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montage20[Seven Samurai]

第七芸術、第七官界、第七天国、エトセトラ。
7は未だ見ぬ素晴らしいもののための記号。
発見と遭遇をよろこぶ声。
私が単数である以上、世界も単数。
決して複数の世界は存在し得ない。
ありもしない7つの世界の代替品として、映画はある。複数の私が世界を眺める夢、そのもの。

モンタージュの技法そのものは、映画創世記から知られていた(らしいよ)。
視点の異なるカットを複数つなぎあわせるこの魔法は、のちに2つの方向へ分岐する。
シナリオの言語的な要素を映像に置き換えて編集していくエイゼンシュテイン・モンタージュ。
もう1つが、スタニスラフスキー・システムに影響を受け、俳優のリアルな反応をあらゆる角度から撮影するグリフィス・モンタージュ。
多大な予算がかかるため敬遠されてきた手法を本格的に実践し世界から称賛されたのが、黒澤明『七人の侍』なのだそう。(知らなかった歴史、ありがとうWikipedia)     

映画のことはさっぱりちんぷんかんぷんな私も、スタニスラフスキーのほうはちょっとだけ、知っている。

調べりゃわかることをこれ以上くだくだ言ってもしかたがないので、ものすごくかいつまんでお伝えすると、スタニスラフスキーは「”本物”の演技」を提唱し、広めた人です。ノンフィクションのフィクション、みたいな。そんな感じ。悲しいとか、寒いとか、おどろいたときの自分の全身の反応を分析して、徹底的に覚えこんで、それを演技で使いましょうという訓練。

スタニスラフスキー・システムが万能かといえば、それはそうでもないんじゃないか?と思うので複雑なんだけど、グループ名の由来になった映画の撮影技法が舞台俳優の基礎訓練に由来していて、初主演作品のモノローグがあちこちで称賛されていることに、ふしぎな納得感を得てしまった……

モノローグのモノローグたるゆえんは、やっぱり無意識へ語り掛ける声のスケールにあると思うんですわ。だって、会話のまま言える内容ならそのまま言ったほうが楽だし。転換いらんし。いちいち暗いなかにさりげないエッジでエモーショナルなサスペンション・ライト射し込ます手間ないし。(照明も美術も変化しないで独白する芝居ももちろんあるけど、その場合俳優の演技がそれを補完しているわけですよね)

そんな面倒な手続きを踏んでまで、伝えたいメッセージって、相手ってなに?どれほどの存在?とかんがえてみて、やっぱ行き着く先は自分自身なんじゃないかと。お芝居を観るときに一番好きな瞬間があって、それは開演ベルが鳴って客席が溶暗して真っ暗になるとき。そのとき観客の私はやっと、学生とか会社員とか女とか男とか、属性も、自分の名前すら捨てて、からっぽになる。空。その快感が好きで好きで、演劇をかれこれ十年くらい?観ている。あの火薬が爆ぜる匂いが嗅ぎたくて事件現場に戻ってきてしまう、放火魔と一緒ですね。話を戻して、観客としての私が好きなその瞬間は、暗転した舞台の中央にカッと射し込む一条の照明のなかで、静まり返った客席のほうを向いてセリフを言いはじめる刹那にも似ているんじゃないかと、演劇をやっていた頃の私が言う。そうかもしれない。暗闇の中で椅子に座った私が何者でもないのと同じように、独白の台詞をしゃべっている自分が何なのか、ずっとわからないままだった。台本には、台詞の上の部分に[役名]と書かれているから、今しゃべっているのは[役名]の私なんだけど、[本名]の私も私自身の声を聴いていて、じゃあこの声は誰の声なんだ、私なのか、あなたなのか。無意識のうちにそんなことを考えているとあっという間に出番は終わってしまい、現在に至ります。

「これだ」にはまだ遠く、「ちがう」からは離れてしまった考え。

本当に誰かに何かを伝えたいとき、一番遠くまで、広く声を届けられるのは、からっぽの人。空の人。そんな気がします。単数の自分を一時だけ忘れ、複数のあなたに入り込むために、無意識の声を届けること。それが私にとっての、最上のモノローグの条件なのかもしれません。

ふだん音楽のステージで観る矢花黎さんのパフォーマンスは、矢花黎さんが矢花黎さんであることを120%フル活用した表現で、それがすごく素敵だったからファンになった。

(全公演観た人がざらにいる状況下でこういうこと本当に言いづらいんだけど言っちゃうぞ)千穐楽のモノローグが本当に良くて、特に冒頭が。前日夜公演ではじけ飛んだ岩石が、一夜にしてさらに分子レベルに粉砕され、巨大な砂のお城が建ったみたいだった。確かにいる、そこでしゃべっている(マイクを通っている)声が、どこから聴こえてきているのかわからなくなって、それは確かに矢花黎さんの声なのに、砂嵐にかき消されて違う人の声に思えてくる。いつしかそれは私自身の声として聴こえてくる、そんなはずはない、おかしい。そう思って手を伸ばすと砂が一気に崩れて後には何も残らないような、素晴らしい瞬間だった。あれだけ日頃「矢花黎」を利用しきっている人が、いともやすやすと自分の名前を手放して複数の世界、複数の瞳に向かって話しかけてくれる今日という日の素晴らしさだった。あの瞬間私たちは、複数の世界の幻覚を観た。あなたは、あなた自身を見つめていた。それによって私たちが見た幻想は、いかにも本当らしくなった。あなたが私たちを置き去りにして、あなたを見つめている瞬間にもう一度立ち会いたい。モンタージュを切り取るカメラが20から40に増えたとき、またお逢いできれば光栄です。

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