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転職したり、また転職したり、忙しいのだが人生は好転している話

これで己の感情を成仏させたいんだよ。ただそれだけ。読ませたい記事ってわけじゃないんだ。それでも読んでほしいんだ。いや。眺めるだけでいい。

小生

自分は、時間がたつと感情を忘れるほうだと思う。

楽しいことや、腹が立つことは半日くらい。辛いことも悲しいことは、一週間くらい経てば忘れることができて、いつもの状態に戻っていく。

だから時間さえ経ってしまえば、あのときの感情ってどんな風だったっけ…?のようにスッキリすっからかん状態になるのだが、感情を忘れることなく、記憶にしまっておく方法がある。それは、感情と音楽を紐づけることである。

別に難しいことはない。生活の中で音楽を繰り返し、繰り返し、聴き続けるだけだ。何年後かに再びその音楽を聴くと、忘れていたはずの感情が泡が昇るように蘇ってくるのだ。

青葉市子 はるなつあきふゆ


この曲を聴くと、憂鬱で極限まで追い詰められた、それでいて新たな生命の歓びに満ちた、相克した感情が蘇ってくる。

2年前の転職はまるで失敗だった

完全な失敗。

入社前にnote記事に書いていたな。非公開にしたけれども。自分のスキルを役に立てるんだって。世のために、文明が永続するために働くんだって、そういう志を持っていた。「俺達と新しい世界を作ろう」って自分を誘ってくれた人と仕事ができるんだって、不安もありつつ、期待を抱いていたのだ。

現実は悲しいものだ。

スキルは何の役にも立たなかった。会社も配属された部署も、能力を活用しようという気はあったかもしれないが、どう活用すればよいのかわからなかったのだろう。細分化された能力モデル、問題解決のフレームワーク、製造業で成功した標準化のノウハウを人間にまで適用した結果、この会社は強い競争力と稼ぐ力を手に入れた。しかしその環境は、外から入ってきた人間にはあまりにも馴染にくいものであった。

指導と称した圧迫行為も過酷であった。

スキル、つまりは専門性の高い能力を発揮できなければ、自分は「ふつうにダメなやつ」なのである。任された仕事はほとんど捌くことができなかった。

そうすると指導が入る。「なぜできないのか?」「じゃあどうすればできるのか?」「どうするつもりなのか?」「納期遅延を起こしたらお前の責任じゃ済まないんだぞ!」

答えようのない追求が続く。週に4時間は追求されたと思う。彼らは暇なのだろうか?

(仕事が捌けない云々…実はこれ、自分に発達障害があったためではないかと考えられる。また別記事で書いていきたい。)

極度の不安に苛まれる日々

入社後、3ヶ月あたりから不眠の症状が出てくる。強い不安で夜中に何度も目を覚ました。半年たつと意識が朦朧とし始めた。頭がぼんやりして何も考えられない。その頃になると、妻が出産準備で実家に帰ったこともあり、一人になる時間が増え、急速に状態が悪くなっていった。

会社の駐車場までは来たけれど、車から降りることができない。窓の外では鳩が毛づくろいをしている。止まっている車の台数を数える。はためく緑十字の旗を、じっと眺める。ああ、もう時間だ。会社にいかねばならない。

冒頭に紹介した「はるなつあきふゆ」は、このときに車の中で何度も繰り返し聴いていた。

子供が生まれ、転職する

朦朧とする中、子供が生まれた(過去記事)。嬉しいはずなのだけど、喜ぶことができない。あまりにも会社生活が暗澹としているために、その恐ろしさを撥ねつけることができない。父親になったというのに、情けない話だと思った。

結局、入社一年が経過した頃に退職を決断し、転職活動を始めた。在籍期間が短いので不利なのではと心配だったが、幸い、拾ってくれる会社はすぐ見つかった。場所は東京である。引っ越さねばならない。妻のピアノは持っていくことができないので、実家に仮置きさせてもらった。

転職は大変だが、妻子を連れて拠点を移すことはさらに大変である。特に妻には肉体的精神的な負担を掛けてしまったので、申し訳ないことをしたと思っている。とはいえ、あそこまで落ち込んでいた自分が、事態の転換を引き起こせるだけのエネルギーを発揮できたのは、やはり子供あってのことだろう。子供は偉大だと感じる。

在籍していた会社には退職を告げた。誠に驚くべきことだが、彼らにとってはショックだったようだ。自分のように追い込まれた人間は、部署異動か、うつ病を発症して休職するかの二択になるのが普通らしい。辞める人間は0.1%もいないそうだ。愛知三河は狂ってんな。

前向きにってのは違うと思うんだな

この1年半はなんだったのだろうか。退職の挨拶にすらダメ出しする会社で働くことに、何の意味があったのだろうか。昨今では、なんでも前向きに捉えるのが流行っているらしい。それに乗じて自分も「人生の糧になったと思う」なんて、退職前の人事面談で話していたが、やはり違うと思う。

無意味なものは無意味なのである。無意味なものに意味を見出すことは、サンクコスト効果で、判断が鈍っていることにほかならない。自分は1年半をドブに捨てたんだと、しかしたった1年半で損切りできたのだから、まさにラッキーである。

…ということはやはり人生の糧になったということだろうか。

転職して、ふたたび自分のスキルが発揮できるチャンスがやってきた。毎日猛烈に仕事をしている。苦しいこともあるが、一番底はもう見えたから、あとは上がるだけ。前よりもずっと、人生を楽しめるようになった気がする。

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