大貧民のきみへ
こんばんは。夜のそらです。
今日は、あまり思い出したくないけれど、中学校時代のことを書きます。辛い記憶を遡って書いたので、読んでいる方も辛くなるかもしれません。辛くなったら、途中で読むのをおやめください。
1.大富豪
みなさんは「大富豪」というトランプのゲームを知っていますか?
カードを全部みんなに配って、1枚ずつ真ん中に出していって、最初に全部カードがなくなった人が勝ち、というゲームです。ただ、真ん中に出してもいいカードにはルールがあって、直前の人が出したカードより「強い」カードを出さないといけません。
このゲームの中で一番「強い」のは、数字の2のカードです。なぜだか分かりませんが、「大富豪」のゲームでは、2が一番強く、3が一番弱いのです。(ゲームのルールはもうちょっと複雑で、同じ数字だったら2枚でペアにして出していいとか、8を出したらそこで「流れる」(8切り)とか、いろいろあるのですが、あとは省略します)
この「大富豪」のゲームが怖いのは、前の試合(ゲーム)の結果が、次の試合に引き継がれることです。例えば、4人でこのゲームをやるとすると、最初のゲームで1位だった人が「大富豪」、2位の人が「富豪」、3位の人は「貧民」、4位の人は「大貧民」となって、そこから第2試合が始まります。そして第2試合が始まるとき、「大貧民」の人は自分の持っている一番強いカードを2枚、「大富豪」に献上しないといけないのです。同じく、「貧民」の人は「富豪」の人に1枚献上します。この「献上」によって、地位がどんどん固定化していきます。これが、このゲームの楽しいところでもあり、厳しいところです。
でも、どうして2が一番強いのでしょう。
2.配られ始めたカード
はっきりと覚えています。あれは、小学校5年生のときの保健の授業でした。その日は、先生がいつもとは違って少し緊張していました。その日は、「思春期」とか「第二次性徴」について勉強する日でした。4年生のときにも、生殖器の名前や、それらに起きる生理活動については学んでいたのですが、教室の雰囲気が何だかおかしいのが分かりました。同級生の男子たちが、にやにやしていました。目くばせしたり、小さい声で何か言っていたりしながら、にやにや、そわそわしているのが分かりました。
当時のわたしは、今と比べれば明るい性格だったと思います。まだ「男の子」として育てられていましたが、自分ではそんなことを意識させられる機会はあまりなく、友達も女子の方が多かったと思います。それでも、あまりにもクラスの男子の様子が変で、しかも全然その理由が分からなかったので、わたしはちょっとした違和感、疎外感を覚えました。
みんな、わたしの知らない何かを知っている。わたしだけが、その「秘密」を知らない。
みんな、わたしの知らない、なにか重要な「秘密」を知ってる。でも、わたしはその大切な「秘密」を知らない。その日のそわそわした気持ちは、未だにずっと覚えています。
3.始まっていたゲーム
わたし(夜のそら)は、今はAセクシュアルを自認しています。この自認(アイデンティティ)は、わたしの人生の経験を踏まえて、獲得したものです。
今もそうですが、わたしは他の人に性的な魅力を感じません。誰かのことをセクシーだと思ったり、誰かと性的なことをしたいとか、そういう候補として誰かを見てしまうとか、そういう気持ちになることが全くありません。ちなみに、空想上のキャラクターについても、性的な興味関心がわたしにはありません。性にまつわることに、まったく興味を持てないのです。
中学校に入学したとき、世界が急に変わりました。
そこは、女子と男子がきっぱりと分かれている世界でした。わたしは空気が読めないので、音楽や掃除でグループを作るときは、よく女子のグループにいましたが、それでも、小学校の時とは違う、何かおかしい、ということが次第に何となくわかってきました。
そこは、小学校5年生のときの、あの保険の授業の教室でした。朝から晩まで、ずっと。ずっと、中学校は、保健の従業のときの教室でした。
クラスメートの男子たちは、わたしの知らない単語で、なにか「エロい」会話をしていました。いつも、わたしの知らない言葉を使って、わたしには分からない会話をして、盛り上がったり、笑っていました。わたしは、ひとりで取り残されていました。
一緒に笑えない。それだけならよかったのですが、わたしは、次第にクラスの男子から笑われる存在になっていきました。わたしは、わたしがその「エロ」に関係する言葉を何一つ知らないので、そのことで馬鹿にされるようになりました。
「夜のそらは「クンニ」って知ってる?」と聞かれます。わたしは「「クンニ」って何?」と聞き返します。みんな、大笑いをします。ずっと、そういうことの繰り返しです。
はじめは、それが何か面白いことに関係する単語なのだと、わたしは思っていました。でも違いました。それは全部、「エロい」ことに関係する言葉で、ただ、それを知らないという理由で、わたしが笑われているだけでした。ぜんぜん、面白くありませんでした。
わたしは、大貧民でした。みんながたくさんもっているカードを、わたしは1枚も持っていませんでした。それは、「性の秘密」というカードでした。
わたしだけが、みんなの知っている「秘密」を知りませんでした。みんなは「秘密」を知っていて、その「秘密」を知っていることがすごく価値のあることなのに、わたしだけにはその「性の秘密」のカードは配られていませんでした。わたしは大貧民でした。
みんな、「性」に関する話をいつもしていました。そうして話しているので、みんなは「性の秘密」をどんどん蓄えていきました。わたしは、その話に混ぜてもらえませんし、そもそも性的なことに興味を持てません。結果的に、わたしはずっと大貧民でした。
4.killjoy――大貧民は冷や水を浴びせかける
さっきも書いたように、中学校に入ったときのわたしには、男女の境目が見えていませんでした。15歳になる前くらいから、一生懸命「男」になろうとした時期もありましたが、当時のわたしにとって、中学校は、訳の分からないルールの支配するゲームに、突然巻き込まれた場所でした。
わたしには、「性」が分かりませんでした。「性」に興味もありませんでした。
でも、他のみんなはそうではありませんでした。男子は女性に性的な興味を持ち、女子は男子に性的に興味を持つ。それが当たり前の世界が、いつの間にかできあがっていました。何をするにも、男子と女子は分かれていて、両陣営の間での、性と恋愛のゲームが始まっていたのです。
わたしはそんな世界で、いつまでも男女の境目が見えないでいました。なので、音楽の授業や課外活動でも、よく女子のグループに混じっていましたし、他の男子のクラスメートが恥ずかしがって女子と話そうとしないなか、気づかずにふつうに女子生徒とも話していました。
そんなわたしの存在は、ときにkilljoyな存在だったようです。killjoyとは、楽しい気分を台無しにするということ。冷や水を浴びせるということ。みんなが盛り上がって楽しい気持ちなのに、雰囲気をぶち壊してしまうということです。
わたしには、「付き合う」ということがよく分かりませんでした。どうやら、誰かと誰かが「付き合う」と、その2人は特別な関係に入るので、2人はなるべくいつも一緒にいないといけない。そういうルールがあるようでした。「付き合って」いない異性とは、2人きりで話してはいけない。そんなルールもあるようでした。
でも、それはわたしには見えない、「秘密のルール」でした。
いつものように、クラスの女子と話そうとすると、すごくばつが悪そうで、避けられている感じがしました。後でわかったことは、その女子が、クラスの他の男子と「付き合って」いて、だから男の側にカテゴライズされていたわたしとは2人きりで話さない方がいい、ということでした。わたし以外のみんなは、2人が「付き合っていること」を知っていましたし、「付き合って」いない異性と話してはいけないというルールがあることも、みんなは知っていました。
でも、それはわたしにとっては、「秘密」でした。わたしだけが、「性と恋愛の秘密」という、みんなが持っているカードを持っていませんでした。
そんな大貧民のわたしは、いつも「空気の読めない」存在でした。男子と女子のあいだの「性と恋愛のゲーム」、楽しくて盛り上がるそのゲームの楽しみをぶち壊す、余計な存在でした。
帰り道に、なぜか2人でどこかに行ったクラスメートがいました。わたしは「なんで家とは別の方向に行くの?」と聞いたことがありました。しかも、2人は目も合わせないでそわそわしていたので、なにか嫌なことがあったの?と話しかけたりもしていました。でもそれは、Kill joyな行為でした。少しして、何か、眼には見えない何かが、2人のあいだにあるのが分かりました。わたしには教えてもらえない「秘密」が、2人のあいだにあることが分かりました。
わたしだけが、「秘密」を知らない大貧民でした。わたしだけが、「性と恋愛の秘密」という、みんなが持っているカードを持っていませんでした。大貧民は、富豪の楽しい雰囲気を台無しにします。大貧民は、誰と誰が「付き合って」いるのか知りません。だから、いつも空気が読めずに、楽しい雰囲気に水を差すのです。
わたしは、いつまでも「大貧民」でした。誰かと誰かが「付き合って」いる。あの二人はセックスをしたらしい。そんな「秘密の話」が、とても価値のある通貨として、わたしの周りでは流通していました。わたしだけが、その「秘密」という名の貨幣をいつまでも持っていませんでした。「秘密」の噂話が共有されるのは、いつも富豪たちの会話のなかでした。誰も、大貧民に「秘密」という貨幣をめぐんでくれませんでした。大貧民は、いつまでも大貧民なのです。
5.大貧民を抜け出したい
読んでいれば、分かると思います。わたしが、いじめられていたこと。
男にも女にもなれず(ならず)、「性」にまったく興味をもたない存在。そんな存在が、東京や大阪から遠く離れた県の中学校で、許されるはずありませんでした。1年生の頃は、大貧民でも生きていくことができましたが、永遠に続く「小学校5年生の保健の授業」は、2年生になるころには、わたしがわたしのままで居ることを許さない空間になっていきました。大貧民は、お金がないだけではないのです。貧しいという理由で、富豪にいじめられるのです。
わたしは、あるとき気づきました。「秘密」という名の通貨を持たないから、わたしはいじめられているのだ、と。わたしは考えました。「秘密」を集めなければならない、と。それだけが、自分の辛い状況を抜け出すための方法に見えました。
わたしは、友人や親せきの家に行ったときにパソコンで「秘密」を調べる、ということを始めました。当時、ほかの中学生は携帯電話を持っていましたが、わたしの家は(本当の意味で)すごく貧乏だったので、わたしは携帯を持っておらず、家にもインターネットがありませんでした。(一度契約しましたがすぐ解約しました)
わたしは、友達が「秘密」の会話をしているときに使っている単語を検索しました。それは、「エロ単語」でした。わたしは、「AV女優 名前」とかでも、検索しました。周りのみんなが「秘密」の会話をしているとき、どうやら女優さんの名前のやりとりをしているので、わたしも名前だけでも覚えて会話に加わりたい、と思ったのです。
でも、大貧民を抜け出そうとするわたしの企ては、失敗しました。
検索して出てくる情報は、何も面白くありませんでした。女性の身体の部位の名前とか、性行為をするときの体位の名前とか、性行為をするときの生理現象の名前とか、そういった言葉についての知識は増えても、それは、ただただ苦痛を伴う作業でした。そして何より、言葉の知識を増やしても、わたしはその貨幣の使い方が分かりませんでした。「エロい」会話をするタイミングとか、にやにやするタイミングは、いつまでも分かりませんでした。
富豪たちの「秘密」という名の貨幣を、わたしは手にすることができませんでした。
その「秘密」は、単なる言葉の知識の問題ではなく、何か、ドキドキしたりムラムラしたり、そわそわしたり、興奮したりする感情を伴っていないと、意味がないのです。わたしにとって、「エロ知識」はただの紙くずでした。みんなにとっては価値ある紙幣(1万円札)でも、わたしにとってはただの紙切れでした。
AV女優さんの名前を調べても、動画を観たいとはとても思えませんでした。(一度だけ見たことのあるそういう動画が、すごく痛そうで辛そうだったので、それがトラウマになっていました)。「AV女優 名前」で検索して覚えた名前は、ただの文字列でした。みんなの知識には日本銀行のハンコが押してありますが、わたしの知っているその知識には、ハンコがありませんでした。それは、ただの女性の名前でした。
わたしは、大貧民を抜け出せませんでした。
6.「大富豪」を抜け出したい
「大富豪」のゲームでは、数字の2が一番強いカードで、3が一番弱いカードです。
でも、どうして2が一番強いのでしょう。皆さんは、考えたことがありますか? 4が一番強くて、5が一番弱い、そういうルールでも、別に問題はなさそうですよね。
中学生時代のわたしも、そんな気持ちでした。
「性と恋愛の秘密」が、絶大な価値を持っていて、その「秘密」という貨幣を持たないことで、わたしは大貧民になりました。そしてその貨幣は、いつまでもわたしには縁のない貨幣であり続けました。
でも、どうして、「性」がそんなに大事なのでしょう。なぜ、2が一番強いのでしょう。そもそも、いつの間に「大富豪」のゲームは始まったのでしょうか。わたしは、そんなゲームに参加した覚えはないし、2が一番強いというゲームのルールに同意したこともないのです。どうして、わたしは大貧民からのスタートなのでしょう。どうして、わたしは、知らない間に「大富豪」のゲームに参加させられて、ふつうに生きているだけで大貧民の地位にずっといることになっているのでしょう。
こんなおかしなルール、受け入れられない。
こんなどうでもいいゲーム、やめてしまいたい。
何度そういう風に願ったか、分かりません。どれだけ祈ったか、分かりません。
でもそれは、絶望的な願いでした。絶対に聞き届けられない願いでした。
わたしは「大富豪」のゲームを抜けることができませんでした。そこは、中学校だったからです。「成長」が「性徴」と結び付けられ、付き合ったり、セックスしたりということが現実的になる年齢でした。カードは配られ、ゲームは終わりませんでした。
わたしは「大富豪」を抜けることができませんでした。そこは、田舎の街だったからです。誰もが異性に恋をして、異性を性的に欲望して、いつの間にか結婚して、2人くらい子ども産んで地元で育てる。それが何よりの「幸せ」だった田舎の街で、性と恋愛のゲームから逃れることは許されませんでした。「性の秘密」という名の貨幣は、中学校の外でも、立派に価値を持っていました。
わたしは「大富豪」を抜けることができませんでした。そこは、現実世界だったからです。現実世界では、誰もが誰かを性的に欲望することになっています。最近までは同性を欲望することは許されていませんでしたが、少しずつ同性愛/同性恋愛の存在もメジャーになりつつあります。ともあれ、性愛(+恋愛)がこの世で最も価値のある通貨であるという現状は、一向に変わる気配がありません。性についての知識は、なぜか「秘密」にされがちなのに、その「秘密」を(身をもって)知っていることにはすごく価値が置かれています。それが、Aセクのわたしから見えている、現実世界という名の理不尽なゲームです。
7.Aセクシュアルはkilljoyである
今日もどこかの学校で、大貧民が、辛い思いをしている。そのなかには、Aセクシュアルのユース(若い人も)、きっと含まれている。
わたしにできることは、「大富豪」のゲームの理不尽さを指摘し続けることだけ。「性の秘密」に何よりも価値を与えている現実社会に対する、呪いの言葉を少しずつ吐き出すことだけ。
そのために、わたしはフェミニズムやクィア理論の知恵も借りたい。ラディカル・フェミニズムの中から生まれた「Asexual Manifest(Aセクシュアル・マニフェスト)」(1972)は、まだ完全には理解できていないけど、わたし思想の背骨になりつつある。異性愛中心主義を批判するクィア理論の本にも、助けられている。でも、この「大富豪」のゲームを野放しにしたり、称賛したりするようなら、そんな理論や運動とは絶対にわたしは手を組まない。
わたしは、Aセクシュアルの知名度を上げたい。たくさんいるはずのAceの仲間と、アイデンティティを共にしたい。もっとコミュニティを盛り上げたい。
でも、「大富豪」のゲームへの強制参加制度をやめない限り、わたしは社会のことを絶対に許さないし、「色んな生き方もあるよね」という寛容のお目こぼしを富豪様からもらいたいとも、思っていない。それが、わたしがAセクシュアルとして生きるということ。
存在しているだけで、興をそぐ。多様性(ダイバーシティ)のお恵みも、はねのける。いつまでもkilljoyとして生きる。どこかの大貧民のために、今のわたしができることは、これくらいだから。
*参照「Aセクシュアル・マニフェスト」