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ツイッター制限について思ふこと

記憶が正しければ7/1の23時近くからだった気がする。API制限とかいうのが始まったのは。
数日経った今でもタイムラインは正に阿鼻叫喚といった様相で、検索すれば無数にイーロン・マスクへの非難の声を見つけることができる。
正直その事についてどうこうと言う気はない。まあ責められても仕方ない。

じゃあ何が言いたいのかというと、私自身どうなのかという話がしたいのだ。そう、これが自分でもびっくりするくらい、困っていないのである。ツイッター開こうかな、ああ開けないや(もしくは制限かかるの嫌だから開くのやめよう、となる)、じゃあその時間で積読崩すか。積みゲーでも触るか。あるいは散歩でもしようか。
マスクさんもビックリである。なぜか前向きな原動力としてこれを使える自分に驚いている。

一応言うと私は「ツイッターに依存してない自分カッケェ!」をやりたいわけではない(多分)。
「皆さん私のようになりましょう!」と声高に主張するわけでもない(これはマジ)。

なぜ私はこうなんだろう、、、

考えた結果自分が思ったのは、ツイッターって私にとっては「合間のコンテンツ」でしかなかったんだな、ということだ。
映画を見る→ツイッターで感想を探し、共有する
ゲームをプレイする→ツイッターで情報を集める
みんな当たり前にやっている事だ。でも多分私が1番重きを置いていたのは映画やゲームの方で、それを他の人と共有するとかは副次的な娯楽でしかなかったんだろう。そう気付いた。

でも逆にそうでない人たちもいる。
コンテンツを楽しんだ上で、それを共通の話題とすることに最大の価値を見出す人。案外多かったんじゃなかろうかと思う。二次創作という界隈は、多かれ少なかれこの傾向はある。
誤解しないで欲しいのは、さっきも言った通り私はそれを非難する気は全くない。むしろいいと思う。

そう、逆なのだ。
私、その輪の中に入れてなかったんだな……
と気付いたのだ。

何だかんだ斜に構えながらも、私はツイッターランドに馴染めていると思い込んでいた。しかしTLで発狂している人々を見ていると、明確に私と「ツイッター民」との間には意識の差があったことを痛感するのだ。

もっと楽しめたのかな。
ツイッターランドも。
でも今の距離感に不満はないのよ?
うーん。

フクザツな気持ちのまま、ちょっとだけ上がったQOLに感謝する日々を過ごしています。

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