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幼少期、気づけば僕は父が嫌いになっていた。

 前回、僕が機能不全家族のなかで育ったという話をしましたが、今日は父との関係性をメインに、幼少期の話をしようと思います。

(1) "いばしょ"が無かった、21歳までの僕へ。 ※前回の投稿

実は、父が好きだった。

 本当に自分が小さかった時、2歳とか3歳の頃、自分は結構父親を好いていた記憶があります。一緒にお風呂に入ったり、おもちゃで遊んだり、いまも現役で大工の父は、当時子育てに張り切っていたようで、倉庫にある廃材を集めて特製の車を作ってくれました。ホームビデオを見ても、両親ともに愛情を注いでくれていたようです。実はこの頃は、どこにでもいる、いたって幸せな家族の日常が僕の目の前にもありました。

 機能不全家族とはいっても、一般的に想像されるようなわかりやすい暴力や虐待と呼べるようなつらい経験はほとんどありませんでした。父は少しストレスを制御できないところがあって、僕が4歳のときに一度頭を叩かれたのと、小学生の頃、本気で喧嘩したときに湯呑を地面に叩きつけたことがありました。でも、逆に言えば覚えているのはその2回ぐらいで、毎日殴られるとか、そういうレベルで深刻な環境に自分がいるという事実も認識も僕にはありませんでした。

――だからこそ、僕は自分の心の傷に気づけなかった。
  心のずっと奥に抱えたまま、深い深い傷に、気づけなかったのです。

父が、僕を手放した日。

 小学校にあがると、さすがに子どもとはいえ自我が芽ばえ、一人の人間として意思や意見を伝えたり、ときには親の提案にNOを突き付けたり、少し扱いづらい部分も増えてくる時期かと思います。例に漏れず、いや、普通以上に、僕は扱いづらい子だったかもしれません。

 昔から理屈っぽいことが好きで、図鑑や教科書ばかり読んでいた。そして、大人の行動で矛盾することとか、世の中の理不尽とか、そういうものには容赦なく「なんで?なんで?」を繰り返す子どもでした。学校で割り算の筆算を勉強したら、家に帰ってお手製の筆算ドリルを作って、父や母に問題を出して「解いて解いて」と言って構ってもらうのが、夕方のルーティンになっていました。

 最初は「どれどれ!」と言いながら問題を解いてくれたり、「わー!難しいな!」と演技(おそらく演技)を挟みながら頭を抱えてくれた父でしたが、飽きたのか、そのほかになにか事情があったのか、だんだんと興味を持たれなくなり。ただ淡々と問題を解いて無言で提出したり、「お父さん疲れたから」と言って問題すら解いてくれない日が増えました。小2ぐらいだったと思います。

 その行動を見て「でた!理不尽な大人!」と思ったのか、僕は「なんで?なんで?」を繰り返していました。その頃から、父に興味を持たれていないと思うようになりました。いま振り返ると父は、自我が芽ばえ、予想通りにいかない息子との接しかたがわからなくなっていたのだと思います。

 こうした一連の経験から僕が学んだことといえば、
「僕が少しでも好意を伝えれば、相手は理不尽に自分を避けようとする」
ということ。ある程度対人関係が安定するようになったいまだから言語化できるけれど、この感覚は22年間近く、自分の恋愛観や対人観を大きく狂わせ続けました。好きな人に好きと言えない、仲良くなりたい人に仲良くしたいと言えない、その感覚はいまもなお、心のどこかに引きずっている部分があるように思えます。

母が、僕と父を引き裂いた。

 これで済めばせめてまだよかったものの、追い打ちをかけるように悲しいできごとは続きました。息子との接しかたがわからず、息子と距離を取るようになった父のことを、母はとにかく悪者扱いしたのです。

「家のことなんて一つも手伝ってくれない、○○ちゃんのパパとは大違い。」
「PTA会長だけは一丁前にやって、ただの目立ちたがりなのよ。」
「お母さんはこんなに子どものこと考えてるのに。」

 そんなひとりごとを聞えよがしにつぶやく母。たばこをふかしながら愚痴を言うのは、いつもきまって僕の前でした。

 気づけば僕は父が嫌いになっていた。母が唱えていた呪文を僕もそのまま自分に言い聞かせ、一緒になって
「そうだね、○○ちゃんのパパとは大違いだね。」
と唱えるようになりました。

 あるときは学校で父親の悪口を言った。PTAのプリントが配られた日は、PTA会長だった父の名前を赤線で消すように友だちに言って回りました。担任の先生から怒られたのは、母ではなくて、僕でした。

 また別の日には、あまりにも僕が学校で父親の悪口を言いふらすから、
「ご家庭でお父さんについてどんなお話をされているんですか?」
と、別の先生が家にいた母を訪ねてきたこともありました。いま思えば、この先生は担任の先生と違って、本当に家族を心配してくれていたのだと思います。それでも母は、
「お父さんが家で何もしないから家で文句いっただけなのに、あんたは学校で言いふらすし、まるで私が悪者みたいじゃない。」
とばかり。まるで、私は一切加担してません、と言わんばかりに母は不満を垂れていました。

好きなのか、嫌いなのか。

――それでも、僕にだって一瞬父を好きになる瞬間もありました。

きっと多くの子どもが抱く感情。
「お仕事してるパパ格好いい」という憧れ。

 いまなら「パパと同じ仕事は俺絶対向いてない!できない!」と思うけれど、そんな僕にも大工に憧れる時期があったのでした。働いてるパパの背中って、カッコいいんです。なにがあっても一回は憧れるように、僕の脳みそは設計されていたのかもしれません。

 小学4年生のとき、大切に飼っていた、大好きだったゴールデンレトリバーの、僕より年上で大きい大きいわんこが、天国へ旅立ちました。僕はひどく悲しくて、せめて思い出だけは残したいと思って、
「お父さんお仏壇作りたい。首輪とか写真とか置けるぐらい大きなやつ。」
とお願いしたのを覚えています。

 父も張り切ったのか、休みの日を作っては僕を作業場に誘い、一緒に設計図を描いたり木材を切ったりしてくれたのでした。いままで知らなかった父の仕事のこと、実は親父って僕のこと好きなんじゃね、これがいわゆる男どうしの会話ってやつなのか、子どもなりにいろいろなことを思いながら、再び少しずつ父に心を開きはじめた時期でした。

 それでも木くずだらけになって2人で家に帰ると、そこには母がいます。
「わ!きったない、大工は臭くて汚い仕事だね。」
「あんたもお父さんみたいになりたいの?」
「最近本当にお父さんみたいな性格になってきたよね、さすが親子だわ。」
父への憎悪は僕にまで向けられるようになりました。仕方なく僕は、家では母親に気に入られるために、母と一緒に父の悪口を復唱していました。

"精神的虐待"という、見えない心の痣。

 いま振り返っても、母の言葉は本当に残酷だった。父と息子の間にできた静かな溝を、バリバリと引き裂いたのは母でした。

 令和のこの時代においては、これは明確なモラハラであり、家庭内暴力(精神的DVも暴力の一種と定義されています)だということができます。でも、当時の田舎町でそんなこと教えてくれる大人は居なかった。

 当時はこれが僕のなかで見えない心の痣になるだなんてまったく思っていなかったけれど、「母が好きで、父も好き。どっちも好き。」この感情を素直に表現できないことがどれだけ異常でつらい経験だったか。いま振り返ってもよく生き抜いてきたと自分をほめてやりたくなります。

 どんなことがあっても、僕の半分は父の遺伝子なわけで、そもそも両親の遺伝子が混ぜこぜになった僕という存在を産んだのも両親の意思なわけで、僕の中に"父っぽさ"が紛れ込んでいることで僕が咎められる筋合いなんてどこにもないのに。自分の半分を否定され、僕自身も親のことを好きと思えなくなっていきました。

 こうして僕は高1の春。《自分の半分》と決別することを決めたのでした。

(3) 15歳、父を"捨てる"ための高校受験。※次回の投稿

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