『バラックシップ流離譚』 キミの血が美味しいから・21
ドアをあけると暗い廊下が奥に続いていた。
呼びかけたが返事はない。
「うむ。どうやら留守のようだね」
「いや。いやいやいやいや」
ウィルは首を横に振った。
「そんな小声で聞こえるかよ」
「大声を出したら彼女《ラ=ミナエ》に見つかるだろう? それに、この辺の住人はとっくにどこかへ避難しているよ」
「たしかにそうだけど……」
ウィルは痛みに顔をしかめた。
「大丈夫かい? とにかく、中で休もう」
ニーニヤに肩を借りて、居間まで移動する。
それなりに暮らし向きのいい家らしく、家具はひととおり揃っており、手入れも行き届いていた。
柔らかそうなソファがあったので、ウィルはそこに腰をおろした。
「ミツカは大丈夫かな……」
「いまは無事を祈ろう。それより、怪我の具合は?」
「たいしたことない」
「打ち身、擦り傷。それから軽い捻挫といったところかな。だが、ああいう手合いは対峙するだけでごっそり気力を持っていかれる。命のやりとりに慣れているならともかく、キミのような半分素人なら余計にね」
ふっ、とウィルは口許をほころばせた。
ニーニヤの態度が、いつもとはまるで違っていたからだ。
「珍しいな。お前がおれの心配なんて」
「当たり前だろう」
心外だといわんばかりに、ニーニヤは目を丸くした。
「だよな。おれに死なれたら、次は自分の番だもんな」
「なにをいってるんだ。さすがに怒るぞ」
ニーニヤは、ウィルの襟首を乱暴につかんだ。
だが、押しつけたこぶしは妙に弱々しく、かすかに震えてさえいた。
「…………ったんだ」
「なんだって?」
訊き返すと、ニーニヤは顔をあげた。
いまにも泣き出しそうな表情だった。
いつも彼女が被っている気取った仮面は剥がれかけ、そこには歳相応の少女がいた。
「怖かった……本当に怖かったんだ。キミが殺されるんじゃないかって」
「そ、そんなの……いまさらだろ」
思わぬ態度に内心動揺しつつ、ウィルは反論した。
「ちがう。これまで戦った相手はみんなボクを狙うか、ボクとキミを区別することなく襲ってきた。だけど彼女《ラ=ミナエ》は、明確にキミを標的と定めていた。こんなことは初めてだ」
「それがどうしたってんだよ。お前にとっちゃ、むしろ都合がいいだろ? おれのことなんか……どうでもいいと思ってるんだから」
「はあ!?」
ウィルの襟をつかんでいた手を、ニーニヤはいきなり捻じりあげた。
こんな細腕のどこにと思うほど物凄い力だった。
「誰が! いつ! そんなことをいった!?」
「だ、だってそうだろ!」
少女の剣幕に圧されながらも、ウィルは反論した。
「いつもいつも、わがままいうし、危ないからやめろっつっても聞きやしねえ! 付き合わされる身に一度でもなってみたかよ? どうせお前はおれより強いし、いざとなったら楯にして逃げればいいとでも思ってんだろうが」
「ウィル……」
「わかってんだろ? それでもおれは、お前に逆らえない。おれにはもう、お前しかいないからだ。お前に捨てられたらおしまいなんだ……」
「ボクが、一度でもキミをお役御免にしようとしたかい?」
少女の問いかけは穏やかだった。
「ああ、そうだな。もっと簡単な役目だってあったはずなのに、なぜだかお前は、おれを手放そうとはしなかった……そのことに浮かれたりもしたさ。期待とか、信頼とか……とにかく、おれなんかにも、いっぱしの価値みたいなモンがあるんじゃないかと思ったりしてさ……だから、役立たずだと思われないように死に物狂いでやってきたんだ」
襟をつかむ少女の手首を、ウィルはにぎりしめた。
あとすこし、力をこめれば、容易く折れてしまいそうなのに。
こんなにも儚い存在が、この上もなく強固に彼を縛っている。
「そうか。そんなふうに思っていたんだな」
そういって、ニーニヤは微笑《わら》った。
どこか陰のあるその表情に、ウィルは一瞬、痺れたような感覚を味わった。
「知らなかったよ。突き放した言い方かもしれないが、ある意味で必然でもある。なぜなら、それは出来ることなら口にせずにおきたかった、キミの心の秘密だからだ」
「ああ。いうつもりなんてなかった」
「ならば、ボクも話そう。ボク自身の心の秘密を」
ウィルの顔をじっと見つめながら、ニーニヤは後退る。
ニーニヤの手がウィルの服から離れ、ウィルの手はニーニヤの手から離れた。
息づかいは遠くなったが、互いの顔がよりはっきり見える距離になった。
「先に確認しておきたいのだけれど、キミはボクがこれから話すことに興味はあるかい?」
「なんだよ。もったいぶるのか?」
「答えてくれたまえ」
「……いいから、さっさと話せよ」
「了解だ。ひとまず肯定と受け取ろう」
ニーニヤはくちびるの片端を上げた。
いつもの不敵さ、傲岸さがもどってきている。
さっきまでの儚い彼女は、弱った心が見せた幻だったのだろうか。
「知っての通り、ボクは〈億万の書《イル・ビリオーネ》〉の継承者だ。歴代の継承者はみな好奇心の塊だったと伝えられ、ボクもその例に漏れない。しかし、キミは疑っているね――ボクたちの行動は、この魔書に操られた結果なのではないか――と」
「気づいてたのか」
驚きにウィルの声はうわずった。
かすかに胸を苛むのは罪悪感か?
「継承者に対する揶揄としてはよくあるからね。好奇心しかない性格破綻者、あるいはもっと直截に、本の奴隷――なんてね」
「本当のところはどうなんだ。意識を乗っ取られたりするのか?」
「ないとはいえないね。〈億万の書《イル・ビリオーネ》〉は持ち主の精神に作用し、好奇心を増大させる。あるいは本来ならリスクを鑑みて踏みとどまるべきところを、そうできなくさせる――やっぱり、という目をしているね」
「心当たりがありすぎるんだよ」
「さらにいえば、本の影響力に長期間晒され続けると、やがて好奇心に突き動かされるだけの人形に成り果てるだろう」
「そんな……」
「元々継承者たちは、本に影響されるまでもなく強い知的好奇心の持ち主ばかりだった。あるいはそうした資質があったから本に選ばれたのか。いずれにせよ、それで自分の欲望が満たされるのなら、むしろ好都合と受け容れたのさ」
「お前はそれでいいのかよ!」
「いいとはいっていない」
ニーニヤは、はっきりと首を横に振った。
「ボクは自分の仕事が好きだし、本に選ばれたことも誇りに思っている。でも、だからといって、すべてを本に捧げるつもりはない。そこにボクはいないからだ。そうならないためには、確固たる自己を保ち続けるしかない。それには、本に記述されないなにかが必要だ」
「なにかって、なんだ?」
ウィルが問うと、ニーニヤはとん、と指で自分の胸を指した。
「心の秘密さ。体験を通じ、心の中に立ち現れる心象。その人固有の感情のゆらぎ――〈億万の書《イル・ビリオーネ》〉の記述は、あくまで客観的な事実だけだからね。そこに私的な感想や見解を差し挟む余地はない。けれど、体験によって生じたボクの心象もまた間違いなく存在する。そして、それこそが、ボクがボク自身であることの証なんだ」
少女は顔をあげ、誇らしげに宣言した。
その堂々たるさまにウィルは圧倒され、しばし言葉を失っていた。
「そ……そうかよ」
ようやく、絞り出すようにしていう。
「そこまではわかった。でも、まだ納得はできない。なんで、お前が自分を保つために、おれを連れまわす必要がある? 今回みたいに、召喚術とは相性の悪い敵とぶつかったときのためか?」
「簡単だよ。独りで思い描いただけでは心象というものは曖昧なままだ。それは、誰かとわかちあったとき、より強固になる。いつかいったと思うが、隣でおなじものを見て、聞いて、感じてくれる存在が大切なのさ」
いつになく優しい声音でニーニヤはいった。
「なら……それなら……」
なぜ、自分だったのか。
ウィルが重ねて問おうとしたとき、入口のほうから破壊音が聞こえた。