、温浴施設。風呂上がりに飲むビールという、それもまた格別であり、そして発熱、発汗後の飲酒という点では、単なる屋外であるバーベキューやビアガーデンよりも、より幻想に近づくことができている。

とはいえこれに関しては月に一度以上、温泉に行くことを趣味としている私から言わせてもらえれば、地に足が着きすぎている。これでは幻想の夏ではなく現実の日々の一部であり、その中で得られる充足感としてはたしかに満足しうるものだが、あの幻想の中に存在する夏の日に匹敵するかといわれると、否定せざるをえない。

ようするに幻想とは実現しないからこそ幻想なのであり、理想なのだ。記憶にないからこそ、ない記憶として夢に見る。満たされない、不足したパーツ。その埋めることのできない空白こそが、理想を理想たらしめている。

そしてこういった幻想を、本格化した暑さに参ってしまう八月ではなく、梅雨前線に襲われる六月にこそ抱きがちなのは、実際の暑さを目の当たりにしてしまえばビールごときの冷たさでは何も凌げないという、幻想の夏を超えて避けようのない現実を突きつけられるからなのだろう。

今年の夏も、きっと暑い。



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