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あの頃の柏、今この時の岩手:2024年11月の話

 9月気分だった10月は、小の月かと思ったら大の月で、1日余計な感じがして、10月気分の11月は、大の月かと思ったら小の月で、やや唐突に終わった。仕事が少し忙しくなり、働けるだけ働かないと終わらない気がする。
 裁量労働制のもとで働いている。勘違いされることもあるが、裁量労働は別に深夜休日問わず働いていいわけではない。深夜帯は深夜労働で、休日は休日出勤か振替出勤であり、管理者の許可は別に必要である。それ以外の時間は好きに働く。残業代はみなし時間で支払われている。成果はきちんと出す。なお、家で働いていいわけでもない。在宅勤務は別の制度である。
 やるべきときにやる。働かないでいいときはなるべく働かない。そういうメリハリの付け方もできるが、余裕のあるときにバッチ処理的に仕込みをしておくことも必要だろう、と追い込まれてから思う。夏休みの宿題は追い込みタイプだ。
 働けるだけ働かなくては終わらないが、睡眠時間を削ると効率が下がるので、そうなると買い物や料理の時間を減らす方向に走らざるを得なくなり、中食や外食が増えた一月であった。繊維質や微量要素が足りない感じがする。割と料理は好きなので、これはこれでストレスだな、と思う。

 忙しくても週末はしっかり、仕事はオフにする。11月は、いわてグルージャ盛岡の応援で、金沢と奈良に遠征した。どちらも花巻空港から神戸空港経由。新卒で勤めた会社では、一時期大阪の事務所にいたので、関西圏には思い出深い場所も多い。
 金沢のついでに福井に立ち寄った。福井の営業を担当していた。ソースカツ丼と越前そばが好きになった。一緒に回っていたカウンターパートの人も、よく各地の店に連れていってくれた。
 今回はソースカツ丼のヨーロッパ軒総本店で、カツとエビフライとメンチのどんぶりを食べる。ヨーロッパ軒のソースカツ丼は薄い肉に細かい衣でクリスピーな感じ。ほかにはない味わいである。ソースカツ丼が有名だが、薄い小判型のメンチもジューシーでうまい。そしてエビも、カツとメンチと同じような形になっている。即ち、エビが寿司ネタのように開かれている。これもエビのぷりっとした食感がしっかり残っていて美味である。ヨーロッパ軒へ行けば、この三つをどうしても全部食べたくなるのだ。
 大阪から、何度も出張で使ったサンダーバードに久々に乗る。本来は湖西線経由だが、強風で米原経由となった。そういえば、そんなこともあったな、と記憶が引きずり出される。電話をしている途中で北陸トンネルに入って、10分くらいやきもきするとか。今や敦賀から先は新幹線がつながった。新北陸トンネルはあっという間に通過してしまう。

 奈良に行く前には神戸で餃子を食べた。神戸と言えば味噌だれで食べる餃子である。あっさりした餃子をバクバク食べる。都市間の距離が短い関西圏だから、大阪に住んでいた頃は、よく神戸にも遊びに来て、餃子を食べていた。老舗と呼ばれるところは、メニューは餃子と飲み物だけ。ライスすらない。さくっと餃子を食べて出ていく店だと思う。
 私はだいたい二人前を頼む。お酒を飲んでいた時は、それに紹興酒をつけた。今回寄った店では、隣の男性が10人前を食べているところだった。関西圏では時々極端な注文のしかたに遭遇する。福井の秋吉の純けい30本みたいな、文化として定着している注文もあるし、大阪西成で串かつ屋入ったら、一人で串かつを30本頼んでいる人を見た。好きなものをひたすら食べるストイックさ。

 奈良では、春日大社と東大寺に行った。中学生の時、修学旅行で行ってるし、と思いパスしようかと思ったが、いったいいつの話してるんだ?とも思ったので、行った。そもそも春日大社には行ったのだろうか?とにかく修学旅行の奈良はしくじった記憶しかない。
 中学校で全方位外交みたいな過ごし方をしていたら、修学旅行では妙な組み合わせの班(はぐれ者の集まり?)に突っ込まれた。そして、班別行動がとにかくうまくいかなかったのであった。法隆寺の拝観料の高さに躊躇し、躊躇したまま時間を浪費して、結局、後々のスケジュールは計画から乖離していった。奈良公園には、実はたどり着いただけなのではないか。こんなに鹿いたかな?とにかく記憶に残っている風景が少なすぎる気がする。記憶というのは時間が経てばどんどんいい加減になる。だが、何かの拍子に急に目の前に立ち上がる。

 さて、試合はというと、まず、金沢では1-1で引き分けて、他会場の結果もあり、最下位が確定した。JFLへの降格がほぼ決まったわけである。先制こそしたものの、ボコボコにシュートを打たれて、体を張った守備と言えば聞こえは言いかもしれないが、とにかくやられたという印象。
 直前まで残留を争っていた奈良には、0-1で敗北。一瞬の隙を付かれ先制され、その後はほとんど勝ち筋の見えない、攻め手に欠いたゲーム展開であった。
 奈良が今季のアウェイ最終戦であったが、試合後の選手にかける言葉もない。こちらの魂が動かされるような試合ではないことは確かである。とは言え、がむしゃらに走ればいいものでもない。どんなときにサッカーで私の心が動くのか、忘れてしまった感じもする。

 ホームでの2試合も、ともに大量失点で敗北を喫した。とにかく出足が相手より1歩2歩遅いから、ボールを持ったときには既に相手選手が目の前にいて、出しどころがなくなり奪われ、ボールを持たれているときもなかなか奪取できずにパスを回され、あるいは出遅れてファールになってしまう。今季はずっとこんな調子である。これを"気持ち"を見せろ!走れ!と言ってスタンドから声を上げたとて、走り方を間違えれば結果は同じである。そのときは、なにやってんだ!って罵声が聞こえてくるだけだ。全てはトレーニングからの蓄積で、それが足りない以上、気持ちとか、応援とか、スタジアムの雰囲気というのは、どんなに優れていても無効化されてしまう。
 そこに心が動くようなプレーがあり、我々の声が大きくなり、また選手がそれに応える。ニワトリが先か、卵が先かのような話だが、"良いとき"と言うのは、フィールドのチームと、スタンドのファン・サポーターの双方の心身のコンディションがよくて、その相乗効果が発揮されるというだけだと思う。どちらかががんばったところで、それだけでは成立し得ない。

  Jリーグを退会し、JFLを戦う。その"責任"を取って、経営者が変わる。仕切り直しである。
 1年でJリーグに戻る。とは言うものの、Jリーグに参入したいクラブはいくつももあり、そのうち最大2クラブだけが昇格できるのがこの戦いのルールだ。どうなるかはわからない。
 そもそも、カテゴリーが下がって、1年で戻ると宣言したクラブがそれを実現するには、降格した年に比較的成績が上向きで終わった(ただ、それでも間に合わなかった)とか、主力選手が、1年で戻すとの気持ちで軒並みチームに残るなどの要素があるものだが、どうやらその両方とも今の岩手には当てはまらなそうだ。

 ふと、2006年の柏に思いを馳せる。私の故郷をホームタウンとする柏レイソルは2004年、2005年と二年連続でJ1・J2の入れ替え戦に回り、ついに初のJ2降格が決まった。ホームで迎えた2005年の入れ替え戦第2戦は甲府に2-6と大敗し、バレーにはダブルハットトリックを決められた。

 2005年はサポーターの乱闘騒ぎや選手を誹謗中傷する横断幕の掲出など、クラブ、チーム、選手とファン・サポーターの関係も崩れてしまったシーズンだった。そしてオフには当時のミスターレイソル明神や、代表ストライカーの玉田など、主力はだいたい移籍して、年内は退団のお知らせに怯える日々が続いた。ほぼ、ゼロからのスタートといえるシーズンが2006年だった。
 そんななか監督に就任した石崎信弘とその"チルドレン"である山根巌や岡山一成ら、生え抜きの南雄太や平山智規の残留に加え、清水に移籍していた北嶋秀朗のカムバックから、新しいチーム作りが始まった。
 プレスサッカーを標榜する石崎監督、そのサッカーを知る山根と岡山が要となりつつ、ベテランと若手、助っ人外国人らが切磋琢磨しながら、長いシーズンのその時々で光輝く選手がいる、2006年の柏は、辛くも楽しい、そして壊れたもの、失ったものを再生し取り戻すシーズンとなったと思う。
 選手とファン・サポーターの関係を再構築したのが、岡山一成だった。"トラメガを持つ選手"としてはおそらくJリーグの中でもその先駆けであり、川崎で生んだそのスタイルを柏で確固たるものにしたのではないかと思う。シーズン初勝利となった第2節のアウェイ草津戦では、岡山の声掛けで、柏のキラーチューン「レッツゴー柏」に合わせ、選手がダンスを披露する。選手がサポーターから渡されたゲーフラやフラッグを掲げながらサポーターと一緒になって歌い踊る光景は、勝利のダンス、あるいは日立台劇場、岡山劇場などと呼ばれ勝利後の恒例イベントとなり、形を変えながら現在まで引き継がれている。

 ゴール裏のサポーターが掲げる「一心同体」の言葉と合わせ、クラブに関わるものの一体感が再び生まれ始めたシーズンだった。
 個人的には、ホームはもちろん、とにかくアウェイにいっぱい行った。なんというか、1年で昇格したい、戻りたいという気持ちはもちろんだけれど、この選手たちと監督と昇格したいという気持ちが強かったのではないかと思うし、直接応援する気持ちを伝えたかったのだ。
 2006年、柏レイソルは平塚での最終戦で勝利をおさめ、リーグ戦で2位となり、1年でのJ1復帰を決めた。

 私が今、とても拍手を送ることができないような内容の試合でも、ブーイングをするでもなく、罵声を浴びせるでもなく、あるいはとりあえず形だけの拍手をするでもなく、選手に向かって胸のエンブレムを、どんどんどん。と叩いているのは、この柏での経験からの地続きである。ピッチ上の選手を糾弾したとして、選手の気持ちはここから離れていってしまうだけだ。うまくいかないことも続くかもしれない。だが、今はただ、このエンブレムのもとに、"ここ"に一緒にいると伝えたい。それが、どんどんどん。である。

 グルージャの最下位が決まって初めてのホーム戦。その試合後に地元テレビ局のインタビューに答えた。これからのグルージャに何を期待するか?
 いわての名をつけて、来年も全国リーグを戦うことに変わりはない。いわてに関わる全国の人々を"つなぐ"、戦いや活動を期待したい。それを一緒に盛り上げたい。というふうなことを話したと思う。これが私の本心だ。
 ここから離れてしまった仲間もいるし、私も離れてしまうかもしれない。だけど、ここが、誰もがいつでも戻ってこられる広場になってほしい。

 どん底かもしれない。大変な旅になりそうな気がする。だが、どんどんどん。のかすかな手触りがたよりだ。この広場がもっと大きく、開かれたものになったとき、また新しい景色が見えてくるような気がする。その景色をここにいる、ここにいた、ここに来る人たちと、一緒に見たい。今は強くそう思う。

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