悪魔に別れを告げる:Aセクシュアルと悪魔の証明
こんばんは。夜のそらです。
今日は、Aセクシュアルにつきまとう「悪魔の証明」について書きます。
1.悪魔の証明
皆さんは「悪魔の証明」って聞いたことありますか?これは「存在しないことを証明する」ことに付きまとうジレンマを指したものです。
例えば、「ツチノコなんて存在しないよ」という人がいたとします。確かに、これだけ騒いでも見つからないのですし、きっと蛇か何かを見間違えた人がいたのでは??と思いますよね。でも、そこに悪魔が現れます……。
本当に『存在しない』って断言できる??山奥の奥の奥の地中に隠れてるだけかも知れないよ??まだ見つかってないだけで、本当はいるかも知れないじゃない??日本中の山の土をぜんぶひっくり返すまで、ツチノコが『存在しない』かどうかは、分からないはずじゃない?? (by 悪魔)
この悪魔のささやき、どう感じるでしょうか?屁理屈だとは分かっていても、ちょっと説得されそうになりますよね。ここにあるのは、「存在すること」の証明と、「存在しないこと」の証明のあいだの非対称性です。
ツチノコが存在することは、ツチノコが見つかった瞬間に証明できます。逆に、ツチノコが見つからないあいだはずっと、「ツチノコが存在する」というのは、根拠のない「うわさ話」の域を出ません。
他方で「ツチノコが存在しないこと」の証明は、とっても面倒です。なぜなら、どれだけ探しても見つからないツチノコは、「まだ見つかっていないだけ」かも知れず、そのため「存在するかもしれない」という可能性はいつまでも残り続けるからです。ですから、「ツチノコは存在しない」と断言しようとすると、いつもこう言われてしまうのです。「まだ見つかってないだけでは?」と。
これが悪魔の証明です。「存在しないこと」の証明は、「存在すること」の証明と違って、とっても面倒なのです。
2.Aセクシュアルと悪魔
さて、Aセクシュアルの人たちには、しばしばこの「悪魔の証明」が課されることがあります。そして、Aセク当時者の方でも、そうした「悪魔の証明」に真剣に悩んでいる方がいます。
Aセクシュアルは「性的指向がどこにも向かわないこと」であり、つまり「具体的な他者に向かう性行為欲求が存在しないこと」を指していますから、ここに悪魔の付け入る隙ができてしまうのですね。
悪魔は次のように言います。
性的指向が誰にも向かわないって言うけど、それはまだ経験が浅いからじゃない??いい人が見つかったら、性的魅力をその人に感じるかもしれないよ??今は自分をAセクだって思ってるかもしれないけど、死ぬまで誰も性的に好きにならない保証はないんだから、Aセクかどうか今この時点で決めつけることはできないはずでしょ??
そんなわけで、私たちのAセクとしてのアイデンティティを否定するために、この「悪魔の証明」を使う人たちがいます。そしてAce当事者の方からも、Aセクであることの証明はまるで「悪魔の証明」だ、といったことが口にされたりすることがあります。
わたしは、ここには大きな勘違いがあると考えています。
3.決めつけるのはまだ早いの?
Aセクシュアルに対して悪魔の証明が課されてしまうのには、それなりの理由があります。そのアイデンティティの言葉それ自体が、「A-sexual」という風に否定(a-)から成り立っているからです。
しかし、この「否定=存在しないこと」は、実は他の性的指向のなかにも隠れています。例えば、異性愛(heterosexuality)は、異性ジェンダーから性的魅力を感じるという性的指向のことですが、ここには「同性ジェンダーからは性的魅力を感じない」という「ない」が含まれています。同性に対して向かう性行為欲求は存在しない、というわけです。
同じことは、同性愛(homosexuality)にも言うことができます。
お分かりの通り、ここにもまた、悪魔の付け入る隙が存在しています。
※(お詫び)ここでバイセクシュアルやパンセクシュアルといった性的指向を思考実験の為に(間接的にも)引き合いに出すのは、そうしたセクシュアリティを生きている方にとっては侮辱的に響くかもしれません。またわたしの書き方が、そうしたセクシュアリティについてのステロタイプを助長してしまう恐れもあります。でも、今回の記事の内容を分かりやすくするために、次のような説明をすることを一度だけお許しください。
悪魔は、異性愛者に次のように言います。
あなたは同性から性的魅力を感じないというけれど、同性に向かう性的指向は本当に「存在しない」の??まだいい人に出会ってないだけじゃない??同性に(は)性的に惹かれないなんて死ぬまで分からないんだから、いまの段階で異性愛者だって決めつけるのは早いんじゃない?? (by 悪魔)
お分かりいただけるでしょうか。「存在しないこと」の証明を求める悪魔のささやきからは、異性愛者も逃れることができないのです。もちろん、同性愛者のひともです。
ですから、数ある性的指向のなかで、Aセクシュアルだけに悪魔の証明が課されることになるのは、本当はおかしいのです。
Aセクシュアルに「存在しないこと」の証明を求めるのなら、全ての他の性的指向にも求めるべきです。逆に、異性愛や同性愛にそうした証明が不必要なら、Aセクシュアルにだってそんな証明は必要ないはずです。
4.咲かないアサガオ
では、あらためて、どうしてAセクシュアルだけに(不当にも)悪魔の証明が求められてしまうのでしょうか。
それは、誰かを性的に好きになるという性的指向が、私たちの社会では「成長すると手に入る当たり前のもの」として強固に信じられているからです。そのことを分かりやすくするために、ここではアサガオを喩え話に使ってみたいと思います。
皆さんはアサガオを育てたことがありますか?? アサガオって、日光をきちんと当てていないと、つぼみが開かないことがありますよね。小さなふくらみはできたけれど、いつまでも花が咲くことがなく、次第にそのまま、しおれて枯れてしまうことがあるのです。
いま、アサガオがたくさん植えてある花壇を想像してみてください。無数のアサガオが順調に育っていて、どれもほっそりしたつぼみを付けているのです。でも、残念ながら、そのつぼみの全てが花開くわけではありません。日当たりの確率の問題として、花開かないアサガオもきっと存在してしまうでしょう。繰り返しますが、全てのつぼみが開くとは限らないのです。
さて、あるときから、どんどんと花壇のアサガオが咲き始めたとします。今日はこのつぼみ、次の日はそのつぼみと、どんどん花が開いていきます。そんななか、まだ咲かずに閉じたままのつぼみもいくつかあります。
ここで問題です。いったいどのつぼみが、「最後まで咲かずに枯れていくつぼみ」でしょうか。
そんなこと、分かるはずないですよね。今は固く閉じているつぼみも、明日にはふっくら開くかもしれないのですから。「最後まで咲かずに枯れるつぼみ」がどれなのかを知るためには、花壇の全てのアサガオが枯れる秋を待たなければなりません。逆に言えば、アサガオがまだ生きているあいだは、どのつぼみがいつ開くのか/どのつぼみが開かずに枯れるのかは、分からないままなのです。
5.悪魔の沈黙
Aセクシュアル(だけ)に対して「悪魔の証明」が求められるとき、だいたい上のアサガオのようなことが考えられているのだろうと、わたしは思っています。
アサガオは、種から芽が出て、葉をつけ、つぼみをつくり、花開いてのち、やがて枯れていく。そういった植物です。ここには、「アサガオならば当然そうなるはずのフロー」が存在しています。
人間も同じだ、と私たちの社会の多くの人は考えています。まったく性的でない幼児~子ども時代から、あるとき思春期を迎えて、性的な存在になり、誰かを性的に欲望するようになる。そのような「人間ならばそうなる(そのように成長する)はずのフロー」が、想定されているのです。
だからこそ、具体的な他者から性的魅力を感じることのないAセクシュアルに対して、悪魔は「まだ分からないじゃない」とささやくのです。それはまるで、咲かないつぼみが「いつか咲くかもしれない」のと同じです。
悪魔は言うのです。「死ぬまで誰も好きにならない保証なんてないじゃない」と。それはまるで、「アサガオそのものが枯れるまで、つぼみが開かないかどうかは分からない」かのようです。
異性愛や同性愛に対しては、悪魔は沈黙しています。だって、異性愛や同性愛は、花の色こそ違うけれど、どちらも花開いているからです。つぼみから花へという、正しいフローをきちんと歩んでいるからです。ですから、「まだ…だけじゃない??」という「悪魔の証明」お決まりのフレーズは、異性愛や同性愛には適用されません。異性愛も同性愛も――もちろん両性愛もパンセクシュアルも――すでに花開いているのですから。
6.悪魔はどこにいる?
でも、やっぱり悪魔はしょせん悪魔です。人間がなんたるものか、まったく分かっていませんね。だって、私たちはアサガオではないでしょう?
私たちは、「種→芽→葉→つぼみ→花」のような、シンプルなフローに閉じこもるような存在ではありません。私たちは、各人にとってもユニークで、みんなが違った感じ方をして、みんなが自分それぞれのアイデンティティを持って、別々の人生を生きています。
Aセクシュアルという性的指向も、そうした様々な人生・アイデンティティの一つです。それは、成長の遅れとは関係がないし、発達の問題でももちろんありません。
Aセクシュアルとして生きることは、何も間違った姿ではありません。間違っているとすれば、それは「人間は誰しも成長すれば他者を性的に欲望するようになるのだ」という狭くてつまらない社会の常識の方です。
もっと言っておきましょう。Aセクシュアルであることは、これはこれで、立派に花開いたアイデンティティです。私たちはAceである自分を発見したのです。かっこいいし華々しいと思いませんか?
最後に、大切なことを言います。
この記事の冒頭でも書いた通り、Ace当事者の方のなかにも、悪魔の証明に頭を悩ませている方がいるのを知っています。ツイッターでも、何度か見たことがあります。「死ぬまで証明できない/分からないんだよな」という感じです。
でも、Aセクシュアルだけに「悪魔の証明」が要求されるのは、そもそも間違っています。それに、アサガオの喩えで書いたように、そこには間違った社会の前提が隠れています。
とはいえ、わたし自身、以前はそういった不安を抱いていたことがありました。証明できないけど耐えるしかない、死ぬまで誰にもAセクであることは証明できないんだ、と思っていたこともあります。
だからこそ、そして今だからこそ、言えることがあります。
悪魔は、私たちのなかにいます。
Aセクシュアルだけを「存在しない」という仕方で否定的に考えてしまうとき、そして「いつか誰かを好きになる可能性は0ではないかも」という仕方で(間違った)アサガオ論法(=人間の成長のフローの図式)に乗ってしまいそうになるとき、私たちは自分に対して悪魔のささやきをしています。
悪魔は私たちの中にもいます。だから、悪魔に別れを告げましょう。
私はここにいる。Aセクシュアルとして、存在している。
―――もう、悪魔に耳を貸す必要はありません。私たちが自分を好きになれば、悪魔はおのずと消えていくはずです。