未来人と産業廃棄物――千田先生の「ターフ」論文を読んで
『現代思想』に掲載された千田有紀教授の論文「「女」の境界線を引き直す:「ターフ」をめぐる対立を超えて」を読みました。今から、その論文を読んで考えたことを書きます。ただし、わたしには批判や論駁は書けません。わたしは大学でフェミニズムの教育を受けてはいないし、ゆなさんのように精密で論理的な文章も書けません。ゆなさんは哲学書も読む方ですが、わたしはAセクの人のブログとか、Tumblerの投稿くらいしか読まないし、英語の本も、非アカデミック系の活動家やライターさんの本くらいしか読めません。
海外のAセクコミュニティで知り合った、日本人の文系の研究者の方がいます。その知人に「ターフ論文」を批判してほしいとお願いしましたが、やんわり断られました。学者が雑誌に公表した文章に反論を書くということは、学者には命がけのことで、それはブログやツイッターで「批判」を書くのとは全く違うということでした。わたしは理解しました。もう、日本のトランスジェンダー排除は新しいステージに進んだ、と。その知人の方は、確かにSNSはやめていますが、それだけでなく、千田先生の持つ権力は普通の若手研究者を沈黙させるのに十分だと分かりました。若手だけでなく、ジェンダー・フェミニズム系のアカデミズムの主流の人たちも、きっとこの論文はスルーするのでしょう。
わたしにできることはありません。でも、この論文を読んで、布団で突っ伏したりトイレで吐いたりするだけでなく、考えたことを記録することには意味があると思うようになりました。もう、2年前のような平和なツイッターの世界は戻ってこないし、シスジェンダーではない人間の言葉がこれからは少しでも増えた方がいいと思うからです。わたしは、そうして書き残された、ネット上の過去の言葉に、これまで何度も救われてきました。
ただし、わたしの個人的な経験のことも書くので、読むのが辛くなる方がいるかも知れません、そういうときは、すぐに読むのをおやめください。
1.未来からの産業廃棄物
いつものように、喩え話から始めさせてください。
ある街で、大量の産業廃棄物が見つかりました。なんとそれは、未来の日本から送られてきたというのです。未来の日本の化学工場から、たくさんの有毒な産業廃棄物が出てしまい、廃棄に困ったから過去にタイムワープさせることにしたようです。未来人、すごく頭がいいですね。
でも、現在の人たちは大混乱です。どこに保管する?未来人すら廃棄できないものを、どうやって毒性を下げる?産廃の保管のための安全基準を下げないといけないかもしれない。でも、そんなことをしたら住民の安全が守られなくなる。そもそも、いったい誰がこの廃棄物を生み出したの?いったいいつから、この廃棄物はここに埋まっていたの?いつのまに未来人は転送したの?そしてよりにもよって、どうしてこの街に?全くいい迷惑だ、未来から送られてきた産業廃棄物のせいで、現在世代は大迷惑です。
真相は、しかし違います。タイムワープなんて技術は、未来にも存在しません。その産業廃棄物は、現在世代の人たちが生み出したものです。それに、その産業廃棄物は、ずっとずっと、存在していました。みんな、存在に気付かなかっただけです。それなのに、見つかったとたんに「こんなものは未来から来たに違いない」と大騒ぎしているのです。
それは、ずっと、足元に転がっていました。いろんなひとに踏まれながら、苦痛の声を押し殺して、目立たないように林の中に隠れていただけです。その産業廃棄遺物のひとつが、わたしです。
2.ジェンダー(再)生産工場
わたしは、女性でも男性でもありません。名前をつけるとしたら、Aジェンダーです。男でも、女でもないということ。生まれてからはずっと男性の性を割り当てられて、男性として育てられてきました。だったら男性じゃん、と思われると思いますが、わたしはその性別として取り扱われるのが本当に苦痛です。だったら女性にトランジションしたら、と思われるかもしれませんが、わたしは女性ではありません。女性として生きたいとも、思っていません。
この社会は、女性と男性とに分けるジェンダー生産工場によって支配されていると、わたしはいつも思っています。生まれてきた子どもは、まるで大きな丸太のように、ベルトコンベヤーに載せられて、何となくの外性器の形から、丸太は「男」と「女」に分けられます。そのあとは、「女の子」は女の子になるように、工場では丸太を削る作業が繰り返されるのです。「~ちゃん」で呼びかけ、ピンクの服を着せて、女の子っぽくなるように、やすりがかけられていきます。「男」のレーンに流された丸太は、同じように「男の子」になるように加工されていきます。立派な「女性」と立派な「男性」に仕上がったあとでも、死ぬまでジェンダー生産工場の外に出ることはできません。工場では絶えず、「女性」と「男性」が別の生き物であるということがたたきこまれ、絶えず「女性として」「男性として」扱われることで、丸太が自分のジェンダーに疑問を持たないようにされているのです。それどころか、そうして「立派な女性/立派な男性」に加工されていった人たちは、今度は工場の中で従業員として働き始めます。新しく生まれる子どもに対して、ジェンダー区別の再生産を続けるように、いまの工場の中の男女の区別が揺るがないように、今度は従業員として働くのです。もちろん、工場のなかで男女が平等に扱われるわけではありません。その工場全体は、「男性」に有利なようにできていて、工場の管理も男性の方が権限を握りがちです。
でも、そんな完璧に見えるジェンダー生産工場でも、ときどき「失敗作」が産まれます。最初の「仕分け」の作業で、男性の人を女性のレーンに流してしまったり、女性の人を男性のレーンに流してしまったりします。繰り返し繰り返し「男性/女性」として生きるように加工し、やすりをかけ、ペイントしても、それでも「自分は女性/男性ではない」という風にうまく納得してくれない人が出てきてしまうのです。ジェンダー生産工場は、どうしても副産物を生み出してしまいます。それは、仕方ないことなのですが、ジェンダー生産工場からすればそれは完全な「失敗作」で、工場がこれからも回り続けることに何にも寄与しない、「産業廃棄物」です。
わたしは、その産業廃棄物です。生まれたときに「男性」に割り振られたはいいものの、「男になりなさい」という加工作業は、わたしのアイデンティティを形成することなく失敗に終わり、工場の絶対ルールである「男女の区別」すら見えないまま、14歳くらいまで成長してしまいました。
皆さんは、いろいろなところで記入させられる性別欄で、筆が止まったことはありますか。「女性として/男性として」学校や職場で扱われるたびに、お腹の底がじっどり苦しくなることはありますか。この服を着たら男性っぽく見えてしまう、こっちだと女性っぽくなる、どっちも嫌だと、鏡の前で身をよじらせたことはありますか。美容室で「男っぽく/女っぽく見えないようにしてください」とお願いして、重苦しい沈黙が流れたことはありますか。男女の二つに分かれているトイレの、どちらを使うのも気味が悪く、誰かを混乱させてしまうのも誰かに見られるのも嫌で、職場のトイレが空いている時間を完璧に把握していますか。どこの駅とどこの公園に多目的トイレがあるのか、いちいち把握していますか。自分の性器が醜くて醜くて仕方なくて、それでも「性別適合手術」によって「適合」していくはずの性別がぽっかり空っぽで、ただ切り落としたいと、願ったことはありますか。駅の雑踏で「ここにいるひとは全員が女性と男性のどちらかなんだ」と目の前が真っ暗になったことはありますか。
これが、わたしの経験です。わたしがAジェンダーであるということです。わたしは、ジェンダー生産工場が生み出した失敗作、産業廃棄物です。
3.「女性」の境界線
千田有紀教授の「「女」の境界線を引き直す:「ターフ」をめぐる対立を超えて」では、トランス女性が女性トイレを使うということについて、たくさん議論がなされています。「女性がこれからも安全に女性トイレを使うためには、ひいては誰でも安全にトイレを使うためには、考えなければならないことは沢山ある」ということのようです。
一見すると「いいこと」を言っているように見えますが、稚拙で、差別的で、欺瞞的で、現実を何も見ていない、と思います。まず、千田先生が「女性が安全にトイレを使う権利」とか「従来の「女性」トイレ」とかの言葉を使うとき、千田先生はいつも「シス女性」のことを指しています。これは本当に驚くべきことですが、この論文には「シス女性」という言葉はでてきません。「トランス女性」という言葉は出てきますので、千田先生が「女性」という言葉を使うとき、指されているのは「シス女性」だけです。ですので千田先生はシス女性を指すために「シス女性」という言葉を決して使いません。これがどういうことか皆さんには分かるでしょうか。トランス女性は「女性」ではない、ということです。
千田先生は、「わたしはトランス女性を差別などしていない」と言います。でも、トランス女性のことを「女性」だとは、決して認めないようです。お風呂と男性器について一通り書いた後、千田先生は「自分は差別などしていない」と言いたげに、慌てて付け加えるのです。
ただ、急いで付け加えるが、ここでは男性器をもっているから「女性」というジェンダー・アイデンティティを主張すべきではないと主張しているわけではない。(249ページ)
急いで付け加えたこの一文に、みっちりと差別的な意識が漏れ出ています。ここで千田先生が言っているのは、「ペニスを身体に持つ人が「女性」というジェンダー・アイデンティティを主張することは許してあげます」ということです。「その人の「女性」というジェンダー・アイデンティティを尊重する」とは書いていません。ですから、そうしたジェンダー・アイデンティティを有して生きる人が「女性である」とは、千田先生は考えていないのでしょう。自分が差別をしていると思われたくないという気持ちだけはよく伝わってきますが、そのための弁解として付け加えた一文が、こんなに差別的だなんて、驚きを隠せません。
この一文と、「女性」「トランス女性」についての言葉遣い――「シス女性」の不在――から推測せざるをえないことがあります。つまるところ千田先生はトランス女性が女性であるということすら認めていないようだ、ということです。
4.未来からきたトランスジェンダー
千田先生がそのように考えている理由も、論文ではシンプルに説明されていると思います。それは、トランス女性が「未来人」だからです。
この論文では、「ジェンダー論の三段階」というセオリーが提示されていて、トランスジェンダーという存在はそのうち第三段階において到来したことになっています。(※この「三段階説」が、『現代思想』特集号の他の論文には出てこないし、「第三段階」については全く何も学術的な文献などが参照されていないので、きっとこれは千田先生のオリジナルな主張なのでしょうが、わたしにはその学問的な正確さを判断できないのでそれは問わないことにします。)
大切だと思うのは、その「第三段階」は、現実社会の先を行っているということです。世界には、女性と男性の2つの性しか存在しない。性別は、本人が好んだり選んだりするものでは決していない。これが第二段階の「ジェンダー論」だとすれば、生まれたときに割り当てられた性なんてなんのその、私たちは自分のジェンダーを自由に選び取るのだ、というのが第三段階のジェンダー論であり、トランスジェンダーはそういった理論(思想?)を背景にして生まれた存在だ、というのが千田先生の主張のようです。
だとすれば、トランスジェンダーは現在の社会の先を行っています。現実の社会は、わたしがさっき書いたように「ジェンダー生産工場」によって隅々まで支配されていて、性別は自由に選び取られるなんて、そんなに簡単に「性=ジェンダー」は扱われていないからです。これは、千田先生も同意すると思います。現実の、現在の社会では、「女性/男性」どちらかを生まれてからずっと生きる以外に選択の余地などない、そのようになっていること。学校だって会社だってトイレだって公衆浴場だって、みんなそのようになっています。
にもかかわらず、トランスジェンダーという存在が現れてしまった。現実世界はまだ第二段階なのに、未来から第三段階の存在がタイムワープしてきたのです。だからこそ、トイレ利用や公衆浴場の利用について「激しい応酬」(246ページ)が起きている、それが千田先生の見立てです。現に、いまツイッターなどで起きているのは「将来を見据えた混乱」(247ページ)だと、千田先生は書いています。これからもっと、未来人であるトランジェンダーが増えるかもしれない、どんどんタイムワープしてくるかもしれない。このままでは、ただでさえ第二段階で不利益を被っているシス女性が、もっと安心できない社会が来てしまう。未来からタイムワープしてきたトランジェンダーを未来に戻し返す技術はない以上、その存在は認めざるを得ない。でも、「トランス女性を女性として認める」とか、「トランス女性が女性トイレを使えるようにする」とか、そんな風に第二段階と第三段階を無理に“つぎはぎ”するようなことをしていたら、シス女性の権利は脅かされてしまう。だったら、もう全部ひっくりかえして「みんなが安心できる社会を作ろう」。これが千田先生のロジックです。
5.時空が歪んでいる
こんな馬鹿げたロジックに、いったい誰が説得されるでしょうか。それが馬鹿げている理由を、今から2つ書きます。
1つ目は、「トランスジェンダーは未来人だ」という主張です。確かに、いまの社会の仕組みや、考え方は、シス中心的です。トランスの存在は設定上「いないこと」になっています。ジェンダー生産工場では、それは「失敗作」であり、あってはならない存在なのです。でも、トランスジェンダーは存在していました。ずっと、昔から、存在していました。トランジェンダー(そしてトランス女性)は、未来からワープしてきたのではありません。シスの女性/シスの男性しか存在しないことになっている社会のなかで、誰かに踏まれたり、殺されたりしながら、どちらかの性にパスしたり、パスできなかったりしながら、ずっと存在していたのです。それは、第三段階などという未来の理論からワープしてきたのではありません。トランスの人たちは、ジェンダー生産工場の中で存在を否定され、ときには自分の身を文字通り削りながら、どこかでずっと生きてきたはずです。
ここでは、遠藤まめたさんの本から引用することをお許しください。わたしを勇気づけてくれた本です。
大体いつでもそうだ。トランスジェンダーを知らない人ほど眉をしかめてあれこで言うが、その横でトランスたちはひっそりと暮らし、「トランスジェンダーなんて人たちが新たに出現したら(※本文では強調点)、トイレはいったいどうすればいいのだ」なんて思考実験をしている人たちの横で、トイレでしれっと用を足している。
まぎれていて、なじんでいて、問題にもなっていないのに、見つけ出して「男女の否定だ」とさわぎはじめる。女性として生きている人が、女子大学に入学する資格をゲットすることが、そんなに大げさな話なんだろうか。
私自身はトランジェンダー男性で、中学・高校をうっかり女子校で過ごすハメになってしまった人間である。そんな女子校出身者として証言できることは、日本中の女子校には同性カップルがいるし、卒業後に男性として生きている人も結構いたということだ。
すでに女子校には多様性が存在してきた。今に始まった話じゃない。
(『ひとりひとりの「性」を大切にする社会へ』49ページ)
トランスジェンダーは、ずっと存在していました。知らなかったのなら、あなたに見えていないだけです。もちろん、シス中心の社会は書き換えなければならないけれど、早すぎる来客(タイムワープしてきた存在)のようにトランスの存在を扱うのは現実を見ていない人がやることです。どうしてトランス女性は女性トイレを使いたがるのか。どうしてトランス女性なんていう未来人を、現代の「女性」が包摂してあげなければならないのか。千田先生はどうやらそんな問いを立てています。でも、それは立てるべき問いを誤っています。トランスジェンダーは、ずっと存在していました。トランス女性は女性として、トランス男性は男性として、もちろんシスの人にはない色んな悩みや葛藤を抱えつつ、昔から存在していました。第三段階などという、怪しげな未来のくるずっと前から。
6.性別を「選ぶ」こと
千田先生のロジックが馬鹿げている理由の2つ目は、すでに多くの人が書いているように、まるでトランスジェンダーたちが自分のジェンダーを自由に選び取っているかのように書かれていることです。どうやら、それが「第三段階のジェンダー論」の中核のようなのですが、千田先生が「セルフ・アイデンティティ」ということばを自由自在に使うとき、シスジェンダーになれなかった産業廃棄物のわたしは、心の底から怒りを覚えます。
RPGゲームの最初に、主人公(操作するキャラクター)の性別を選べますよね。どっちにしようかな(どれにしたって、ストーリーにはそんなに違いはないのですが)。第三段階の、と千田先生が言う現代のトランスジェンダーたちは、そんな風に「セルフ・アイデンティティ」を選択したのでしょうか。「身体もアイデンティティも、すべては「フィクション」であるとされるのであったら、その再構築は自由に行われるべきではないかという主張」(251)から、トランスジェンダーたちは生まれたのでしょうか。
先ほど書いたように、わたしはAジェンダーのラベルを今は自分に引き受けています。論文にもちょろっと出てくる、「ノンバイナリー」(日本だとXジェンダー)の一種です。千田先生には、絶対に分からないでしょうね。わたしがどうしてAジェンダーというアイデンティティを「選んだ」のか。ジェンダー生産工場の廃棄物として、何度も何度も「男」になるように刀を入れられて、やすりで魂ごと削られて、何度も自分でも「男だ」と言い聞かせて、それでも無理で、ようやくやっと自分にAジェンダーという名札を付けることができたときの気持ちなんて、絶対に分からないでしょうね。掃除や課外活動で気づいたらいつも女子のグループに混ざっていて、「オカマ」だとののしられたりする気持ちは、分からないでしょうね。男か女かわからないから「確かめる」と称して、学校でズボンを下ろされる気持ちが、分からないでしょうね。スクールカーストの底辺から何とか生き延びるために、カーストの頂点にいる男子生徒の性的欲望を受け入れなければならなかった“男子”中学生の気持ちは、分からないでしょうね。髪が長いからと高校の先生(男)に殴られ、坊主にして来いと生徒指導の教員(別の男)に脅され、中古のバリカンで頭を剃ったら「反抗的だ」とまた(別の男に)殴られる“男子”高校生の気持ちは、分からないでしょうね。体育の授業で普通に走っていただけなのに「女みたいな走り方しやがって気持ち悪い」とみんなの前で教員(女)に罵られる“男子”高校生の気持ちは、絶対に分からないでしょうね。我慢して我慢して「男性」として働いて、とうとう男用のスーツを着られなくなって退職せざるをえなかった“男性”社会人の気持ちは、分からないでしょうね。
そうしてわたしが「Aジェンダー」というラベルを「選んだ」として、「セルフ・アイデンティティ」にしていたとして、いったい何だというのですか。わたしが、「身体やアイデンティティを変更して何の不都合があるんだ」(251ページ)なんて、そんな気持ちでこのアイデンティティを「選んでいる」と思いますか。
わたしは選びました、このラベルを。そんなに気に入ってはいないけれど、英語圏のLGBTコミュニティを漁っていて、Youtubeのクィアコミュニティに潜っていって、このラベルをわたしが見つけたときの気持ちが、分かりますか。性のアイデンティティが空っぽなのは自分だけじゃない、という感動があなたに分かりますか。廃棄物はわたしだけじゃない、という涙が出るような感覚が、分かりますか。
わたしは、性自認が空っぽなので、トランス女性やトランス男性の「性自認(ジェンダー・アイデンティティ)」がどんな感覚・どんな確信なのか、理解はできません。でも、多くのトランス男性/トランス女性の言葉を少しでもまじめに読めば、それが自由自在に選び取られる「チョイス」でないことくらい、分かるはずです。少なくとも、Aジェンダーのわたしには、自分の性別が、自分の性自認が意のままにならない苦しさや、ジェンダー生産工場の副産物、失敗作として扱われる気持ちは分かります。(言葉遣いが悪くてごめんなさい。でもこの比喩を使いたい気持をどうか分かってください)
わたしはフェミニズムの勉強を本格的にしたことはありませんが、わたしがフェミニストの先生から学んで今でも記憶していることがあります。女性のリプロダクティブ・ライツをために、中絶の合法化を求める運動があり、それは「プロ・チョイス派」と呼ばれているけれど、そこには「選択=チョイス」とは簡単には言えない葛藤がある。だから「チョイス」という風に簡単に考えるリベラリズムだけではいけない、という風にフェミニズムの中で批判があったそうです(中絶の本を一緒に読みました)。何かを自由に選ぶ。その「自由な選び」なんて実は幻想(非現実的な理想)で、本当は法律や常識、他人の目などいろいろなものによってがんじがらめにされていて、その最後にそれでも自分を守るために、自分を殺さないために「選ば」なければならないこともある、ということが議論されたそうです。
わたしは、中絶の「選択」とジェンダー・アイデンティティの「選択」が同じだと言いたいのではありません。そもそも多くのトランスにとって性自認を「選択」できるなんて、あらゆる意味でおかしい話でしょう。現実の社会のなかで、法律があって、保守的な常識があって、自分の命と生活があって、自分のなかでどうしても否定できない感覚や確信があって、そこでぎりぎりやっと「選ぶ」、そんな選択もあるということを、フェミニストの人たちは議論していたのではなかったのですか、とわたしは問いたいです。ジェンダー生産工場のなかで一挙手一投足を管理され、介入されているなかでようやく手にした「アイデンティティ」を、そんなに簡単な「チョイス」だと考えるなんて、おかしいと思いませんか。
7.女性の多様性について
最後に、うまく書けないのですが、どうしても気になっていることを書きます。それは、千田先生の考えている「女性トイレ」と「公衆浴場の女性風呂」が、なんだか現実に即していない気がする、ということです。
突然こんなことを言うのは憚られるのですが、わたしには生まれたときから重度の免疫の障害があります。そのため、普通のひとが感染しない菌で感染を起こしたり、極度の疲労で動けなくなることがあります。そうしてひどい感染を起こして、緊急入院することもあり、そのせいで、わたしの身体には他の人にはない「まだら模様」と「斑点」があります。火傷とも違う、あまり見て気持ちのよくなるものではありません。なので、わたしは公衆浴場には入りません。Aジェンダーだからということももちろん強烈にありますが、やはりこの身体を見られるのが怖いです。(夏場も常に長袖を着ています)
このわたしの免疫の障害は誰にでもありうるので、同じ悩みをもっている女性がたくさんいることをわたしは知っています。「見た目」の問題です。そうした女性たちは、女性として生きていないわたしよりも、ずっとずっと見た目に苦しんでいると思います。もちろん最後は個々人の判断ですが、公衆浴場の利用をなるべく避けている方は多いと思います。
何が言いたいかと言うと、現実の公衆浴場は、千田先生が書いているよりも「安全」ではないのではないか、ということです。千田先生が論文のなかでトイレとお風呂を同列に書き続けていて、あれだけみんながトイレと公衆浴場は性質が全然違うと言い続けてきたのに、全く何もこの人は話を聞いていないんだなという絶望感はともかく、トランス女性(という未来人)の登場によって現在の公衆浴場の安全が脅かされる、という議論からは、いまの公衆浴場を(それすら?)安全に利用できていない人たちの存在がすっぽり抜け落ちているように思います。トランス女性という、未来からの異質な客人のせいで、現在のシスの社会におおきな歪み(ひずみ)が生まれたと、ずっと書いていると思いますが、現在の社会の中で本当に「女性スペース」(もちろん「男性スペース」も)は安全だったのでしょうか。
性的な視線をところかまわず向けていたり、暴力を振るったりする「男性」を締め出すことで、女性スペースが安全性を保っているという側面は、間違いなくあると思います。でも、そうした「安全な女性スペース」を最初から安全に使えないひとのことを、わたしは想像します。千田先生が論文の注の11番でアメリカ人の知人が初めて日本の(全裸の)公衆浴場に入浴したあと「意外にいいものですね」というエピソードを披露しているとき、わたしは身体に「まだら」と「斑点」のある仲間のことを思います。「トランス女性が現れた、どうやって女性スペースの安全を守る?」という問題を千田先生が立てているとき、わたしは見た目の問題で悩んでいたり、それだけでなく様々な障害をもつ人たち(現在の社会意識や施設の整備では「できない」ことが多いとされている人たち)のことを思います。そうした女性たちが、心の奥で悲しい気持ちになっていないかどうか、不安に思います。「女」の境界線を引き直す――と千田先生が息巻いているとき、とっくの昔に「線の向こう」に立たされざるをえなかった女性たちがいるのではないか、と思います。
だから問題は、トランスだけの問題ではない、とわたしは思います。トランス女性がやり玉に挙げられ、何か議論すべき「線引き」問題が存在しているように見えるとき、同時にそこで、たくさんの女性たちが最初から線の向こうに押しやられたり、線で心身を切り刻まれている気がするのです。見た目のこと、肌の色、障害のこと、いろいろな病気のことなど、上手く書けなくてもどかしいですのですが、「トランス女性」が問題化されるとき、一緒にいろいろなものが見えなくなっている気がします。だから、「女性にも多様性がある」というフレーズは、単にトランスインクルーシブなニュアンスだけではなく使われて欲しいです。トランス排除的な人たちの想定する「(シス)女性」から、いろいろな差異が抹消されて、塗り潰されて、「シス女性」のなかにあったはずの多様な生が、「トランス女性」が議論されているときに、一緒に踏みつぶされたり無視されたりしている気がするのです。わたしは、それが耐えられないのです。
最後に、うまく書けなくて申し訳ありません。今のわたしに書けるのはここまでです。どうかこの文章が、シスではない生を生きている現在と未来の仲間に届きますように。