『バラックシップ流離譚』 キミの血が美味しいから・18

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 なにかが足りないと、感じ続けていた――
 ぽっかりとあいた胸の穴。
 まるで、はじめから失われていた、大切な、たったひとつの部品《パーツ》。
 愉しいときも、苦しいときも、
 我を忘れるほど目の前にある物事に夢中になっているときさえも、
 その空白《穴》はあり続けた。
 ぼうっとしているとき。
 夜中、ふと目が覚めたとき。
 空白《穴》は忘れていた痛みを蘇らせ、しくしくと心を蝕んだ。
 それは飢えや渇きのようでもあり、哀切の叫びのようでもあり、喪失の苦悶のようでもあり――
 気づけば夜闇を睨む両目から、涙を流していたのだ。
 まだ見ぬあなた。あるいはどこにもいないあなた。
 あなたに会うことが叶いさえさえすれば、この痛みは止まるのだろうか?

   ◇

 ミツカがグラッドを見つけたとき、その場は異様な空気に包まれていた。
 グラッドも、主に似て粗野で荒々しいヒババンゴの面々も、誰ひとり声を発さず、静かな怒りに身を震わせていた。
 かろうじて話しているのはグラッドに抱きかかえられている男だけであり、それも苦し気なかすれ声であった。
 はじめ、ミツカには彼が誰かわからなかった。
 それほどに、短時間で面相が変わってしまっていたのだ。
 肌は何週間も放置された野菜のように萎び、上半身の毛はことごとく真っ白になっている。

「こ……殺せ……すぐにとらえて……あの女を……殺すのだ……」
「まさか……! その方は、ザッド様なのですか?」

 人さし指を虚空で震わせる男の姿に、ミツカは驚愕を露わにした。

「おう。イグラッドんとこの」
「グラッド様……これをやったのは女の食客でしたか?」
「そうだ。顔をつかまれただけで、兄貴はこんなになっちまった」

 ぎり……とグラッドは歯ぎしりした。

「生気を奪う能力者《フルーリアン》です。申し訳ありません、それを報せるために来たのですが……」
「そっちも誰かやられたのか?」
「イグラッド様が……ですが、命に別状はありません」
「そうか。兄貴も、この調子なら死ぬこたァねえだろうが……」

 なおも喚き続けている長兄を、グラッドはちらりと一瞥した。

「とにかく、あの女とギヨティーネは生かしちゃおかねえ。お前もすぐに後を追うんだ」
「わかりました」

 走りづめで疲労は濃かったが、ミツカは力強くうなずいた。



「放せ! 放さんか! まだ、妻と息子があそこに……!」

 ロドがいくら叫んでも、ラ=ミナエが足を止めることはなかった。
 彼を担いだまま、屋根伝いに移動する。
 背後からはヒババンゴが追ってきている。
 猿人《エイブン》と山羊人《ガラドリン》、どちらも高所での活動を得意とする種族だが、一般には猿人《エイブン》のほうが勝るとされる。
 それでもいまだ補足されていないのは、それだけラ=ミナエの身体能力がずば抜けているからだろう。
 元々の才に加え、恐ろしいまでの鍛錬で力と技を磨きあげてきた。その一端を、ボスであるロドは見知っている。
 だが、あくまで一端だ。
 彼女はこれまでロドに対して従順だったし、戦力としても極めて有用だったため、あえて考えてこなかったが、それ以外の部分――たとえば生い立ちとか、どういう物の考え方をするのかというようなことは、ほとんど知らないといってよかった。

「俺ひとり助かったところで、なんの意味も――」
「助けたつもりはありません。あなたはただのエサです」

 絶望を与えようとか、揶揄しようというのではなく、端的に事実を伝える口調だった。

「その必要もないくらい、私自身に憎悪を集めはしましたが、いちおう」
「そんなことのために、わざわざ俺を連れてきたのか」
「心配しなくても、あなたがここにいることで、お二人には人質としての価値が生まれます。すぐには殺されませんよ」
「モールソンの奴らがそういう計算ができるといいがな。唯一可能性のあったザッドを、お前はやっちまったんだ……!」

 ロドは自分の顔を両手で覆った。
 彼の言葉を聞いたラ=ミナエは口許をほころばせ、おかしくてたまらないというように喉を鳴らした。

「私にとってはどちらでも構いません」
「そうだろうな! お前はただ、殺し合いがしたいだけなんだ。この、血に飢えた戦闘狂め……!」
「そういう側面も無きにしも非ずですが、いちばんの理由は、もっとシンプルですよ」
「なんだと……」
「私は、その……いわゆるアレです、ボス。生きているという実感が欲しいだけなんです」

 躊躇いがちなラ=ミナエの口調からは、自分の初恋について話す少女のような恥じらいすら感じられた。
 だが、いまさらそんなことをいわれても、ロドにしてみれば困惑が増すだけだった。

「なにをワケのわからんことを……」
「私は、いまはもう解体してしまったある組織で、暗殺者として育てられました」
「ああ、そう聞いている」
「いわれるまま、何の疑問も抱かず、標的を殺すだけの日々。まるで淡々とスイッチをオフにし続けるように、己の行為の意味を考えることもなく、命を奪っているという感覚もありませんでした。でも――」

 うっとりと、懐かしむようにラ=ミナエは遠くを見た。

「あるとき、私は初めての失敗を経験しました。標的の護衛についていた男に、完膚なきまでに敗れたのです。瀕死の状態に陥った私は『自分が生きている』という感覚を、久方ぶりに思い出しました……」
「お前を倒すほどの男というと、例の荒事師か」
「当時はまだ傭兵をやっていましたがね――身の置き所のなくなった私は、彼についていくことにしました。彼の許での戦いの日々は、やっていることは近くとも、本質はまるで別物だった。自らの意志で戦い、奪う。それは同時に、殺す相手の心情に寄り添う行為でもありました。死にたくない、死にたくない、生きたい……そうした願いの生み出す激しい抵抗と、それが強き者によって打ち砕かれ、絶望とともに燃え尽きていく様に、私は滾りました。それは、私が蘇った瞬間を――死に抱擁されかけながら生をつかんだあの瞬間を、ふたたび味わわせてくれるものだったからです」
「わからん……俺にはさっぱりわからんぞ!」

 ロドはかぶりを振った。
 彼には、ラ=ミナエがいよいよ得体の知れない怪物としか思えなくなっていた。

「あの人もそういっていました。そういって、私を置いて去っていきました」
「だろうな! お前のような奴のことなど、理解できてたまるか!」

 思わずロドが叫んだとき、猿人《エイブン》のものと思しき咆哮が轟き、頭上を越えて飛んできた角材が前方の屋根に突き刺さった。

「待てェい、女!」

 ヒババンゴがふたり、追いついてきていた。
 角材を投げたと思しき男が両手をついて身構え、もう一方が脇に抱えていたふたりの人間を、左右の手に持ち替えて掲げる。

「見えるか? ギヨティーネの女房と息子だ。ギヨティーネの身柄を渡せば、このふたりは解放してやる」
「お、おお……! ラ=ミナエ、いうことを聞くんだ――わかった。い、いまそっちにいく!」

 ロドに促されると、ラ=ミナエは無言で来た道を引き返しはじめた。
 あまりに素直なので、ロドもヒババンゴのふたりも目を丸くしたほどだった。
 あと数歩の距離というところで、ラ=ミナエはロドを屋根の上に降ろした。

「は、はやく妻と子を……!」
「いいぜ。だが、わかってると思うがギヨティーネ、お前自身は助からんぞ」
「ああ、構わん」
「いい覚悟だ。さすがに一家のボスを務めただけのことはある――それと、女。ザッド様がな、貴様の首もどうしても欲しいと仰ってる」

 男が言い終えぬうちに、音もなく背後から忍び寄っていた三人目のヒババンゴがラ=ミナエに襲いかかった。
 だが、その指がラ=ミナエの身体に届くより速く、彼女の抜いた剣が後方に突き出され、男の喉を貫いた。

「なっ!?」

 剣を引き抜き、ラ=ミナエが踏み込む。
 前方の男は防御しようとしたが、両手に人間を持っていたために対応が遅れた。
 数条の閃光が走り、斬られた男は血をしぶかせながら屋根から転がり落ちていった。
 ロドの妻子はラ=ミナエがつかまえたので落下は免れたものの、恐怖で口も利けないありさまだった。
 最後に残った男は、素早くラ=ミナエから距離を取った。
 その動きには、もはや一分の油断もない。
 ラ=ミナエも剣を頭上で構え、男と相対した。
 奇襲が効かないとなれば、さすがにヒババンゴほどの精鋭である。相当に気を引き締める必要があるのだろう。
 だが、ラ=ミナエの口許には笑みが浮かんでいた。
 渇望していたものを目の前にし、喜びに震える者の笑みだった。


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