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溶けていく苦しみ

環境の変化を決めてからしばらくして、ここ数年の苦しさが遠くなったような気がする。
それは、よいことなのだろうか、どうなんだろうか。
完全にとおくなる前に、覚えていることを書いておく。

独立してからは、見えない道をいく不安・恐怖と毎日戦っていた。
独立してから1年、本格的に移住したての頃、
それまで認識できていなかった過去の苦しさを、感覚的に思い出した。

なんだか分からないけどとても苦しい、でも何かわからない、という二重の苦しみ。

そしてまた1年後、歌や絵、文章などの創作を通じて、ようやく何に苦しんでいる(た)のか段階的にわかるようになった。
まずは時期の近いもの、そして人生のぽつぽつとした瞬間で感じた感情、それを行き場のないまま、「苦手」とも「嫌い」とも言えなかった頃のこと。

わたしはずっと口をつぐんで、自分でも声を聞けなかった。
脳と口は別の方法で、自分を守ってきた。
移住して安全な居場所をつくったこと、ある友人に出会ったことでようやく声が聞けるようになった。

苦しんで、傷ついていることがわかると、ようやく臆病になる。
そして、閉じてはいるけど、閉じたままでもいられない。
少しずつ訪ねて、開いていった先があたたかくて、大丈夫なことを少しずつ確認していった。

そして、自分が「大丈夫」と感覚的に思ったときに、また変える決断をしたんだと思う。


同じように、苦しみに自覚的なひとたち。

ひとりは、10年経っても傷がうずくといっていた。
ひとりは、加害者も被害者も経験して(どちらともつかない)、自分と他人をゆるしているように見えた。
傷は、放置しておくのでも、治療に専念するだけでもなく、自らが向き合って歩こうとしたときに変化するのかもしれない。

忘れていいこともあるし、思い出さなくていいこともある。
でも新しい友人に出会ったとき、光を感じた。



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