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葦田文庫貸借表

あげた本については忘れているものだが、貸した本については案外しっかり覚えているものである。逆に本を借りる場合は、借りているということを忘れてしまうということも茶飯事で、だから「借りパク」なる事態が発生するのだが、本人にとって「パクる」意図があることの方が珍しく、多くの場合、ただ借りているという事実の忘却(の忘却)が実態ではないか。

実家に帰ってきて、本棚を見返している。あの本が読みたいのだが、手元に、ない。あるいは、この本まだ借りたままだった、という本も見つかる。そこで、わたしが2023年7月10日現在、借りている本と貸している本の一覧をここにまとめておくことにする。


借りている本

本を借りたままでいるというのはわたしの場合あまり落ち着かない事態なので、手元に借りたまま残っている本というのは、返すための伝がないというのがほとんどだ。今借りている本を挙げる。

江戸川乱歩『孤島の鬼』(角川書店)

江戸川乱歩の代表作。一回読み通した。返したいけれども、会う機会がない。返してもらうことももしかしたらあまり期待されていないかもしれない。とはいえ、返さないでずっと持っているのもまた落ち着かない。

岡野大嗣『たやすみなさい』 (書肆侃侃房)

未読。サイン本なので、できればちゃんと返したいのだが、名前を忘れていて、連絡先もわからない。顔は覚えている。

高橋佑磨・片山なつ『伝わるデザインの基本』(技術評論社)

学生時代、資料を作成するときに参考にしようと思ってゼミの先輩に借りた本。一度は返すチャンスがあったのだけれど、返しそびれて10年近く手元に置いてあることになる。ちなみに資料作成にはかなり有用なことが書いてあるので、また読み返すことがあるかもしれない。

栢木厚『栢木先生のITパスポート教室』(技術評論社)

孫借りした本。もしかしたら元の持ち主は孫借りされていることすら知らないかもしれない(けっこう杜撰な借り方をしてしまった)。なんとなく元の貸主とはこの先の人生で一度も会うことがないような気がする。仲が悪いわけではないのだが、わたしたちの間をディスコミュニケーションが支配しているようなところがあって、連絡先は知っているのに、連絡を取るということ自体が何か大それたことのように思われてしまう。

貸している本

M.K.さんに貸している本

レーン・ウィラースレフ『ソウル・ハンターズ:シベリア・ユカギールのアニミズムの人類学』(亜紀書房)

かなり大きな本だが、M.K.さんにはなんとしても読んでほしいと思った本。わたしは来月から狩猟免許の合宿に行くので、それまでにもう一度再読したいと思っている。とはいえ、貸すときには、生涯持っておくつもりでもいいので、と言ってあるので、今から返してとも言いづらい。安い本ではないが、もう一冊買ってもいいかな、と思う。

佐々木中『切り取れ、あの祈る手を』(河出書房新社)

広義の「文藝」に携わっているM.K.さん。きっと彼の読書体験も豊かになることだろうと思い、薦めた本。この本は自分がまた読みたくなったので、既に2冊目を購入済み。

『たぐい vol.1』(亜紀書房)

マルチスピーシーズ人類学の雑誌、創刊号。以前、M.K. さんとの会話で犬食の話が出たので、ピンと来て貸した本。人類学には他種を、人間(それも西洋白人男性)に立ち現れてくる範囲でしか扱ってこなかったという反省がある。『ソウル・ハンターズ』と併せて読み直したいが、買うとして、雑誌という性質上、今も手に入るのかどうかはわからない。

エーリッヒ・フロム『生きるということ』(紀伊國屋書店)

「To Have or To Be?」という原題の通りに、「持つ存在様式」と、「ある存在様式」が対比されてある(そしてフロムは後者をこそ選択せねばならない、という)。あまりに明確な二元論であるという批判は免れることはできないが、生きることとは、ものを所有することではない、という事実を忘れそうになったときには読み返したい本。

鷲田清一『「聴く」ことの力』(筑摩書房)

M.K.さんが河合隼雄が好きだという話があって、それで、鷲田清一にはまっていた時期のあるわたしの念頭には二人の対談(『臨床とことば』)があった。M.K. さんの仕事にもまさしく「聴く」ことや、歓待することという側面が多分に含まれているはずで、わたしとは違った読みをされるのではないかと思ったのだった。

大崎清夏『指差すことができない』(青土社)

「論じる」文章を多く薦めてしまったので、やはり詩集を、ということで一緒に貸すことにした本。

『戦争と一人の女』(漫画:近藤ようこ、原作:坂口安吾)(青林工藝舎)

わたしと同じく、安吾も読むM.K.さんにぜひ、この漫画は読んで欲しかった。


S.Y.さんに貸している本

岡本太郎『原色の呪文』(講談社)

随分前、おそらく6,7年前に貸した本。岡本太郎の激烈さがきっと彼のためになると考えて貸したように記憶している。岡本太郎が太陽を睨むエピソードを読み返したいと思っている(エッセイを書くのに用いたい)。

鷲田清一『ちぐはぐな身体』(筑摩書房)

鷲田清一はモード論をいくつかのレベルに分けて書いている。いくつかのレベルというのは、おおよそ文章のわかりやすさ、読みやすさのレベルのことであって、初期の『モードの迷宮』はその中でも難しい方に入る。本書は、比較的読みやすい方の「鷲田流身体/衣服論」。S.Y.さんに葦田くんにおすすめの本を貸してほしいと言われたときに、衣類が好きなS.Y.さんにこそ、と思い、『原色の呪文』と併せて薦めたのだった。

まとめ

わたしの記憶に間違いがなければ、というかこの言い方自体が間違いであって、記憶とは間違いのことだと言ってもいいのであるから、わたしの記憶が「間違っていれば」、以上が現在におけるわたしの本の貸借状況である。

お金は貸すときにはあげるつもりで貸せ、というような話があるが、本の場合にはそうはならない。なぜなら、貨幣という「何とでも」交換できるものとは異なり、本には交換不可能性のようなものがついて回るからだ。再版されない本はそれだけで貴重だし、この人にとってのこの本だからこそ「価値」がある、というようなことが言える。

とはいえ、自分の輪郭を鮮明に保っておこうとするのもまた、はなから無理のある話だ。「モノ」としての本であれば、バイナリーで貸した/貸していない、借りた/借りていないを整理することができる(だから図書館のシステムは機能する)が、本来どこまでがわたしでどこからがわたしでないのかなんてことは定めることができない。何がわたしかなんてことは「指差すことができない」のだし、指差せるところのわたしが、飛び地のようにあちこちに点在していることだってあるかもしれない。人間はトーラスで、どこまでが餌でどこからがわたしで、どこからが排泄物なのか。吐いた食物はわたしではないと言い切れるのか。あるいは、家族の前での顔、恋人の前での顔、友人の前での顔、そして友人の中でも、この友人とあの友人とでは、その前にいるときの顔が変わってしまう。顔とは、自らに遅れて、他者の他者として表情する現象だからだ。本来的に顔は自分の所有物ではない。

だから、交換不可能性のようなものを備えた本というのは、流動性を携えたもので、あるべき場所というのが決まっているのかもしれない。「私の所有物」だけれども、あそこにあるべきだとか、「あの人の所有物」だけれども、わたしが今は借りているべき(そしてそれは一生続くかもしれない)だとか、そんなものなのだろうと思う。お金とは異なる流動性のうちに本はある。束の間、ここにある本がまたその独自の交換不可能性によってあちらへと流れていくこともあろうし、本もまた巡り合わせなので、わたしが手放すことによってまた新たな本との出会いもやってくるだろう。

ここに記した貸借表は、2023年7月10日、15時27分現在のものであって、わたしがこのように借りた本や貸している本について言及することで、これらの本も変質を被っている。もう15時28分だ。本が変わる。わたしが変わる。

以上、束の間の貸借状況の記録である。そしてこのnoteをわたしが「切り離す」のは17時42分。流れていく。

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葦田不見
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