わたしにはねこがいない 手を握るということ
手を繋ぐではなく
手を握るということを
受けたことがあるだろうか
わたしには正確に、2度ある
一度は、大切にしていた文鳥が発作を起こしたときだ
それは大きな発作で、始終身体を細かく振るわせていた
どうしたらいいかもわからず
暖めて、柔らかい布にその身体をおいた
人の体温より小鳥の体温は高く
普段ならいいかもしれないが
今は触れていると、体温を奪ってしまわないか心配だった
この小さな小さな体から命が離れていって
身体はあるのにいなくなるなんてことは考えられず
だけれども、なにかを感じていた
手を差し込んで身体を優しく包んでいると、か細い痙攣は止まった
身体に力はなく、小鳥にはありえない横たえられた姿勢でも、文鳥は私のそばで横になっていた
どうしてもと数分手をはなしたり
やはり寒くないかと手を離すと
やはり痙攣ははじまり、体温とかそういうものではなかったのだと今はわかるようになった
それから、父が意識がなくなったときに
手を握ったらもの凄い力で握りかえってきた
それは緩むことなく、しっかりとしたものだった
今思えば、数時間もずっと同じく、同じ力で握っているというのはすごいことだったのではないかと思う
意志の力を感じる
それも他のことへは逸らされることない
純粋な、握る、ここにいてほしいという意思を感じた
その力があまりに強く、なんでもかんでも忘れてしまって、命日も誕生日も年齢も覚えてないのに、手を握っていたことは克明に覚えている
人の幸せなんてわからない
キャリコネニュースを読むと
年収300万で積んだ、オワタ
服も量販店だとか、缶コーヒーを節約するとか書いてある
かと思えば、YouTubeでは手取り15万程で豊かに暮らしたり、古民家に丁寧に暮らす若者なんかもいて、わけがわからない
物差しは絶対的にあって
でもそれが示す値は有形ではなく、水物なのだ
スライムみたいに変わるし
住んでる仲間やカテゴライズによってガチガチに固められたりなんかして、いつのまにか苦しくなっていたりする
まあそんなわけで、わたしは幸せの指標は人生、思うことがありすぎて、わからない
じゃあ前向きに目標を決めるとかもない
ただ、ふと思うのだ
過るのだ
職場の空調が効きすぎた廊下を歩いて
頬が乾燥するなと思ったときなんかにふと
自分が亡くなるときに
手を握ってほしい人はいるだろうか
わたしに手をにぎっていてほしいひとはいるだろうか
これは言葉を飾らずにいうが、
本当に残念ながらいない
そういう人は、いなくなってしまった
そんな人がいた人生から
いない人生にシフトしてしまった
しあわせとは一体何なのか
それはきっと、最後のときに
手を握りたいと思う人がいるかどうかだ
そんなひとが、そう思えるひとがいるか
それが可能でも可能でなくても
この地球のどこかにそんなひとがいるのなら
あなたは、ひかれた線があるなら
その上のしあわせのラインにはいる