『バラックシップ流離譚』 キミの血が美味しいから・23
ぐわん、ぐわん、と割れ鐘のような音が脳髄を揺らした。
意識の糸が、いまにもぷつんと切れそうになる。
それでも、まだ。
生きている。かろうじてガードが間に合った。
籠手がひしゃげ、右腕に信じられないほどの熱さを感じた。
おそらく折れている。指をちょっと動かすだけで激痛が走った。
だが、おかげで気を失わずに済んだ。
「レムトの剣技は我流だが、基本の型は正統の流れを汲むものだ」
ゆらりと構えながら、ラ=ミナエがいった。
「お前の動きは読みやすい。型を身につける途上で、いまだ型を壊す域に達していない者が、私に勝てる道理はないのさ」
「そんなの……やってみなくちゃ」
「いいや。もう勝負は見えた」
右側面からのハイキック。腕があがらず、まともに食らった。
逆側からの二連撃。倒れたくても倒れられない。追い打ちをかけるように、みぞおちに蹄付きの爪先が突き刺さった。
吐瀉物で地面を汚しながら壁際まで吹っ飛ばされる。そのまま、ずるずると尻餅を突きそうになるウィルの喉を、ラ=ミナエが左手で押さえつけた。
逃れようにも、締めあげる指の力は、まるで万力のようだった。
「ここまでか。まあ、頑張ったほうだよ。お嬢ちゃんも逃げたようだし、君も本望だろう」
「……ざっ……けんな! 誰が……!」
最後はやはり、あの能力でとどめを刺したいのか、ラ=ミナエは剣を自分の足許に突き立てた。
ウィルは左手で彼女の腕に爪を立てたり、足を蹴りつけたりしたが、まるでびくともしない。
抗ううちに肺に残っていた酸素も尽き欠け、徐々に視界が暗くなってきた。
(まずい……このままじゃあ……)
ウィルの意識が、まさに深淵に吞み込まれそうになったとき。
張りつめた弦が鳴るように、空気が震えた。
まるで、その瞬間に世界の中でなにかが切り替わったように――
「なんだ?」
ラ=ミナエが怪訝な顔で周囲を見回した。
喉を締めあげる指の力が、ほんのわずか緩む。
刹那にも満たない一瞬の隙。
ウィルはそこをとらえ、ラ=ミナエの左手首を掌底で打った。
「しまっ……」
慌てて捉えなおそうとするラ=ミナエを、身体ごと回転させる蹴りで牽制しつつ、斧槍(ハルバード)を拾いあげる。
間髪入れず、横薙ぎ。剣をつかんで後退するラ=ミナエに追いすがる。間合いの外に逃がすつもりはなかった。
「バカな、なぜ動ける? それに、この速さ……!」
ウィルの攻撃をさばくラ=ミナエの顔に、はじめて焦りの色が浮かんだ。
「その疑問にはボクが答えよう」
ふたたび、ニーニヤの声が響いた。
「ウィルが身につけている武装は、輸送の巻物(スクロール)から取り出したものだ。知っての通り、エルガードの武装は丈夫で軽く、装備した者の身体能力を飛躍的に高めるが、〈図書館〉の内側のみという制限がつく。当然、これだけではキミに勝つには不十分だ」
ウィルの手は止まらない。それどころか、徐々に速度を増し、ラ=ミナエを圧倒しつつあった。
防御をかいくぐり、相手の身体に届く攻撃がひとつ、ふたつと重なっていく。
「だが、巻物は二枚あった! その効力は、一時的に〈図書館〉の領土を拡張する。すなわち――」
さらに速度が増す。まるで暴風。本当にこれが自分の身体か? 自分がやっていることなのか?
しかも、ギアはまだまだ上がるという予感があった。
ここまでモールソン一家の連中と戦いどおしだったラ=ミナエが、いつまでも耐えられるものではない。
「いまのキミは〈図書館〉内でエルガードを相手取っているに等しい!」
かろうじて保たれていた均衡が、いま崩れる。
ハルバードが跳ねあがり、ラ=ミナエの右腕ごと剣を飛ばした。
返す一撃――袈裟懸けに――肉と骨を裂く感触が、ウィルの手のひらに伝わってきた。
吹き出す鮮血。
山羊人(ガラドリン)の女戦士の身体が、ゆっくりと仰向けに倒れてゆく。
「……ぶっ……はぁッ……! や、やった!?」
最後の数秒、まったく呼吸をしていなかったことに気づき、ウィルは貪るように肺に空気を取り込んだ。
あれほど軽かったハルバードが、とたんに鉛のように感じられた。
足許を見ると、ラ=ミナエにはまだ息があった。立ちあがってくる気配はない。
致命傷だ。カッと目を見開き、口からはごぼごぼと血の泡を噴いてはいたが、その顔はまるで憑き物が落ちたかのように穏やかだった。
「危なかったね。二枚目の巻物は、分割して四方に配置する必要があったんだ」
「間に合ったからいいさ」
ウィルの右腕は完全に折れていた。とうぶん剣は握れそうにない。
ニーニヤが、ラ=ミナエの傍らに膝をつき、顔を近づけた。
「口は利けるかい?」
「ああ……けど、あんまり長くはもたないな」
虚空を睨んだまま、ラ=ミナエが答える。
「いろいろ訊きたいことはあるが、まずはそうだね。‟なぜこんなことを”?」
「私が、私だからだ。私は……ファビリオ・ラ=ミナエだ……!」
ああ――と、ニーニヤは嘆息した。
「ボクの睨んだ通りだ。やはり、キミとボクはよく似ている……だが、因果な性分だね。キミのやり方は死体を積み上げ、混沌と混乱をもたらすばかりだ。生きながら災厄となり、誰からも疎まれる。排除されるのは必然といっていい」
「この船は掃き溜めみたいなものだ……元の世界から弾かれた連中が身を寄せ合って作ったちっぽけな世界……そんな場所からさえ、いらないと捨てられる……たしかに、因果だね」
咳き込むようにラ=ミナエが笑う。
その口調はまるで、自らの死という結果さえ受け容れているかのようだった。
「わかんねえ。わかんねえぞ!」
なぜか無性に腹立たしくなって、ウィルは会話に割って入った。
「他にやりようはなかったのかよ? 他人を巻き込まず、あんたも死ななくて済むようなさあ!」
「優しいことをいうね、坊や」
「同情したわけじゃねえ! わけもわかんねーうちに殺されかけて迷惑だし腹も立ってる。正直あんたのことは頭のおかしい女としか思えねえ……けど、そんなふうになっちまったのは、なんか理由があったんじゃあないのか?」
「さあ……ひょっとしたら、あったのかもね。他のやりようってやつも……でも……私には見つけられなかった」
「そうだ。今更なにをいっても繰り言にしかならない」
ニーニヤが、ウィルの肩に手を置いた。
「彼女は消えるしかなかった。だが、せめてその生きた証を残そう。〈記録魔(レコーダー)〉たるボクにはそれができる」
「そうか」
ラ=ミナエは目をとじ、深々と息をついた。
「せいぜい頑張ってくれ……私にはもう、どうでもいい……」
「いやいや、そこは協力してくれたまえよ」
「無茶いうなよ。死にかけてんだから」
実際、彼女は虫の息だった。
おそらく、もう目も見えていないだろう。やったのは、ウィルだ。
初めて人を斬った。そのことに後悔はない。
いずれ訪れたであろうし、それがたまたま今日だっただけだ。
殺されないために、殺した。
命のやりとりとしては、至極まっとうだとさえいえる。
だが――なんなのだろう。この、胸のもやもやは。
彼女は「捨てられる」といった。
そのひと言が、引っかかっているのか?
彼女は、自ら破滅の道を選んだ。そこに同情の余地はない。
けれど、このままただ忘れられていくのは哀れだと思った。
「ギヨティーネ……」
「なに?」
ニーニヤはラ=ミナエの口許に耳をよせた。
「ギヨティーネ……だ……私の元、雇い主……彼に話を聞くといい」
「わかった」
瞳から光が消えた。
ラ=ミナエの能力で生み出された蝶は、上を目指して飛んでいくが、どこかにたどり着く前に霧散していた。
彼女の魂に、行き着く先はあるのだろうか?
ここは〈幽霊船〉――山羊人(ガラドリン)の故郷からも、あまりに遠い。