お茶の水大学と杉田水脈:LGB(T)の2018年
こんばんは。夜のそらです。夏前から最悪だった持病の調子が上向きになり、それに休職の延長もそろそろ限界だったので、11月途中から時短勤務で職場に復帰しました。ただ、会社の配慮によって女性だけの部署に異動させていただいたはいいものの(――トランジションするうえでとてもありがたい配慮でした――)、新しい建物に移ったせいで、わたしがトランスであることを知らない人が周りにすごく増えてしまい、毎日生きた心地がしません。ずっと騙しているみたいで申し訳ないけど、部長にカミングアウトするだけでボロボロ泣いてしまって迷惑をかけたので、どうしたらいいのか分からなくて困っています。別に、黙っていてもいいのかもしれないし、名前を知られたらすぐ分かることなので気にする必要はないのかもしれませんが…。(あと、多目的トイレが建物の2階の奥にしかなく、わざわざ上のフロアから2階に降りてきて通路をつっきるので、どうしても2階の人たちに見られるのも悩みです…)
今日は、2018年のLGBTの話をします。前半は、お茶の水大学の発表をきっかけに広まった日本語圏のトランス差別について、わたしが覚えている経緯を書きます。後半は、杉田水脈の「LGBTには生産性がない」論文について書きます。もう皆さん忘れているかもしれませんが、2つはどちらも2018年のことでした。この2つは、これまであまり関係がないと考えられていたように思います。でも、わたしはこの2つには密接な関係があると思うようになりました。全体でかなり長くなると思うのですが、ご容赦ください。
1.お茶の水大学とトランスバッシング
2018年といえば、日本のトランスたちにとって悲劇の始まりでした。お茶の水女子大がトランスジェンダー女性の入学に門戸を開いたことをきっかけに、ツイッターを中心に「フェミニスト」たちからの壮絶なバッシング、トランス差別が始まりました。
お茶の水大学がそのことを発表したのは夏ごろで、当初は「トイレや更衣室はどうするんだろう」といったような漠然とした「不安」や「懸念」が多かった気がします(あるいはそういう不安や懸念を装ってトランス差別を拡散している人が多かったです)。ただ、それは大学が運用として考えればいいことだし、大学が考えていないわけがないし、場合によっては一人一人のトランスの学生さんの意向や、その学生さんの状況、また建物の設備や人間関係など、個別のことに配慮しつつ考えればいいことだし、それにそもそも、トイレや更衣室をどうするかというのは、女子大学に誰を入学させるのかとはひとまず別の話でしょう、ということで、夏ごろに爆発した「懸念」や「不安」(の形をとった差別)は、秋には沈静化していたと思います。なかには、「男性身体」に恐怖する女性はどうなるのか、といったことを強く言っていた人もいましたが、人の存在をそれだけで恐怖の対象のように公言する、それもただでさえ社会の中で周縁化されている集団に対してそうした「フォビア」を公言するのはよくないし、そもそもトランス女性が「男性身体」を持っているという発想がミスジェンダリングだし、それに大学には守衛さんや教員など男性がたくさんいるので、その「男性身体」恐怖を理由にトランス女性を排除することはできない、ということは、何となくコンセンサスになっていったように記憶しています。
しかし、2018年の確か12月ごろから、再びトランス差別は再燃しました。今度は、アメリカやイギリス、韓国ですでに使われていた色々なトランス差別のレトリックを大量に動員して、もっと醜悪なかたちで、それは帰ってきました。このとき、明らかに戦略的な「輸入」がなされたことは間違いありません。わたしは英語圏のLGBT-クィアコミュニティに基本的にいて、なかでもUSの人たちが多いコミュニティに出入りしていたので、オバマ→トランプの政権交代によってLGBT関連の状況が悪くなっているのにあわせて、トランスが標的にされつつあることは知っていました。そこでは、変な3文字熟語(TRAとか)や、トランスを偽って犯罪を犯した男性の事例とか、トランスの犯罪率がどうとか、トランスは家父長制やジェンダー規範を強化するとか、トランスはネオリベラリズムの化身だとか、そういう意味不明なターフのレトリックが使われていました。2018年冬~2019年の冒頭にかけて、そうした英語圏のレトリックが、明らかに意図的に日本に輸入されました。(わたしは、それを積極的にやっていたツイッターのアカウントをいくつも覚えていますが、彼女たちは一生許しません。)
正直に言うと、英語圏でそういうレトリックが多用されて、反トランスのムーヴメントが大きくなりつつあったとき、わたしは楽観視していました。それらはどれも馬鹿げたレトリックでしかなく、よほど心の腐った差別主義者か、思想の凝り固まった宗教保守の人たち以外は、こんなものに騙されないだろう、だから日本のフェミ系の人たちは大丈夫だろう、と思っていたのです。
しかし、それはただの楽観でした。こういう英語圏のレトリックを輸入する扇動家たちに加えて、韓国の「ラディフェミ」と結託した人たちによって、日本にも世界的なトランスバッシングの波が完全に到来しました。ちょっとずつ日本の人たちの問題関心にあわせて改変されながら、2018年の冬から2019年にかけて、到来しました。そのときには、もはやお茶の水大学のことなんて誰も覚えていませんでした。トランスジェンダーを犯罪者予備軍のように扱う差別的な言説や、トランスジェンダーのアイデンティティを意味もなく踏みにじるような言説が、ただただ「フェミニスト」たちによってぶちまけられる場所へと、ツイッターは変わりました。その他のテーマでは比較的まともなことを言っていた人たちが、どんどん上のような馬鹿げたレトリックにからめとられていく様子は、目を覆うばかりでした。
この社会には、ありとあらゆる場所に女性差別が浸透しているので、残念なことに、あらゆる場所に女性差別を見出すことができてしまいます。しかし、あらゆる場所に女性差別の要素を見つけ出していく反射神経を身に着けていった一部の「フェミニスト」たちは、トランスの権利や生存を踏みにじることにも、ためらいがありませんでした。鍛え上げられたその反射神経は、まったく女性差別とは関係のないトランスのトピックに対しても、アレルギー的に反応していました。そんな反射神経を身につけざるを得ないこと、そしてそもそも、ありとあらゆる場所に女性差別が存在していること、それはとても残念なことで、不正義であり、変わっていかなければならないことです。しかし、その反射神経によって生み出された差別的な攻撃の数々は、とうてい許されるものではなく、そうした差別について、一部の「フェミニスト」たちの責任を免罪することはわたしにはできません。
女性へトランジションする人は女性を馬鹿にしているとか、女性用スペースに侵入して(性的な)犯罪や嫌がらせをする目的でトランジションする奴が出てくるに違いないとか、トランス女性が女性トイレを使ったら犯罪目的の男性が自由に出入りできるようになるとか、ほとんど妄想に近い差別発言が、大量にばらまかれ、拡散されて行きました。この社会で現実に生きているトランスが、どういう風に生活していて、どんな困りごとを抱えていて、それでも、他の人に不審がられたり通報されたりすることを恐れながら、なんとか周りと折り合いをつけながら生きている、そういう現実に、差別的な「フェミニスト」たちは全く関心を持ちませんでした。自分の頭のなかで「ここにも女性差別がある」という風に反射的に反応し始めたら、もう現実のトランスがどうやって生きているのかなんて、彼女たちにはどうでもいいことでした。
男性中心社会に対して、勇気をもって立ち向かっていく、フェミニストとして全く間違っていないその「勇気」は、トランスジェンダーたちの現実をまったく顧みずにいつまでも同じような思考実験を繰り返すだけの永久機関を駆動する「歯止めのなさ」に変わりました。怒りの声を奪われてきた女性たちの状況をひっくり返すための「力強さ」は、社会のなかで徹底的に不可視化され、周縁化されているマイノリティの尊厳と安全を叩き潰すための「重たいハンマー」に変わりました。たくさんのトランスジェンダーたちが、さっきまで共に戦っていたはずの「フェミニスト」たちの多くに絶望し、この人もトランス差別者かもしれない、という不必要な心配をしなければならなくなりました。そのことによって、トランスの人たちはそれまでのようには女性差別のトピックに言及しづらくなりました。当たり前のように共闘していたはずの私たちの関係は、分断されました。
2.議論を妨げているのは誰か
2019年の1月には、ひとりのトランス女性がツイッター上の差別を理由に自死したことが知られました。同じころ、わたしも前のアカウントを消しました。基本的に日常ツイートとRTばっかりで、もちろんわたしが非シスジェンダー(トランス)であることは隠していたけど、でも、日本語のアカウントとしてそこそこ長く運用していたので、仲のいい相互の方も何人もいました。しかしそのころにはもう、いくつかの方はトランス差別を理由にアカウントを消していました。なかには、もしかしてFtX(or FtM)だったのかな、という人も含まれていました。わたしも、仲良しの鍵垢の方に、この人なら分かってもらえると思って信じて、トランス差別的なRTをやめてほしいとDMしましたが、すぐに「サニタリーボックスを荒らす男が日本にいるのを知らないの?」という返信がきて、絶望して、それが最後のきっかけになってアカウントを消しました。トランス(女性)がトランスとして生きていて、人間として避けられない排せつのために、すでにたくさんのトランス女性が、女性として生活することの一部として女性トイレを使っていること。あるいは、自分の見た目を気にして、使わないようにしているトランス女性がいるということ。そういうトランスの現実があることと、建物の持ち主が許可しない仕方で女性トイレに侵入して(建造物侵入罪)。サニタリーボックスを荒らす、そういう最低最悪の男性の犯罪者がいること。また、女性の排せつや生理に関わることすらもが男性たちの性的な興味関心のターゲットにされているという、書いているだけで怒りがこみ上げてくるような酷い女性差別の現実があること。この二つのことに何の関係があるのか、わたしには分かりません。後者は本当に許せないし、すぐにでも変わっていくべき差別であり不正義です。でも、そのことと、トランスジェンダーが(現状ほとんど男性用と女性用の2つしかなく、多目的トイレの場所も人目につくところにしかなく数も少ない)トイレでなんとかやりくりしながら排せつをしつつ生きていることことには、何の関係もありません。わたしは、これはただの弱いもの虐めでしかないと思っています。
現状のトイレのありかたがベストだとは、誰も思っていません。基本的に暗くて奥まった場所にあるし、女性トイレだけが行列しがちだし、障害をもつ人が使えるトイレや、高機能の多目的トイレは圧倒的に数が少ないし、盗撮などの犯罪被害に気づいた人がすぐに使えるような非常時アラートもほとんどないし、そもそも排せつ行為という当たり前のことを「けがれた」ものとするような意味不明な文化的価値観があるし、先ほども書いたように女性の排せつや生理に性的な意味を付加する男性たちの欲望が隠されることなく公にされているし、どんどんトイレの機能は高度になっていて、スイッチも増えていたり、「流す」ボタンの場所も分かりづらくなっているのに、説明書きは日本語と英語ばかりで、中国語やコリア語、ベトナム語やヒンディー語などの言語で暮らしている人に配慮されていないし、もう、トイレ周りで改善すべきことは山ほどあります。そのなかには当然、トランスジェンダーにありがちな困り事も、あります。
でも、そうした「トイレにまつわる問題」を冷静かつ前向きに議論できるような場所は、今はありません。それを破壊したのはトランス差別者たちです。トランスを差別したいという、汚らしい自分の差別的な欲望のために、現実を無視して、議論の文脈を無視して、差別をするための拠点としていつまでもトイレの話題にこだわり、まともな議論をする言論空間をぶち壊しているのは、トランス差別者たちです。
3.杉田水脈の論考
お茶の水大学がトランス女性に門戸を開くことを発表したのは、2018年7月10日のことでした。ちょうどそれと同じころ、1本の論考がLGBTに関して大きな騒ぎを呼んでいました。書いたのは自民党の杉田水脈議員、『新調45』8月号に寄稿された論考のタイトルは「「LGBT」支援の度が過ぎる」でした。この論考のあまりに差別的な内容に対し、立憲民主党の尾辻かな子議員が批判の声を上げ、7月18日付のそのツイートは1万RTを超えました。尾辻議員に対しては、現在でもセクシズム(ミソジニー)とレズボフォビアが合体したような酷い誹謗中傷が(ネット右翼や、「活動家」批判をすることでエンゲージを稼ぎたいという薄汚い心性をもった”普通のLGBT”から)投げかけられ続けており、とても心配なのですが、それでも、この尾辻議員の問いかけが多くの人の目に触れたことの意義は大きかったと思います。
このとき、わたしは怖くて杉田論考を読めませんでした。それに、立ち読みしようにも売り切れていた気がします。結局、タイムラインから内容を把握したり、ネトウヨぽい人が(擁護のつもりで)アップしている画像をちょっとだけ見たりしていましたが、全体は読んでいませんでした。(知り合いのAセクの人がめちゃめちゃ怒っていて、自民党前の抗議集会にも行くと言っていたので、わたしも行こうかなと思いましたが、永田町の駅を降りたところで警察がズラーっと並んでいて、ドラムやトラメガの音もすごく、わたしは聴覚過敏?というか、全ての音が色付きの文字になって処理されるので、脳が負担に耐えられず、すぐに折り返して帰りました)
しかし、すこし前に古本屋で見つけて、興味本位ですが雑誌を買うことができました。恐る恐るなかを読みましたが、わたしが思っていたのとは少し違う内容でした。もちろん、これが最低最悪の差別的な内容を含んでいることは間違いありません。「生産性」のところも、酷い内容です。
しかし、2020年の今から振り返るなら、この論考には現在のトランス差別を考えるうえでも無視できない様々なレトリックが含まれていました。ネット上のトランス差別が「フェミニスト」たちの手で日本に本格的に上陸した2018年のまさに同じ時に、自民党のなかで最も極右よりの、最も「フェミニスト」と遠いはずの政治家が、トランスジェンダーを差別するための類似のレトリックをこの論考で書き連ねていました。
2018年当時、この論考のトランスジェンダーについての記述が注目されることは少なかったように記憶しています。それはもちろん、「LGBT」という括りの中での、トランスのプレゼンスの低さに由来するでしょう。しかし間違いなく、ここには現在のトランス差別にも通じる、性のマイノリティに対する差別のテンプレートが満ちています。
この論考を読むことで、わたしはひとつの疑念を拭い去れなくなりました。トランス差別を扇動し、拡散し続けている日本の「フェミニスト」たちは、ほんとうに杉田水脈そっくりではないか、という疑念です。この疑念は、トランス差別を続けている「フェミニスト」たちが、極右の政治家である杉田水脈と同じようなレトリックにずっとしがみついている、という確信に支えられています。
いま調べたところ、杉田水脈はまだ自民党の国会議員を続けているようです。最近は、男女共同参画基本計画から夫婦別姓についての記述や、女性差別撤廃条約に言及する記述を削除させたりして、それを誇らしげにツイートしていました。この、女性差別をなくさせまいとする強い意志をもった反動的な極右政治家と、「フェミニスト」の主張が重なっているというのは、一見して信じられないことです。しかし、実際に例えばUKでは、そうした反フェミニスト的な極右政治勢力が「フェミニスト」を担い手とするアンチ・トランスのムーブメントを支援したりしている現実もあるようなので、単純に言っていることが似ている以上の関係が、きっと日本でもすぐ可視化されることでしょう。
もちろん、当初から日本のトランス差別扇動系アカウントに極右の人間が混じっていることは知られていました(苺○○シとか)。しかし2020年の現在から振り返るとき、2018年の7月というこの同じタイミングで出た「お茶の水大学の発表(に対する反応)」と「杉田水脈論考」の2つを比べてみるのは大事なのかもしれない、とわたしは思うようになりました。
杉田論考が出た当時、現在ではトランス差別に染まっているような「フェミニスト」アカウントの多くは、杉田論考を批判していたような気がします。そういうアカウントの多くはリベラル自認でもあるので、批判していたのでしょう。しかし、今からさかのぼってみるなら、そうしたトランス差別系の「フェミニスト」アカウントが言っていることは、2018年の杉田論考と瓜二つです。今から、詳しく説明したいと思います。
4.「生産性」のその先に
よく知られているように、杉田論考は「生産性」という言葉をめぐって激しく批判されることになりました。杉田によれば、LGBTの人たちが「生きづらさ」を抱えているとしても、それは家族の理解が得られないとか、そういった次元の個人的な問題であり、法律や条例などの制度を変えることによって解決すべき政治課題ではなく、そもそも法律を作って特別に「支援」しようとするなら、それなりの大義名分がなければならない、ということのようです。そして、有名な文章が出てきます。
例えば、子育て支援や子供ができないカップルへの不妊治療に税金を使うというのであれば、少子化対策のためにお金を使うという大義名分があります。しかし、LGBTのカップルのために税金を使うことに賛同が得られるものでしょうか。彼ら彼女らは子供を作らない、つまり「生産性」がないのです。そこに税金を投入することが果たしていいのかどうか。
(『新潮45)58ページ)
わたしは、原因はともあれ、人の生きづらさがなくなるというのはとても「生産的」なこと、意味のあることだと思いますが、ともあれ上の文章は、人間の存在を「生産性」の有無で測るような差別的な考えとして、批判されることになりました。ここには、人の命の価値を社会にとっての有用性によって値踏みするような、エイブリズムや優生思想が隠れています。そのため杉田論考は、LGBTだけでなく、たくさんの障害当事者の方たち、そしてもちろん、障害をもつLGBTの人々からも批判されることになりました。また、言うまでもなく、マイノリティとして様々な水準での差別を受けることの多い「LGBT」に対して、そんな奴らを特別扱いして優遇するのはやめるべきだ、という訳の分からない主旨でこの論考は書かれているので、この論考はとてもシンプルに性的マイノリティへの差別表現でした。
しかし、今日わたしが注目したいのは、このパッセージが出てくる段落の続きです。この論考は4ページ弱の短いものなのですが、上の「生産性」の話がちょうど半分あたりで出てきて、この段落の直後に「LGBとTを一緒にするな」という小見出しが出てきます。この論考で出てくる小見出しはこれ1つだけですし、この後の話も別に「LGBTとTを一緒にするな」というテーマで一貫しているわけではないので、この小見出しは正直言って飾り程度のものです。とはいえ、この小見出し以降の議論、つまりこの論考の後半部分は、これまであまり注目されてこなかったように思います。しかし、今から振り返ってみるなら、この後半部分を無視することはできません。今から、そこで使われているレトリックがいかに現在のトランス差別と似通っているか、説明していきます。
5.「GIDは別」
論考の後半の最初の段落で、杉田は「LGBT」とひとくくりにするのはおかしい、という(一見するとまともそうに見える)ことを言い始めます。しかし、性的指向とジェンダー・アイデンティティは別の軸の問題だから、確かに一緒にまとめると分かりづらいよね、という話がなされるわけではありません。杉田は、「Tは病気(障害)だから別だ」と考えているのです。
T(トランスジェンダー)は「性同一性障害」という障害なので、これは分けて考えるべきです。自分の脳が認識している性と、自分の身体が一致しないというのは、つらいでしょう。性転換手術にも保険が利くようにしたり、いかに医療行為として充実させていくのか、それは政治家としても考えていいことなのかもしれません。(『新潮45』59ページ)
上で杉田は、「T」を「性同一性障害」と同じだと誤解しています。「LGBT」の運動が、互いに連続しあう側面を持つ幅広い連帯として、それこそ自分たちを病理化しようとする社会に対する対抗として指向されてきた歴史を無視して、そして、そもそも「GID」という病理モデルに対するカウンターとして「トランスジェンダー(T)」という言葉が好まれていくようになった経緯などいざ知らず、杉田は「Tは別だ。病気だから。」という切り離しを試みています。
「性同一性障害(GID)の人たちはかわいそうだから別だ」。どこかで聞いたことがあるフレーズです。そうです、日本語圏の一部のターフ(トランス差別をする「フェミニスト」自認者)が好んで使うフレーズです。一部のターフがこのフレーズを使うのは、この国の一部の「GID」たちによる「トランスジェンダー嫌い」に由来する側面もありますが、いまは深入りしません。重要なのは、上のフレーズが、「助けてあげてもいいマイノリティは私たちが決める」という傲慢な発想からきている、ということです。
このような「線引きの権力」を自分たちが持っている、という傲慢さは、必然的に、誰を切り離して差別し続けるかを自分たちが決めてもいい、という発想と結びついています。しかし言う間でもなく、この発想自体がとても差別的です。どうして、あなたがそんな線引きをする権限をもっているのでしょうか??GIDは良いけどそれ以外はだめ、なんていう線引きを、どうしてあなたがやってもいいと思っているのでしょうか??
杉田による「Tは別」の主張は、「LGBはだめ」という線引きをともなっています。それに対して、日本語圏のターフによる「Tは別」の主張は、「トランスジェンダーはだめ」という線引きを伴っています。どうやら、GIDの人たちは治療を必要としている可愛そうで大人しい存在で、救ってあげてもいいけれど、トランスジェンダーは、傲慢で、ずかずかと女性スペースに侵入したり、うるさく権利主張をして「差別をやめろ」という風に糾弾する、そういった存在としてイメージされているようです。
こうした「GIDは別」のロジックは、少なくとも2018~以降の日本の多くのトランスジェンダーたちにとっては、全くリアリティを持たない、馬鹿げたものでしょう。かつて、それこそ「GID診療ガイドライン」の第一版が策定されるより前には、性別を変えたいと願う多くのトランスたち(―――ここではトランス女性やそれに近い人々に焦点をあてます―――)は、「女装」や「ニューハーフ」という自己認識のもとで、雑誌を読んだり、夜のお店で働いたりすることで、互いに知恵を持ちよったり、生活の糧を得たりしていました。しかし2000年代に入って「性同一性障害(GID)」が大規模に社会的認知を獲得し、ジェンダー・クリニックが少ないながら整備されていったことによって、そうした「女装」や「ニューハーフ」の文化は急速に衰退していきました。それは同時に、必ずしも昼の光を浴びることのなかった「トランスジェンダー」的な存在が、医師と法律という強力な後ろ盾を持ち、「性同一性障害」という”正式な”診断をもった「昼の」GIDたちによってますます不可視化されていくプロセスでもありました。「このままの性別を生きるのは無理だ」という風に考えた人たちが、夜のお店でなく、ジェンダークリニックの門を叩くようになったのです。(以上の整理は三橋順子先生の整理によります)
こうした歴史的な背景があるため、2000年代中盤以降も、「夜のトランスジェンダー」対「昼のGID」という構図は、どことなく当事者たちのあいだでも引き継がれていったのだと思います。しかし、時代は変わるものです。この杉田論考が出てきた2018年には、すでに「GID診療ガイドライン」は初版の誕生から21年、「GID特例法」も制定から15年が経過していました。現代を生きているほとんどのトランス当事者の多くにとって、「GIDとトランスは別」というのは、実感として意味の分からないものではないかとわたしは思っています。というのも、特に若い世代のトランスにとって、ガイドラインや特例法、クリニックは、「最初からあったもの」だからです。
実際、ツイッター上などでトランス差別に反対の声を挙げている「トランスジェンダー」のなかには、「性同一性障害」の診断を得ている人が数多くいます。また、ジェンダークリニックで「性同一性障害」の診断を受けることになったユースの多くが、自分のことを自然に「トランスジェンダー」として表現しています。わたしは、「GID(性同一性障害)」という病理概念には全然親しむことができませんし、あまりにも病理の発想に偏り過ぎているこの国のトランス医療の現状には問題があると思っています。しかし、それと同時に、ツイッターやYouTubeなどを通じて感じるのは、「GID」と「トランスジェンダー」が切断できる/切断すべきだという発想自体が、当事者たちにとってリアルでなくなっているということです。
ですから、わたしは「GID」という概念のことを自然に受け入れたり、また大切に思ったりするトランスの人たちが間違っているとは決して思いません。もはやそれは、「トランスジェンダー」と対抗する言葉でなくなっていますし、国際的にまもなく消滅するのですから、駆逐するに値しないと思います。「くたばれGID」と言わずとも、憎むべき「GID」はすでにかなりくたばっています。
改めて杉田論考に話を戻しておくと、「GIDは別」という杉田の論理、そして日本のターフの論理は、たんに傲慢であるだけでなく、現実に即していません。日本語圏のターフの人たちの中には、いまだに「GIDは可愛そうだから別」という謎の「切り離しロジック」を持ちだす人がいるようですが、別にGIDの診断基準には「ターフの言うことを大人しく聞く」という項目は入っていませんので、この切り離しによってターフたちが何を言いたいのかさっぱり分かりません。
大切なことは、杉田にせよ、ターフにせよ、トランスの現実を全く見ていないということです。そして、「お前たちは可愛そうだから別だ」という、ひどく傲慢で差別的な思考を持っているということです。「GIDは別」なんて言う人がいたら、危ないですから近づかないようにしましょう。
6.アイデンティティを踏みにじる
先ほど見たように、杉田は「Tは別」の論理によって「LGBはだめ」という切り離しを試みています。杉田に言わせれば、同性愛などというのは成長途上の「子ども」たちに見られる「一過性」のものです。杉田は、自分が中高一貫の女子高に通っていた経験を引き合いに出しつつ、同級生や先輩が「疑似恋愛の対象」(59ページ)であったと振り返っています。「ただ、それは一過性のもので、成長するにつれ、みんな男性と恋愛して、普通に結婚していきました。」(59ページ)
杉田がここで言っているのは、「L・G・B」などのアイデンティティラベルは、成長していけばなくなるような「一過性の」「疑似恋愛」を本人が誤解したものにすぎず、そうしたラベルが気軽に手に入ることは、むしろ本人の自己理解をゆがめて、不幸にしてしまう、ということです。
マスメディアが「多様性の時代だから、女性(男性)が女性(男性)を好きになっても当然」と報道することがいいことなのかどうか。普通に恋愛して結婚できる人まで、「これ(同性愛)でいいんだ」と、不幸な人を増やすことにつながりかねません。(『新潮45』59ページ)
ぞっとするような文章ですが、杉田に一貫しているのは、自分はレズビアンである/ゲイである/バイセクシュアルであるといった、マイノリティたちが持っている性についてのアイデンティティを全く尊重せず、それらのアイデンティティを踏みにじろうとする姿勢です。
こうしたアイデンティティを踏みにじる姿勢は、トランス差別者たちにも共通しています。それも、トランスの(ジェンダー・)アイデンティティを軽んじるためのロジックすら、そっくりです。
ターフたちは言います。「自分だって、二次性徴とともに身体について違和感をもっていた」、「自分のことをはっきり女性だとアイデンティファイしたことはない」と。その人がそうした感覚をもったということは、誰も否定できませんし、誰も否定しようとは思っていないでしょう。とくに、セクシズムが満ちたこの社会で、女性として生きているということを日々実感する(実感させられる)ことには、不愉快な感覚や、自分の身体が自分だけのものではない(ようにさせられている)という感覚が伴っていても、まったく不思議ではないと思います。
しかしターフたちは、(誰にも否定できない)そうした自分の感性を引き合いに出して、言わなくてもいいことを言うのです。「だから、トランスジェンダーなんて本当は存在しないんだ」と。
わたしは、杉田が中学校や高校で見聞きしていた、あるいは杉田自身が経験していたかもしれない「疑似恋愛」を、「疑似恋愛」として否定するのはナンセンスだと思っています。いつかその人が、「あれは疑似恋愛だった」と振り返ることはあるかもしれませんが、それを「一過性のもの」として、「真正な恋愛・性愛ではないもの」として裁くような権利は、誰にもないと思います。それと同じように、わたしはトランス差別者が自分の経験として引き合いに出すような「身体違和」もまた、尊重されるべきだとは思います。それが「本当の身体違和」ではないとか、そんなことを裁く権利は誰にもないと思います。ツイッターのような場所では、もはやこういう微妙な話題に触れることができなくなっていますが、「シス女性」とされている人がもっている自分の身体に対する違和感や嫌悪感が、「ノンバイナリー」などの自己認識をもつ人たちや、最終的にトランジションを選択することになった人たちの経験していた「違和感・嫌悪感」と全く関係のないものだとは、わたしには言い切ることはできませんし、言い切るべきでないとも思っています。それは「本当の性別違和」などという神話を再生産することにしかならず、その先にまっているのは究極の病理主義です。
けれど、そうした微妙な感覚が尊重されることと全く同じくらい、あるいはそれ以上に大切なのは、トランスジェンダーたちがもっている「ジェンダー・アイデンティティ」が絶対に尊重されなければならないということです。それを否定する権利なんて、誰も持っていないのです。
杉田は、同性や両性への恋愛・性愛を経験し、「同性愛者」や「バイセクシュアル」というアイデンティティを持っている人たちのアイデンティティを軽々しく否定します。そんなの、一過性のものだから、自分を誤解しているだけだから、と。いまのターフがやっているのは、それと全く同じことです。それは一過性のものだから。私たちだって「性別違和」を感じてきたのだから。あなたたちの「ジェンダー・アイデンティティ」なんて、ありもしない想像だから。自分を誤解しているだけだから。だから、トランジションなんてしても本人が不幸になるだけだし、トランスジェンダーなんて存在しないのだ、と。
両者に共通しているのは、自分の経験したことだけに基づいて、ひとの経験やアイデンティティを踏みにじることです。あなたは、自分の経験を「疑似恋愛」として今では整理しているかもしれない。でも、同性や両性への恋愛・性愛感情を経験する人たちは、ヘテロの人たちが経験するのと全く同じリアリティを持って、それを経験しています。それをリアルに経験できない人には、それは決してわかりません。その事実から引き出すべきことは、自分に分からないからと言って、同性愛者たちの経験やアイデンティティを否定すべきではない、ということです。
それと全く同じように、あなたが経験した「性別違和」や「身体への嫌悪」、「女性/男性をやらされる苦痛」は、誰にも否定できません。でも、そうした経験を経たあなたが、最終的にそれでも「女性」や「男性」などを(シスジェンダーとして)生きているのだとしたら、あなたにはトランスジェンダーの経験は分かりません。なぜなら、あなたはトランスジェンダーではないからです。この事実から導かれる結論は、トランスジェンダーの経験する様々な悩みの真正性や、トランスジェンダーの(ジェンダー・)アイデンティティを否定する権利など、あなたには存在しない、ということです。
あなたに理解できない経験があると知ったとき、どうしますか。その経験のリアリティを否定して、相手のアイデンティティを踏みにじりますか。自分には心の底からは分からないけど、そういう経験をリアルにしている人がいるんだ、と相手のアイデンティティを尊重しますか。どちらが正しい態度であるかは、明らかなはずです。
7.トイレという切り札
ある箇所で杉田は、学校の制服のことを話題にしています。「LGBT向けの制服」という表現を杉田は使っていて、それこそ「LGB」にとって制服の問題はそれほど重要でないので気持ち悪いのですが、とはいえこれは「LGBTトイレ」と同種のカテゴライズの問題で、杉田だけに責任があるとは言えないかもしれません。
注目したいのは、好きな制服を選べるようにするという、この「多様な性に対応するため」(59ページ)の取組みを、杉田がすぐにトイレの話に直結させていることです。
(…)女子向けのスラックスを採用している学校もあるようです。こうした試みも「自分が認識した性に合った制服を着るのはいいこと」として報道されています。では、トイレはどうなるのでしょうか。自分が認識した性に合ったトイレを使用することがいいことになるのでしょうか。
(『新潮45』59~60ページ)
ここでの杉田のロジックはとてもシンプル(かつ乱暴)なものです。もし、①:自分の性に合った制服を着ることを許してしまったら、②:自分が認識した性に合っているトイレを使うことも許さないといけなくなる。しかし③:そんなことは許されない。だから④:自分の性に合った制服を着ることなど許すべきではない、というロジックです。
しかし、なぜ制服の話から、いきなりトイレの話に飛ぶのでしょうか。①制服がいいとしたら、②トイレも認めないといけなくなるが、③:それでいいのか、と杉田は書いていますが、①と②はべつに切り離してもよいはずです。もちろん、わたしは(シストランス問わず)全ての人々が自分の性の自己認識に合ったトイレを使うことができて当たり前だと思っていますが、ここで問題にしたいのは、杉田が使っている「トイレという切り札」の存在です。杉田は、①制服と②トイレを直結させることによって、③誰でも好きなトイレに好きなだけ入れるようになってしまったのでいいのか?という不安を、④:制服の自由選択の禁止という結論を導くために使っています。ここで、「トイレ」が非常に便利なカード(切り札)として使われていることが分かると思います。
これが分かりやすい詭弁であることは、すぐに理解できます。なにせ、制服とトイレは別の話なのですから。しかし、こうした「トイレという切り札」を使ったレトリックは、トランス差別者に典型的に見られるものです。
トランス差別的な人たちは、いつもトイレとお風呂の話をしています。それも、ただでさえ全く性質の異なるトイレとお風呂をごちゃまぜにしつつ、いつも水回りの話をしています。確かに、いきなりペニスを備えた人が女性風呂に入ってくるというのは、信じられないことです。完全に男性にしか見えない人が女性トイレに入ってきたら、多くの人が強い警戒心を抱くことでしょう。しかし、それはトランスジェンダーの生活とはほとんど何の関係もない空想上の事例にすぎません。にもかかわらず、そうした思考実験から結論される「女性の不安」は、現実のトランスに対する侮蔑や、現実のトランスの権利を制約しようとする幅広いロジックの根拠に使われています。
お茶の水大学がトランス女性に門戸を開くことを発表したとき、すぐにトイレの話になりました。そこでトイレの話をした人の思考パターンは、上の杉田のロジックとそっくりだったと思います。自分がほとんど関わったこともない、想像上の生き物でしかない「トランス女性」に対する偏見や、差別的な心のせいで、そうした人たちは、①:性の認識に合わせて女子大に入学することを許せば、②:性の自己認識に合わせて女性トイレを使うことを許すことになるが、③:そんなこと(=”男性”が女子トイレに入ること)は自分は到底受け入れられないから、④:トランス女性を女子大に入学させるべきではない、と考えていたのでしょう。
しかし、女性大にだって多目的トイレや男性トイレはありますし、そもそも大学生活そのものにとって、排せつなんてどうでもいい生活上のイベントでしかありません。もちろん、自分が安心して気軽に使えるトイレがないということは、大学生活にとって大きな支障になるでしょうが、「誰に女子大の門戸を開くか」という、大学の理念そのものにもかかわる大きな問題を考えるにあたって、入学した後トイレをどうするのかというのは、ほとんど些末な問題に過ぎないでしょう。そんなことは、後から考えればいいことだし、この記事の最初の方で書いたように、それは場合によっては一人一人の意向や、それぞれの建物の設備の状況、周りの人との人間関係やカミングアウトの状況によっても左右される問題だからです。一概にこれでいくべきだ、なんていう結論は出るはずがありません。多くの人たちは知らないかもしれませんが、わたしたちトランスジェンダーは、そうした周りの環境や、周囲の人が自分をどんな風に認識しているのかということをたくさん計算しながら、自分と周りの人にトラブルが起きないように生きています。
話は女子大に限りません。トランスジェンダーのアイデンティティを踏みにじる言動を繰り返すトランス差別者たちは、①:トランスジェンダーの性の自己認識を尊重しないといけないのだとしたら、②:性の自己認識に合わせたトイレの利用を認めないといけなくなるが、③:そんなことしたら性の自己認識を言い訳にして、男性が誰でも女性トイレに入れてしまう、④:だから性の自己認識を尊重すべきではない、というロジックをずーーーーっと振りかざしています。これが、「トイレという切り札」です。
トランスのアイデンティティを尊重することは、トイレだけのことではありません。その人がどんな服装や制服で暮らすか、どんな代名詞で呼ばれたいか、どんな医療を必要としているか、どんな風にコミュニケーションに参加したいか、どんな名前を使いたいか、社員証の性別欄はどうするか、保険証の性別欄はどこに表示するか、家族にはどうやって説明するか、、、、その無数の場面で、トランスジェンダーは自分のアイデンティティを否定される恐怖に直面しています。トランスジェンダーのアイデンティティを尊重し、社会の一員として差別を被らないようにすること。それは、こうした様々なトピックにまたがる、大きな目標なのです。
しかし、その大きな目標を共有しようとしないトランス差別者たちは、「トイレという切り札」を使うことによって、そうした目標を掲げる人たちの努力をなぎ倒そうとしています。杉田の言葉を借りておきましょう。「自分の好きな性別のトイレに誰もが入れるようになったら、世の中は大混乱です。」(60ページ)。この「大混乱」に訴えることで、トランス差別者たちは、女子大や制服など、トランスに関わるありとあらゆるトピックにちゃぶ台返しをしかけています。
これが安っぽいレトリックであることは、杉田の論考を見れば明白だと思います。トランス差別者たちは、いつもトイレの話をしています。人々を不安にさせることができると信じているからです。しかし、落ち着いてよく考えてください。そして、現実のトランスたちがどんな風に日々の「排せつ」というイベントを乗り越えているのか、現実を知ってください。そのうえで、トランスのアイデンティティを尊重するということが、どのトイレを使うのかということだけには限らない、とても多様で、複雑で、大きなトピックであるということを理解してください。どのトイレを使うかというのは、そうしたトランスの生活全体にかかわる、とはいえその一部でしかない問題であるということを理解してください。それが、単に「入りたい方のトイレを好きに使う」といった雑な問題ではないことを理解してください。その大きな視野を手に入れることができれば、いつまでもトイレのなかに立てこもり、「トイレという切り札」で全てのゲームに勝利できると信じているトランス差別者たちの戦略が、とても小賢しいものであるということが見えてくるはずです。
私たちは、トイレについてもっとたくさん議論をすべきです。しかし先ほど書いたように、現状トイレについての前むきで「生産的」な議論を阻んでいるのは、トランス差別者たちです。いつまでも「トイレという切り札」を切り続けて、議論のフィールドをひっくり返して差別的な言動を繰り返す、トランス差別者たちこそが、トイレについての議論を阻んでいるのです。どうか、「トイレという切り札」に騙されないでください。トランスを巡る問題をすぐに「トイレ」に直結させる人がいるとしたら、それは杉田と同じような詐欺師のやることです。どうか、トランスジェンダーをはじめとして、様々な立場の人たちと、ゆっくり議論をさせてください。そのために、トランス差別がなくなって落ち着いた議論ができる状況ができるよう、力を貸してください。
8.歯止めが利かない
杉田論考は最後に、ひとつの考えへと読者たちを導いていこうとします。それは、LGBTの権利を「認め」たり、社会的に「支援」したりしていけば、歯止めが利かなくなって社会がめちゃくちゃになる、という考えです。杉田は言っています。
最近はLGBTに加えて「Qとか、I(略)とか、P(略)とか、もうわけが分かりません。なぜ男と女、二つの性だけではいけないのでしょう。
(『新潮45』60ページ)
世の中に、「男」と「女」がいる。男は女を好きになり、女は男を好きになり、男と女が結婚して「子ども」を産んで社会に貢献する、それでいいではないか、と杉田は言います。
さらに杉田は、次のようなことも言い始めます。
多様性を受け入れて、様々な性的指向も認めよということになると、同性婚の容認だけにとどまらず、例えば兄弟婚を認めろ、それどころかペット婚や、機械と結婚させろという声も出てくるかもしれません。(…)どんどん例外を認めてあげようとすると、歯止めが利かなくなります。
(『新潮45』60ページ)
同性婚なんてものを「認めてあげたら」、いつか「ペット婚」や「機械との結婚」まで認めろ、なんて言う声が出てくるかもしれない。多様性を認めていけば、歯止めが利かなくなってしまう。と杉田は言います。
上の杉田の文章を読んで、やはり2020年の私たちはトランス差別者のひどい言動を想起せざるを得ません。トランスジェンダーのアイデンティティを尊重しない差別者たちのなかには、生まれたときに割り振られる性別――つまり差別者たちの言う「身体の性別」――とは異なる性のアイデンティティ(性自認)を認める、なんてことを許していたら、いつか「猫を自認する猫自認」や、「車を自認する車自認」なんて、そんな馬鹿げたものまで認めないといけなくなってしまうではないか、といったことを言っている人たちがいます。もう、救いようのない人たちだと思います。
同性婚なんて認めたら、あれもこれも、こんなものまで認めないといけなくなってしまう、そんなの馬鹿げている、めちゃくちゃだ。杉田は、文字通りなにもかもごちゃまぜにして、同性婚の法制化運動を馬鹿にして、同性と恋愛する/同性に性愛を抱く人たちのセクシュアリティ、ロマンティシズム、そしてアイデンティティを踏みにじっていきます。
それと全く同じように、トランス女性やトランス男性、さらにはノンバイナリーなんてものを認めてしまったら、あれこもこれも、猫自認も車自認も、火星人自認も、何もかも認めないといけなくなってしまう、そんなの馬鹿げている、めちゃくちゃだ。他人が「自分は猫だ」と言えば、猫として扱わないと差別になるのか?!。差別者たちはそんなことを言っています。トランス差別者たちは、なにもごちゃまぜにして、トランスたちのアイデンティティを踏みにじっていきます。
この記事でずっと見てきたことですが、杉田もトランス差別者も、現実を見ていません。現実に暮らす同性愛者の人たちや、同性婚を必要としている人たち、現実を生きるトランスジェンダーの存在や、その生活の様子。現実を何も見ていません。その現実を見ないで、いつまでも思考実験の材料のようにしてマイノリティを扱うことで、「こんなことまで認めていたら、社会が崩壊する」とか、「それを認めたら男性でも女性トイレに入れるようになる」とか、そういう雑なテンプレートに全ての議論を流し込んでいきます。彼女たちに欠けているのは、現実を見ること、ただそのことだけです。その真面目な努力さえ惜しまなければ、同性婚と「機械婚」を簡単に同一視したり、トランスたちのジェンダー・アイデンティティを「猫自認」などを引き合いに出して馬鹿にしたりするような愚かなことなど、できようもないはずです。
9.トランスだけの問題ではない
これまで、2018年の杉田論考のトランス差別のレトリックが、現在の「フェミニスト」たちによる差別とどれだけ似通っているか、詳しく見てきました。2018年当時、この論考がもつそうしたトランス差別的な側面は、十分に注意されていなかったように思います。しかし、わたしが書いてきたように、杉田のレトリックは間違いなく日本語圏の「ターフ」たちが使っているものにそっくりです。
そのうえで最後に、この問題がトランスジェンダーだけの問題ではないということも、書いておきたいと思います。皆さんがよく知っているように、杉田水脈はトランス差別的であるだけでなく、ホモフォーブ(同性愛差別的)であり、また女性差別的な社会の温存を強く願っている人物です。性犯罪の被害について考えるはずの場所で「女性は嘘をつく」という信じられない発言をしていたことは、皆さん記憶に新しいでしょう。
そうした杉田によるこの論考には、印象的な一文があります。先ほど引用した箇所にもありますが、「なぜ男と女、二つの性だけではいけないのでしょう」。これが杉田の本音を究極に表現していると思います。
男と女がいる。男は女を好きになり、女は男を好きになり、女と男は結婚する。男が働いて女は子育て、もちろん性別は男の名字に統一する。国際社会では女性差別撤廃なんて言っているけれど、日本には女性差別などない。これが杉田の認識です。この杉田の認識が、「男と女の二つの性が存在する」という短い一文に込められています。
杉田は、性に関するこの社会のもっともベーシックな思想を体現していると思います。それは、杉田が与党議員として比例トップで当選していることからも明らかです。そうした「常識」を味方につけているからこそ、杉田は自分に「男」と「女」を定義する力(パワー:権力)があると信じています。トランスジェンダーの存在を否定する権利が自分にあると信じています。同性愛を「一過性のもの」と断じる権限があると信じています。女性差別なんて存在しない、と判断をする「客観的な」立場にあると信じています。それらの傲慢な信念が、「男と女の二つの性が存在する」という一文には込められています。
この一文に、魅力を感じる人もいるかもしれません。実際、「ターフ」たちは、「Sex is real」という標語が大好きですから、きっと杉田のこの一文にも賛同するはずです。しかし、その一文に表現されているのは、トランスジェンダーだけのことではありません。その一文には、同性愛を否定し、女性差別の存在すら否定する、ありとあらゆる思想が込められています。女性と男性の二つの性が存在する。そして、女性は男性とは違う。だから云々……といった、女性差別を温存させるための最もパワーのある前提が、この一文には込められています。だから、杉田のような極右の思想と、フェミニズムとは、ほんらいは絶対に通じ合うものなんてないはずなのです。
にもかかわらず、一部のフェミニストたちは、極右ー保守の思想家たちと現実に協働していて、この記事で見てきたように、極右政治家のレトリックと同じようなレトリックを使ってトランスバッシングを続けています。これがどれほど危険なことか、どれだけ多くの人が気づいているでしょうか。
もっと分かりやすく書いた方がいいかもしれません。極右政治家と同じようなロジックを使ったり、保守系の人たちとも協力していたり、そんな「フェミニスト」の状況をこのまま野放しにしておけば、同性愛者の権利や福祉がはく奪されたり、フェミニズムの成果が大きなバックラッシュにあうのは時間の問題です。なぜなら、「男と女の二つの性だけで十分です」というテーゼには、性を巡るありとあらゆる差別が詰め込まれているからです。杉田が使っているような馬鹿げたレトリックによって自分たちの差別を正当化するようなことをしていたら、同じような馬鹿げたレトリックによって女性差別が正当化されるのなんて、誰にでも分かることです。
わたしは、トランス差別をやめられなくなっている人たちを説得できるとは思っていません。もう、多くの人たちは手の付けられない状態にあると思います。わたしが呼びかけたいのは、そうしたトランス差別を横目で見ている、リベラルな人たちに対してです。もし、あなたがトランス差別的な思想にきちんと距離をとれているのなら、どうか、これがトランスジェンダーだけの問題ではないということも理解してください。「男性と女性の二つの性がある」、あるいは「Sex is real」という、一見して当たり前にも見えるかもしれないこの一文を固持することによって、誰がどんな世界を作ろうとしているのか、そして、これまで積み重ねられてきた同性愛差別や女性差別との闘いの積み重ねがどれだけ無駄に終わることになるのか、どうか理解してください。そして、現在のトランス差別者たちの使っているレトリックが、杉田のような極右政治家が愛用しているような、雑で、馬鹿げた、現実を見ない、小賢しいレトリックであることに早く気づいてください。そして、そんなレトリックを許していけば、差別をめぐる戦いが大きく後退してしまうということを、危機感をもって理解してください。
これは、トランスジェンダーだけの問題ではありません。2018年にまで遡ることでわたしが一番訴えたかったのは、このことです。
長い文章を最後まで読んでくださり、ありがとうございました。