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1つではないAセクシュアル:私たちのインター(A)セクショナリティ

 こんばんは。夜のそらです。この記事から、新しく「インター(A)セクショナリティ」のシリーズを始めたいと思います。

1.UKAce2020カンファ:エスニシティパネル

 先月9月6日(日)、UKaceconference2020(UK:Aセクシュアルカンファレンス)がオンライン上で開催されました。わたしは、今は英語も日本語もSNSは遮断しているけれど、YoutubeのAce界隈でカンファレンスのことを知って、我慢できなくて参加してきました。参加したとは言っても、UKと日本では時差が8時間あるので、日本時間21時~26時の開催で、わたしは翌日が通院だったので、プログラムの半分くらいしか出てません。
 そのオンラインカンファのなかで、本当に歴史的に素晴らしいパネルがありました。「Ace&Ethnisity」のパネルです。こちらがアーカイブです。

このパネルは、明確に「インターセクショナリティ」を意識したものでした。現代のAceコミュニティは、もともと英語圏で高度に発達したもので、とはいえその構成員は圧倒的に白人が多いことが分かっています。そんななか、USやUKに住む「White Ace」ではないPOC(people of color)のAce(有色Ace)や、英語圏で標準的だとされるエスニシティを持たないAceが、自分たちの経験を語る、というのがこのパネルです。
 このパネルは、本当に素晴らしかったです。理由は、Asexual(Aセクシュアル)の経験はただ1つの同じ経験では決してないということが、明確に打ち出されていたからです。
 パネルの司会はYasmin Benoitさん。今や世界で最も有名なAceアクティビストの1人です。Benoitさんは、白人社会の中で「セクシュアライズ(性化)」されがちな黒人女性として、そうした偏見を打ち破るような活躍をされているモデルさんです。Benoitさんは、Asexualであることをオープンにしつつ、「セクシーな」モデルの仕事をして、社会の側の偏見を問い返しています。そしてまた、BenoitさんはAceコミュニティの白人標準的なカルチャーを批判的に捉え返すよう、私たちに視座を与えてくれてもいます。例えば、「ここにAceがいるよ」というほっこりしたイラストをtumblerに投稿するとします。でも、そうして描かれるイラストのキャラクターが、全員いつも白人だったとしたらどうでしょう。これは、少し前までは当たり前のことでした。LGBT系のSNSコミュニティでも、よくシェアされるイラストは、白人の、やせていて、おっとりした、お金に困っていなさそうなキャラクタになりがちです。それは、黒人のAceの人たちの存在を抹消することになるし、コミュニティから多くの人を追い出すことにも繋がります。

 ここで、この素晴らしいパネルの内容を全て紹介することはできません。でも、最初のトピックだけどうしても紹介したいので、紹介させてください。最初のトピックは、「あなたのエスニシティは、あなたがAセクシュアルとして他の人から認識されるあり方に影響している?」というものです。動画だと、5:30~14:53までがこのテーマです。少し長いですが、どうしても紹介したいのでお付き合いください。

 最初のパネリストRichardさんは、両親がマレーシアからUKに移住してきた中華系の2世です。UKで生まれ育ったそうです。Richardさんは言います。アジア系の男性は、UKでは「恋愛的・性的に魅力的でない」存在として認識されている。だから、自分がAセクシュアルであると告げると、周囲からは簡単に受け入れられる、と。それはある意味でラクなことだけど、でもアジア系の男性は性的でない、というエスニックに関わるステレオタイプを強化しているようで罪悪感がある。Richardさんは悩んでいます。
 隣のMarshallさんは、ペンシルベニアに住む黒人男性のAceアクティビストです。Asexual Outreachという組織で活躍しています。先ほどのRichardさんとは違って、黒人の人は、性的に活発・旺盛な存在として偏見をもって見られがちです。だから、自分のセクシュアリティを開示することは大きなショックを周囲に与える、とMarshallさんは言います。そしてブラックアメリカンの文化では、20代のうちに誰かと結婚することが当たり前だと考えられているから、なお一層そのステレオタイプがショックを増幅する、とも。
 3人目のMichelleさんはアジア系/中華系アメリカンの女性です。生涯USで生きてきましたが、先ほどのアジア系男性のRichardさんとは逆に、アジア系の女性は非常に「フェティッシュ化」され、また「エキゾチックに性的」だという風にステレオタイプ化されがちだ、とMichelleさんは言います。そのことで、自分のセクシュアリティを示すと、「あなたはそうした偏見に抗おうとしているのね」という風に誤解されたり、またそのことでアイデンティティを矮小化されたりしてしまうそうです。それはもちろん、嬉しいことではありません。
 4人目のLeahさんは、黒人女性として、自分のセクシュアリティを周りの人に信じてもらえないことが多い、と言います。それは、肌の色のせいかもしれないし、Leahさんがふくよかな体型のせいかもしれません。いずれにせよ、最初からある人種やエスニシティに関わるナラティブに押し込まれるのは非常にフラストレーションの溜まることだとLeahさんは言います。
 最後のPragatiさんは、インド在住のAceです。Indian Aceという、世界的に最も活発に活動しているAceコミュニティの1つの中心メンバーです。Pragatiさんは、東南アジアの文化的コンテクストはUSやUKとは異なっている、と言います。Pragatiさんによれば、インド(東南アジア)ではセクシュアリティが強固に「結婚」と結びついているので、結婚するまでは誰に対しても性的に魅力的でないことが推奨されるそうです。ただし、25歳ごろになると、インドでは結婚へのプレッシャーが強くなり、その瞬間、急に人々は性的に活動的になるとされるそうです。そのため、25歳以前にはAセクシュアルであることが受け入れられやすいけれど、それ以上の年齢になると全く異なる経験が待っている、とPragatiさんは言います。

 パネリストの5人は、全員Aセクシュアル当事者です。現代の緩やかな定義だと「他者から性的な魅力を経験しない」というセクシュアリティを生きています。でも、5人がAセクシュアル当事者として生きている経験は、それぞれに全く異なっています。少し人種(Race)の話も混じっていますが、このパネルはエスニシティのパネルで、このパネルは、エスニシティが違うことによってAce当事者の経験はこんなにも違うんだ、ということを分かりやすく明らかにしました。みんな、Aセクシュアルです。それは、同じです。でも、皆がAセクシュアルとして同じ経験をするわけではないのです。

2.インターセクショナリティ

 インターセクショナリティ、という言葉があります。日本語では「交差性」と訳されたりもしますが、あまり良い訳語だとは思いません。このインターセクショナリティ(intersectionality)という言葉は、 言葉としてはKimberlé Williams Crenshawさんが1989年に発明したものだそうですが、もともとは黒人女性(や非白人)が置かれている差別的な状況を理解するために鍛え上げられていった概念のようです。
 皆さんは、世の中に女性差別があることを知っていると思います。そして、世界の人口のおよそ半分は、女性であることも知っていると思います。この2つの事実から、私たちは次のように考えてしまいます。「世界の50%の人が経験する、女性差別という差別がある」と。しかし、論理的には正しそうに見えても、これは本当は間違っています。全ての女性に共通の女性差別なんて、この世には存在しないからです。
 例えば、USで黒人女性が置かれている状況をどのように理解したらよいでしょうか。ある人は、USの黒人女性は「女性差別」をうけているし、それに加えて「黒人差別」を受けていて、ダブルに差別されているのだ、と考えるかもしれません。その考え方では、黒人だろうが白人だろうが関係のない「女性差別そのもの」と、女性だろうが男性だろうが関係ない「黒人差別そのもの」があって、黒人女性はその2つが重なった場所にいる、ということになります。
 でも、「女性差別そのもの」なんて、あるはずありません。だって、女性たちの置かれている状況は、それぞれ全く異なっているからです。例えば、白人女性が「白人女性として」受ける差別は、黒人女性が「黒人女性として」受ける差別とは、全く異なっています。健常者の女性が「健常者女性として」受ける差別は、障害者女性が「障害女性として」受ける差別と、異なっています。異性愛女性が「異性愛女性として」受ける差別は、同性愛の女性が「レズビアンとして」受ける差別とは、異なっています。
 もちろん、女性が女性であるというだけで差別を受けたり不利益を被ったりする、ということはあります。それは確かにそうだと思います。でも、その不利益や差別、抑圧が実際にどのように人々の身に降りかかってくるのかは、その人のジェンダーだけでなく、人種・エスニシティ・障害/健常・学歴・経済状況・セクシュアリティ・シス/トランス……etc. によって、全く異なるものとなります。
 例えば、女性たちは男性社会によって意に反して「性的な存在」として扱わる、ということがあります。でも、そこで性的に扱われる仕方は、白人女性と黒人女性とでは全然違う経験となるでしょうし、シス女性とトランス女性とでも、異なるものとなります。トランス女性はしばしば、(とりあえず中立的な言葉としてつかいますが)「トラニーチェイサー」と呼ばれる人々によって、意に反したセクシュアライゼーション(性化)を被ります。
 また、性化に関して言えば、健常者女性と障害女性とでは、大きな経験の差異があるでしょう。障害女性はむしろ、歴史的に「脱性化desexualization」されており、性的でない存在として、意に反して扱われてきた歴史があるからです。もちろん、その障害が身体障害なのか知的障害なのかによっても、社会からの「(脱)性化」の作用は異なります。知的障害をもつ女性は、過剰に性に興味を持つ存在としてステレオタイプ的に見られることがあります。
 性交渉に関わる女性たちの状況も、異性愛女性と同性愛女性、またバイの女性とで異なっているでしょう。性暴力の問題はフェミニズムにおいてとても重要な問題ですが、性暴力について語るとき、男性と性交渉を持つ女性のことだけが念頭に置かれているのだとすれば、その語りはレズビアンやバイセクシュアル女性の状況を無視したものになってしまうでしょう。
 ここでは女性差別を例に挙げて話しましたが、インターセクショナリティという概念が生まれた背景には、差別や抑圧を受けている人たちの置かれている様々な属性が、そこでの差別や抑圧の実際の出現の仕方をとても複雑化している、ということへの気づきがあります。ですので、インターセクショナリティという視点を重んじる立場からは、「ただ1つの女性差別」や「ただ1つの黒人差別」など存在しない、ということになります。女性差別が存在しないわけではありません。それは存在します。でも、その女性差別が実際に存在する仕方は、その女性の人種やセクシュアリティ、シス/ジェンダー、健常/障害・病気、言語の得意/不得意、学歴の高低……によってそれぞれ異なっていますから、そうした複雑さを無視していては女性差別を本当になくすことはできない、という結論がインターセクショナリティの視点からは導かれるのです。
 先ほど「交差性」という訳語はよくない、と書きましたが、その理由はお判りいただけたと思います。「交差性」という語は、まるで異なる別々の道路が、ある点で交差しているようなイメージです。確かに英語のintersectionality にはもともとそういう意味がありますが、でも、インターセクショナリティという視点が私たちに教えてくれるのはそれとは真逆のことだと思います。「女性差別の道路」や「黒人差別の道路」、「障害者差別の道路」は、別々の道路として独立に走っているわけではないのです。異なる差別が、ときどきある点で交わりあうのではなく(Ex:黒人+女性)、ある差別はいつも他の差別と溶け合い、混じりあい、そこに独特の複雑で困難な状況をもたらすのです。それがインターセクショナリティの視点が教えてくれることです。
 ちなみに、この言葉を発明したCrenshawさんが、intersectionalityについて説明しているTED動画があります(日本語字幕もあり)。見たことのある方もいるのではないでしょうか。しかしCrenshawさんは、そこで「女性差別」と「黒人差別」という2つの別々の道路が、黒人女性という交差点で重なり合う、というイメージでintersectionality を説明してしまっています。わたしは、TEDトークとはいえ、この説明は非常によくないと感じました。

それで、日本語で読めるintersectionalityの説明を探したのですが、以下の清水先生のコラムが抜群に分かりやすかったです。

もう皆さんお判りだと思いますが、「女体もち」という言葉によって女性の普遍的な経験を語ろうとしたり、ペニスのある・なしが女性差別の原因であるかのようにしきりに語ろうとしたりするトランス差別者の思考は、「すべての女性に共通のただ1つの女性差別」が存在する、という非現実的な空想からもたらされたものです。一人一人の置かれている状況は、その人のもつ複数の属性によって複雑化しており、決して単純な切り口だけで理解することはできません。これを否定するのは、現実を見ない人のやることです。

3.最大公約数という虚構

 これまで、インターセクショナリティについて説明してきました。でも、そうはいってもやっぱり女性は女性。黒人女性も女性だし、障害女性も女性だし、不安定な就労を強いられている女性も、エリートキャリアの女性と同じ女性としての経験をするでしょう。そう考えるかもしれません。そこにはやっぱり、「女性の経験」という最大公約数があるのではないか、と考えるかもしれません。
 もし、そうした「最大公約数」的なものを前面に出して「連帯」を考えられるはずだ、と考えるのだとしたら、それは結局マジョリティの思考に過ぎないとわたしは思います。わたしが好んで勉強しているUSのかつてのラディカルフェミニズム運動がまさにそうだったわけですが、そうして「同じ経験=最大公約数」に訴えることで話が済んでしまうのは、その運動が「女性」であるという点以外では特権的な立場にある女性たちの運動でしかなかったからです。白人の、中産階級の、異性愛の、健常者の女性たちが主導する運動だったから、「女性という経験」を簡単に普遍化したり「階級としての女性」といった語り口がナイーブに可能になったのだと思います。
 もちろんこれは、女性差別と闘ううえでのことに限られません。どの国でも、障害者運動が男性中心的だったり、異性愛中心的だったり、ということは起きがちなことです。反レイシズムの運動でも、男性的なリーダーが持ち上げられ、女性たちの声が聞かれない、といったことはあります。LGBT運動だって、シスゲイのニーズや主張が目立ちがち、ということがよく言われていますよね。
 ある差別と闘うために「最大公約数」で連帯しよう、という風に思えるのは、インターセクショナリティの観点から見て比較的シンプルで恵まれた状況にある人の発想です。その最大公約数のことを考えていればよく、それ以外の差別との絡まりあいを見ないで済んでいるという事実が、その人がその他の面ではマジョリティ側に属しているということの証拠です。ですから、軽々しく「共通の経験」や「最大公約数」的な経験、ニーズなんて口にしないようにしましょう。インターセクショナリティの視点が教えてくれたのは、そんな「最大公約数」が虚構に過ぎないこと、そして現実の複雑さを直視しない限り、差別をなくすための戦いは(マイノリティの中で相対的に)恵まれた立場にある人にとっての利益しかもたらさない、ということです。

4.インター(A)セクショナリティ

 この記事では、最初にUKacecon2020のエスニシティパネルの紹介をしました。同じAセクシュアルであったとしても、それぞれの人が経験する「Aセクとしての経験」は、エスニシティによって大きく異なるのです。全てのエスニシティの人に共通の「Aセクの経験の最大公約数」なんて、存在しないのです。
 言うまでもないことですが、そうしたことは、エスニシティ以外の観点からもいくらでも言うことができます。例えば、Aceコミュニティの7~8割ほどは女性が占めているとされていますが、女性Aceと男性Aceが同じ経験をするかと言えば、そんなことはありません。Aセクシュアルであることと、女性であること、その2つが掛け合わされ混じりあうところには、独特の抑圧や不利益があるでしょうし、ジェンダーの点からは特権をもつ男性を生きているとしても、「男性でありAセクシュアルである」人の経験に独特の苦しさがあることは間違いありません。他者に性的な関心をもたない男性は「男性として劣っている」という規範は、強く存在しているからです。
 また、Aceコミュニティの構成員は、トランス/非シスジェンダーの割合が極めて高い(ある調査では3割を超える)ことが知られていますが、シスAceとトランスAceの経験は、きっと異なるものでしょう。Aceコミュニティにいるトランス/非シスのうち、Non-binary(とくにAgender)の割合が極めて高いことは常識ですが、自分がAセクであるというセクシュアリティの問題と、ジェンダーの問題とが絡み合っていると感じている当事者は少なくないと思います。
 同じように、障害や健常の問題も無視できません。先ほど書いたように、障害(とくに身体障害)をもつ人は、社会から「脱性化」されてきた歴史があるため、そうしたステレオタイプを助長したりすると見なされたり、そうしたステレオタイプを内面化したのではないかと自分で悩まなければならないという点で、障害をもつAceの人のアイデンティティ受容は、そうではない人の経験とは異なるものとなるに違いありません。
 Aceコミュニティにいると、恋愛的指向(romantic orientation)もAceの経験を左右する大きな要素だということが分かると思います。恋愛関係は望むけど性的な文脈を望まないロマンティックAce(≒ノンセクシュアル)は、AロマAceとは違った困難や悩みを抱えることになるでしょう。もちろんそれは、AロマAceの状況や困難と簡単に比べられるものではありません。

そうです。ただ1つのAセクシュアルなんて、存在しないのです。

 私たちはAセクシュアルです。同じ性的指向を持っています。でも、ここに「最大公約数」的な経験はありません。みんなに共通のAセクシュアリティなんて、存在しません。セクシュアリティは、他の属性や社会状況によって、つねに複雑にされてしまっています。セクシュアリティを単独で取り出して「Aセクの経験そのもの」があるなんて、そんなのは嘘です。あるいは、もしそうして最大公約数的な発想で満足できるのだとしたら、それはあなたがセクシュアリティ以外の点ではとても恵まれた立場にあるからです。
 難しく、辛く、苦しく、大変なことですが、このことを無視してはならないとわたしは強く感じます。インターセクショナリティの視点が教えてくれるのは、強制性愛的な社会と闘う私たちAceの歩みが、決して単純明快なものではありえない、ということです。「私たちAceの経験」として、誰かの経験を無邪気に一般化することはできない、ということです。Aセクシュアリティの名のもとに集い、本当の意味で社会の悪さと向き合い、Aセクシュアリティの人々が生きやすい社会を作ろうと願うなら、同時にありとあらゆるその他の差別についても考えていなければならない、ということです。

 この記事のヘッダーに、モザイク画を貼りました。これが、わたしのイメージする「インターセクショナリティ」です。Aセクシュアルが生きやすい世界を目指すという、その中心点に向かうために、私たちはぐるぐる大きな円を描いて、渦巻きを描きながら真ん中に向かっていくしかありません。そのなかで、障害やジェンダー、人種やエスニシティ、学歴や経済状況のことなど、色々な段差をまたいで、色々な線をかきわけて、様々な無数のAceの経験を取りこぼさないようにしなければなりません。そうやって、モザイク画のように複雑になっている現実を、その複雑さのままに受け入れて、それぞれの「Aceとしての経験」に混じりあっている色々な差別をともになくす努力をしなければ、私たちは真ん中には到達できません。
 これが、わたしの考えるインター(A)セクショナリティの視点です。これから、このシリーズとしていくつかの記事を書いていければと思います。不勉強なことを書くかもしれませんが、皆さんと一緒にインター(A)セクショナリティの視点を磨き上げていくことができれば幸いです。