魔法
もう、ずっと誰かに早く魔法をかけてもらいたいと思っていた。でもそれは本当じゃなくて、本当は、もう何かの魔法にかかっていて、それが解けかけているのかもしれない。
そう、こうなったら、いつか、男性に魔法をかけられるような素敵な女性になりたい。
そう思いながらも凛那は漁に出ていない時はずっとマンガばかり読んでいた。二十五歳である。字だけの本を読んでいるのを父親は見たことがなかった。愛読書はりぼんである。幼稚園から読んでいて、ある時、りぼんは卒業した、と言ってくれた時父親は安心したのだが、次の月から読んでいたのはマーガレットだったので全てを諦めた。
子どもの頃から漁についてきた。高校を卒業してもどこにも行かずに父親と漁に出ていた。
「東京に行かなくてもマンガは読める」
という意味の分からないことを言っていたが、父親としては安心だった。無理に都会に出す必要もなかったし、漁の支えになってくれた。一級船舶も持っていた。知識も経験も父親と遜色ないほどだった。ただ世間知らずなところだけが心配と言えば心配だった。
その彼女がマンガではなく現実の男性に恋に落ちたのを見て父親は驚いた。
今までは鬼の男や江戸時代の男や十九世紀のイギリスの貴族にばかり熱をあげていたので、父親はその変化を見てすぐに気づいた。
三月、事務所に来客があった。凛那は定置網の点検から帰ってきたところだった。後ろから見ると、細身のスーツをきた背の高い男性だった。そういえば父親が、近いうちに面接をすると言っていた。前に回ってみると、かなりのハンサムだった。
「採用!」
と凛那は言った。
「黙ってろ」
と父親に怒鳴られた。
その男性も笑った。
「こちらが凛那さんですか。はじめまして、村上といいます」
凛那は頬を染めて言った。
「海の仕事は大変だが、頑張ってくれたまえ」
「うるせえからどっか行けよ」
とまた父親に怒られ、凛那は部屋から出されてしまった。
その帰り際、駐車場に出たところで村上さんのバッグからちらっとフィンが見えた。スーツにフィンは不自然だった。しかも、面接の後にどこかに潜る人はいるか。
密漁か。アワビかナマコなら高値で取引される。金属のヘラを持っていれば疑いの余地はない。
父親は気づいていないようだった。笑って見送っている。どこか抜けているのだ。盗賊を従業員にしてどうする。
それにしても、まさか、彼が。
めまいがした。凛那が子どもの頃から死ぬまでに一度でいいから言ってみたいと思っていた決めゼリフが、
「そこまでだ。警察だ」
なのだった。そして余裕があれば、
「漁業権はあるのか。おぬしら、漁業権の侵害じゃ」
も付け足したかった。それをまさか、初恋とも言える彼に向けて発することになるかもしれないとは。何という私の運命。ガードレールによろけた。
「お姉ちゃん大丈夫?」
と通りがかりの幼稚園児に言われた。
「なんとかね」
と大人っぽくきめた。
言いたい。とても言いたい。贅沢を言わせてもらえるなら、できれば最後にこれも言いたい。
「こうして海の平和は守られたのであった」
まためまいがした。渋すぎる。ナレーションまでできる私にめまいだ。
ところが、一週間経っても彼は来なかった。不採用にしたのか。父親は教えてくれない。
だがある夜。町で見かけた。週刊ジャンプを買いに行くと、書店の店先で店主と話していたのだ。
凛那は迷わず彼を尾行した。今日はバッグは持っていなかったが、何かが怪しかった。火盗改めならではの勘ばたらきであった、と心の中でつぶやいた。
マルヒ村上は磯の方に歩いて行った。途中、高校の時の友だちに会った。同じマンガ部のみよちゃんだった。
「ごめんね。あとで電話する」
と凛那は電柱に隠れたまま手を合わせた。
「忙しそうだね」
「うん」
村上さんは海の前の国道で悪そうな人たち五、六人と会っていた。いよいよ怪しかった。男たちはそのまま岩場まで行った。しゃがんだままライトを当てて何かで岩を削っているようだった。間違いない。ただそれ以上近づくと自分の身が危ないので、引き返すことにした。
帰ってから、ミルクティーを飲んで落ち着いた。この件は、聞き込み調査が必要だった。
「おじいさん、やっぱり最近は密漁が増えましたか」
祖父は碁盤に石を置いた。ぽかんとした。
「そんなこと、お前の方がよく知っとるじゃろ。この辺りは被害に遭っとらん」
「なるほど。やはり賊は深夜に現れるのでしょうな」
「何言うとる」
「いや、捜査にご協力感謝いたしまする」
「どういたしまして」
と祖父は笑った。また碁石を手にした。
買い物に出た時には、意識して町を見た。次の週のある夜、また駅前の金物屋の前で村上を見つけた。先週と同じ月曜日だった。ジャンプの発売日として記憶していた。今度は、悪そうな男たちの車に乗り込んで消えていった。
村上さん、なぜあんなにかっこいいのに密漁など。うちで真面目に働けばいいではないか。今月の占い通りだった。乙女座、吉。失せ物みつかる。失せ物とは私の恋か。と、自分で思って、誰もいないところで赤面した。
これは笑いごとではなかった。漁師たちの生活がかかっていた。次はとことん、最後まで追跡する、と決めた。おにぎりも持った。縄も持った。十手も持った。父親には相談しなかった。彼はいつも私の話を真面目に聞かない。一人で大丈夫だ。
決行したのは満月の夜だった。月曜日である。村上さんはすぐに見つかった。その夜は駅前のサーフショップの前にいた。そして磯に向かって歩き出した。今日は一人だった。村上さんはこれまでと同じように岩場まで着くと、暗がりにライトを当てていた。凛那は悲しかった。切なかった。とうとう、恋しい人に縄をかけなければならないとは。思い切って声を出した。
「そこまでだ。警察だ」
の「そ」まで言ったところで、
「お疲れ様です」
という声が後ろから重なって聞こえた。振り向くと五、六人の悪そうな男たちに混じって父親がいた。
「父ちゃん」
「県警の方たちだ。この辺りのパトロールを強化してくれることになってな。今日はその下見だ」
凛那は愕然とした。
村上さんは笑っていた。他の県警の人たちも微笑ましく凛那を見ていた。
「お前のことも見ておいてもらおうと思ってな、合同の巡回を今日に合わせてもらったんだ」
凛那はそれを聞いて驚いた。
「何故、今日、私が動くと?」
「あほう。何日も前から自分でブログに書いとるじゃねえか。捜査は満月の夜に決行、とかってよ。月曜の夜は必ず出かけとるし」
凛那は力なくその場にしゃがんだ。
県警の人たちは引き上げていった。とその時、村上さんだけが引き返してきた。凛那は慌てて謝罪した。
「村上さん、すみません、私、村上さんのこと疑ってしまって」
「そんなこと気にしないでください。私もお父さんと話し合って、あえて怪しい行動をとったところもあるんですから。こちらこそすみませんでした。でもおかげで、いい訓練になりました。これからもこの地域の安全を一緒に守りましょう」
村上さんが敬礼した。
「凛那さん、いつも犯罪防止へのご協力ありがとうございます」
去っていく村上さんの背中を見ていた。最後まで素敵だった。遠くから汽笛でも聴こえそうだった。それか、狼の遠吠えでも聴こえてきそうだった。現実に引き込まれそうだった。それはどういうことだ。私は現実に生きているのに。
「父ちゃん最後に一つだけ聞いていいかい」
「何だ」
「村上さんは独身なのかい?」
「もちろん結婚してる。美人らしいぞ。子どもも三人いる」
「そう」
翌日。一人、沖に船を出した。夕陽に向かって進んだ。
もう、ずっと誰かに早く魔法をかけてもらいたいと思っていた。でもそれは本当じゃなくて、本当は、もう何かの魔法にかかっていて、それが解けかけているのかもしれない。
そう、こうなったら、いつか、男性に魔法をかけられるような素敵な女性になりたい。
夕陽が急速に水平線の向こう側に消えていく。追いつけるだろうか。
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