なぜ立ち小便をする人は壁を探すのか

 ああ、饐えたにおいが漂ってきた……。


 立ち小便をする人はどうして壁を探すのだろう。男性用小便器に慣れているために、同じような壁を探すのだ、と言うこともできるかもしれない。あるいはまた、羞恥心が一方の側だけでも死角を作らせるのかもしれない。たぶんどちらも本当である。
 けれども、小便をするのに、向かう先が壁である必要はない。虚空に向かって放ったっていいわけだ。むしろその方が跳ね返りも少なくなるだろうし、壁ほどに場所を探す必要はない。公園の砂場でも、路地のアスファルトでも、放物線を着地させたらいいではないか。
 でも立ち小便をする人間は、壁を探す。むしろ彼らは、跳ね返りがあるからこそ壁を選んでいるような気がする。そこには原初の人間が初めて絵を書いたときのような、そんな心の動きがあるように思う。壁の染みを見ていると、ラスコーの壁画を見ているような思いにとらわれる(ラスコーの壁画を見たことはない)。
 排泄とは、人間の原初的な表現の喜びである。フロイトによる人間の発達段階を踏まえると、生後すぐの口唇期の次に肛門期がやってくるが、ここで人間が感じるのは己の身体を使って、ものを形作る、という喜びだ。立ち小便は形のない小便だが、通ずるものはある。小便には形がないからこそ、彼らは壁に当てて、「絵を描く」のだ。つるんとした陶器製の便器は、模様も残さず飲み込んでしまうが、ざらついた建物の外壁やブロック塀は模様を写し出してくれる。
 なにかを出して、それを形にし、見たい、というところにはナルシシズム的な恍惚感があろうし、そこにナルシシズムがあるのであれば、跳ね返りは必要なものになる。ナルシシズムとはある種の意識の折り返しだからである。壁に小便を当てること、それはex-pression、すなわち内なるものの表現・表出であり、跳ね返りを浴びることは、自分が描いた絵を見て陶然とする画家のナルシシズムと相通ずる。立ち小便をする人たちは、内なるものを外へと(ex-)、pressする。その意味で、立ち小便、立ちションは、エクスプレッション、と言えそうである。
 絵を描きたいから彼らは壁を探すのだ。画家がキャンバスを必要とするように。

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葦田不見
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