『バラックシップ流離譚』 キミの血が美味しいから・13
居住区第七層――
かろうじて中層に含まれ、一歩裏道に入れば多くの貧民の姿が目につく。
船尾に近づくほど治安が悪くなるという例に漏れず、七層の後方区画も危険な場所であった。
ギヨティーネの現当主、ロド・ギヨティーネはそこで生を受け、モールソン一家と張り合うまで組織を成長させたいまも、そこに邸を構えている。
「ゴミ溜めくせえ一帯にしちゃあ立派なモンだよなァ」
ことさら声を張っているわけでもないのに、びりびりと鼓膜が震えた。
ラムダ・レオパルディアは、相手から見えないように一瞬だけ顔をしかめ、ゆっくりと振り返った。
見上げるほどの巨躯を持った猿人《エイブン》が、生意気だといわんばかりの表情であごを撫でていた。タワシのようにこわいひげが、ワシワシと音をたてる。
モールソン一家の三男坊、イグラッド・モールソンである。
暴悪という形容がこの上なく似合う男で、あまりに無茶が過ぎるため、三兄弟でただひとり、いまだ独立した縄張りを任されていない。
「もうすぐ包囲が終わります」
傍らに立つ猿人も、イグラッドの隣にいるから小さく見えるものの、ラムダよりはるかに大柄である。
「向こうもこちらを窺っとりますな。カーテンの隙間から、ちらほらと血走った目が見えます」
赤茶色の頬ひげ、額から右目にかけて走る刃物傷。
モールソン一家の幹部にしてイグラッドの補佐役も務めるショウジョウ・バキタだ。
武闘派として名を知られているが、目端が利き、組織への忠誠も厚い。ボスのファルタンが三男につけたのも納得の人選といえる。
「ヘッ。邸に籠ってガタガタ震えてんのさ。チビってなけりゃいいけどなァ!」
大口をあけ、イグラッドはガハガハと笑った。
「ミツカ、オメェもチビっちまったらいえよ。オレが拭いてやっから」
激励なのかなんなのかわからない発言に、いわれたミツカは顔を真っ赤にした。
ラムダも育ちのいいほうではないが、こうも下品なのはさすがに鼻白む。
とはいえ、上機嫌でいてさえくれれば扱いやすいといえなくもない。
今回の作戦でも、長男のザッドから一番槍をくれてやると告げられ、えらく張り切っている。
(どう考えても損な役回りなんだが……この人にはわからんのだろうな)
一週間前、モールソン一家はギヨティーネに宣戦布告した。しかもご丁寧に、攻め入る日時までしっかり指定してである。
これは、武装組織同士の抗争においてはかなり珍しい。
利権の奪い合いや小競り合いを繰り返すうちに、だんだんと内圧が高まってゆき、ある日突然爆発するというのが常だからだ。
わざわざ準備する時間を与え、その上で正面から叩き潰す――いまや船内有数の勢力となったモールソンに姑息なやり方は相応しくないという事情もあるが、絵図を描いたザッドにはさらなる考えがあると、ラムダは見ている。
まず、ギヨティーネの構成員は船内の各所に散っているので、それを一カ所に集めるため。
戦力に劣るギヨティーネは、これまで権謀術数を駆使してすこしずつモールソンの縄張りを侵食してきた。
抗争が長引けば、それだけ不利になるとザッドは踏んだのだ。
もうひとつは、日和見の機会をうかがっているギヨティーネ構成員を引き込むためだ。
実際、勝ち目がないと見たギヨティーネ幹部の何人かが、宣言直後に内通したいと使いをよこしてきたという。
もちろん、備えのあるところへ攻め入れば相応の被害も出るだろうが、それすらもザッドの計算の内かもしれない。
組織の今後のことを考えれば、ここでイグラッドの力を削いでおくのもひとつの手だ。
ならば、ラムダとしてはどう立ち回るべきか?
イグラッドのような男に忠義を尽くして死ぬなど、まっぴら御免だった。
「なあ、本当にいくのか?」
ウィルは、うきうきと前をゆくニーニヤに呼びかけた。
「どーも嫌な予感がする。やめにしねえ?」
「いまさらなにをいうんだい」
わかっている。
これは無駄な抵抗だ。
理由としてはお粗末すぎるし、そうでなくてもニーニヤが叛意するはずがない。
それでもしつこく食い下がるのは、ニーニヤの本心を知りたいがためだ。
(お前はおれのことを、どう思っているんだ?)
からかいがいのある玩具でも、気が向いたときに血を吸えるおやつでも構わない。
ただ、その上で――
腕の未熟さを承知で護衛に指名したくらいなのだから、ほんのすこしくらい、特別に思っていると。
そう、期待してもいいのか?
なればこそ、努力もした。
今度こそ捨てられまい、もっとお前に必要とされたい。
(なあ、ニーニヤ……)
振り返ることなく、どんどんと進んでいく背中。つややかな黒髪が左右に揺れる。
ウィルは足を速め、手を伸ばした。
後ろから腕をつかみ、強引に振り向かせる。
ニーニヤは目を細め、すこし怒ったようにウィルを見つめた。
「なんだい? 忘れ物はないはずだよ」
「考え直せよ。べつにあの事件じゃなくても、面白そうなものはあるだろ」
ニーニヤに降りかかる危険は、すなわちウィルにとっての危険だ。
そして、ニーニヤは護られる側であり、ウィルは護る側なのだ。
ふたり、もしくは一方が死ぬ事態が起こるとすれば、先に死ぬのはウィルである。
(わかってるのか?)
死ぬのが怖いのではない――いや、怖くはあるが、捨てられるのに比べたらずっとマシだ。
どうでもいい。
価値がない。
自分はそんなものなのだと絶望しながら、泥の中を這いまわっていたあの頃には、絶対に戻りたくなかった。
「ボクに命令するのかい? 偉くなったものだね」
一瞬、ニーニヤの金の瞳に凄まじい感情が渦巻いたような気がした。
それは怒りか。あるいは狂気か。
悪寒が背筋を駆け抜け、ウィルは思わず腕をつかんでいた手を放してしまった。
ニーニヤは小さく鼻を鳴らし、ふたたびすたすたと歩き出した。
ウィルはくちびるを噛みしめながら、つかむもののなくなった手を握りしめた。
追いかけなければ。
たとえ、相手がこちらを見ていないとしても。
のろのろと足を動かす――そのとき、ウィルの肩に手が置かれた。
「待て」
振り向くと、しかめっ面のマーカスが立っていた。
「なんか用かよ?」
あまり、というか、かなり見られたくない場面だったので、びっくりするほど不機嫌な声が出た。
ニーニヤを目で追うフリをして、マーカスから顔をそらす。
「これを持っていけ」
マーカスが差し出したのは、ポケットに収まるほどの大きさの巻物《スクロール》だった。
「は? なにこれ」
「武器のようなものだ。いよいよ危ないと思ったら使え」
「攻撃魔法でも仕込んでるのか?」
よくわからなかったが、断る理由もない。
マーカスのことは嫌いでも、ニーニヤの身を第一に考えているという一点に置いては信用できる。
視線をもどすと、ニーニヤの姿はだいぶ小さくなっていた。
ウィルは巻物を懐にねじ込み、慌てて彼女の後を追った。