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A is for Anti-Futurism:不可視のクィアの脱臼した時間

 こんばんは。夜のそらです。今日は、最近読んだ論文の感想というか、批判というか、不満を書きます。
 読んだのは『現代思想』2019年11月号「反出生主義を考える」という特集に含まれた古怒田望人さんの論文「トランスジェンダーの未来=ユートピア」です。反出生主義について勉強したいな、と思ってかなり前に図書館で予約して、ようやく読めました。この特集に古怒田さんのトランスジェンダー論文が入っているのは予期せぬ発見で、楽しみにして読みました。しかし、AセクーAジェンダーのわたしからすると違和感がある個所が多く、読んだ後にもやもやが喉元で爆発しそうになりました。

やっぱりわたし(たち)には言葉がない。わたし(たち)のことを言い表す言葉がない。「クィア」な言葉からも結局わたし(たち)は排除される。「クィア」なんてくそくらえだ。

だから、わたしは自分で言葉を創ります。わたしは学問的な論文は分かりません。クィア理論も知りません。それに、そこにわたしを生かす言葉なんてないと諦めています。だから、どんなに稚拙でもわたしは0から創ります。かつての自分のために、そしていつかのどこかの仲間のために、言葉を書きます。
 この記事では古怒田さんの論文を批判します。でも、わたしは学問的なことはわからないし、古怒田さんが依拠しているエーデルマンやムニョスも読んだことがないので、この記事はまともな批判にはならないでしょう。でも、わたしは書きます。もう、うんざりしているからです。(ただし、この記事に個人攻撃の意図は全くありません。以前の千田教授のターフ論文もそうですが、わたしは書いた人個人のことなんてどうでもいいし、個人のことは考えるとしんどいので考えたくありません。)

1.特例法と「子どもなるもの」

 古怒田さんの論文は、「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」(以下「特例法」)に含まれた「子なし要件」の批判から始まります。これは、性同一性障害(GID)の人が性別を変えるための5つの条件を定めた特例法の条件の1つで、法律制定時(2003年)には「現に子がいないこと」でしたが、その5年後(2008年)に「現に未成年の子がいないこと」に改正されました。特例法は2008年以降、変わってません。
 この「子なし要件」が特例法に加わった経緯や、法学の議論の詳細は知りません。ただ、わたしがこれまで勉強してきた限りでは、親が性別を変更するのは子どもの精神に悪いとか、子どもがそのことでいじめられるかもしれないとか、あるいは「父と母」という両親がいてこそ子どもは幸せになるのに、どちらかが性別を変えて「母&母」や「父&父」になってしまうと子どもが不幸になるし、家族制度も崩壊するーーーとか、そういった理由でこの条件は入っているようです。(言うまでもなく最後のは同性婚が禁止されていることとイコールです)
 いま、「子ども」という言葉を強調しておきました。でも、この「子ども」って、いったい何なのでしょう?
 具体的に考えてみてください。自分の両親の片方がトランスジェンダーで、社会的には性別を移行して生活しているとして、ようするに、例えば「父親」が2人いるのが当たり前の家庭で育っている子どもがいたとして、その子どもが幸せになるかどうか/その子どもの福祉がよい状態にあるかどうかは、結局どうやって養育されるか/どんな環境を与えられるかの問題に過ぎません。父親が2人いること自体は、その子どもにとっては所与の現実にすぎず、それ自体では別にその子どもを幸福にも不幸にもしないでしょう。もしかしたら、その子どもは親の愛を受け、満たされた状態で育っていくかもしれない。もちろん、そうではないかもしれない。
 先ほどの段落の「子なし」要件的なロジックには、この具体的な子どもの姿が欠けています。そこにあるのは、「子ども」が可愛そうだという漠然とした懸念です。そこには、親がトランスしている状態でどんな風に子どもが生きているか/生きることになるか、という具体的な現実が欠けています。あの子どもや、この子どもではなく、〈子ども〉という、抽象的な、宙に浮いてただよう記号だけが引き合いに出されて、「子どもを守れ」という号令がかけられているのです。
 古怒田さんの論文によれば、こうして漠然と引き合いに出される「子ども」のことを、エーデルマンは〈子どもなるもの〉のイメージとして批判しているようです。私たちが現実に暮らしている世界の、その社会秩序を変えようとする人たちを黙らせるために、〈子ども〉が可愛そうだ、〈子ども〉を守らないといけない、という風に人々は考えているのです。
 例えば、同性愛者の権利の回復を目指す運動に対しては、かつて「子どもが同性愛者になってしまう(もちろんそれは不幸なことだ)」とか、「同性カップルに育てられた子どもは人格がきちんと発達しないで混乱する」とか、「異常な性癖をもった人たちが社会的に承認されたら子どもが性被害に遭う」とか、そういった信じられないような誹謗中傷が投げかけられていたようです。もちろん、現在もこうした差別はあります。最近では足立区の議員が「LやBばかりになると足立区が滅びる」という差別発言をして話題になりましたが、ここにも〈子ども〉が隠れていると思います。〈子ども〉たちのために残していくべき足立区が、滅びてしまう。連綿と続いてきた「私たち」の秩序・子孫代々の系統が、滅びてしまう。〈子ども〉たちに残すべき素晴らしい社会が、同性愛者たちのせいで破壊されてしまう、あの白石議員は、きっと〈子ども〉思いな人なのでしょう。
 こういう抽象的な〈子どもなるもの〉に訴えてしまう思考の癖は、何も保守的な人に限ったことではない、とエーデルマンは考えているようです。確かに、リベラルな人であったとしても、こんな女性差別のひどい社会を〈子ども〉たちに残したくないとか、将来のこの国の〈子ども〉たちのために、より豊かな国土を残しておくべきだとか、そういう発想はありふれています。ちなみに、いま「国」とか「国土」の言葉を使いましたが、これはわざとです。抽象的な〈子ども〉は、同じ国家の後継者としてイメージされがちで、とても気持ちが悪いです。(ナショナリズムと異性愛家族規範は相性抜群だと思います。)
 そういうわけで、保守派とリベラル派、右派と左派が、なにかのトピックをめぐって対立しているとしても、結局それって〈子どもなるもの〉をめぐって覇権争いをしているだけで、〈子どもなるもの〉をこしらえている点では同じ「再生産的/生殖未来主義(reproductive futurism)」を前提としてしまっている、というのがエーデルマンの批判のようです。
 この言葉から類推するに、エーデルマンは、この社会のなかの誰かが、この同じ社会を受け継ぐべき〈子ども〉を生み続けるはずだから私たちの社会を受け継いでくれるその〈子ども〉たちのためにより良い社会を残そうという発想そのものが、どこかで誰かが生殖(reproduction)をしていることを無条件に前提としいる点で生殖を無条件に肯定するロジックを背負ってしまっており、それに加えて、それは現在の社会のラディカルな変革ではなく同一の社会の再生産(reproduction)を志向している点で不十分なのだ、という批判をしているのだと思います。(Edelmanの本の海賊版もネットで読みましたが、通して読むのはちょっとわたしには無理そうだったので、これはEdelmanの理論についての想像でしかありません)
 確かに、社会の中の異性愛主義は、生殖して子どもを生み出すということが「社会的に価値あること」だとされていることと明らかに結びついているように思います。わたしも、かつて恋愛伴侶規範(amatonormativity)を紹介する記事を書きましたが、そのとき「批判も大事だけど、恋愛伴侶規範は人類が子孫を残す(社会が存続する?)ための知恵だと思う」みたいな感想を書いている人がいて、「これだからヘテロは(くたばれ)」と思ったことがあります。
 それに対して、いわゆる「クィア」な人たちの性愛・性行為は、生殖(reproduction)と直結していません。もちろん現代ではヘテロカップルも当たり前のように避妊をするので、ヘテロの性愛・性行為も別に生殖と直結しているわけではないのですが、どうやらエーデルマンという人は、「クィア」な人たちの性愛・性行為はいかなる意味でも生殖という結果に結びついておらず、だからヘテロ中心的社会が〈子どもなるもの〉に仮託して争っている「未来(Future)」、つまり「未来主義」をクィアは全否定するのだ、と考えているようです(※多分に想像を含みます)。
 ここで再び特例法に戻るなら、特例法はまさにこうした未来主義的な〈子どもなるもの〉への訴えによって、トランス/GIDたちのあるべき状態を規定し、性別変更に高すぎるハードルを課しているのでした。子どもがいる人は性別を変えてはならない(子なし要件)。かつての生殖機能を滅してからでないと性別は変更できない(手術要件)。これらは、まさにエーデルマンが批判しているような「再生産的/生殖未来主義」の現れであり、だから古怒田さんは、エーデルマンと共に特例法を批判するのです。以下は論文からの引用です。

「特例法」の第三項に関して政府が「子の福祉」を引き合いに出していたように、〈子どもなるもの〉とは、戸籍の性別変更を望む者が従属すべき現行の社会の生殖規範が依拠する未来の象徴的な「テロス」なのだ。シスヘテロ中心主義に基づいた日本社会において、特例法は政治が依拠する観念的な「未来=〈子どもなるもの〉」という観念を前提としているのである。(『現代思想』201ページ)
このように「特例法」は、「父=男性、母=女性」という既存の家族構造だけではなく、既存の社会の生殖規範の基盤としての「未来=〈子どもなるもの〉」を強めている。そして同時に、その基盤を瓦解させるような生殖のありようを排除しているのである。(『現代思想』201ページ) 

2.空振りする否定

 古怒田さんは、特例法批判の文脈ではエーデルマンの反未来主義に歩調を合わせています。しかし論文の途中から、古怒田さんはエーデルマンに距離を取り始めます。

トランスジェンダーのようなクィアに「未来」は存在しないのだろうか。エーデルマンの議論は(…)政治がトランスジェンダーのような一定の性的存在を排斥していることを指摘した点で意義を持つ。しかし、トランスジェンダーのようなクィアな存在の「未来」の可能性を、特例法と同じく、完全に奪ってしまっているのではないか。(『現代思想』203ページ)

エーデルマンによれば、クィアは未来を否定します。〈子どもなるもの〉に託された社会秩序を通してしか未来をイメージできないようになっている人々の「未来主義(futurism)」を拒絶する、と言います。それに対して古怒田さんは「トランスジェンダーに未来はないのか?」という(まっとうな)問いを立てています。そして、エーデルマンのような否定主義の議論が、むしろトランスジェンダーの「未来」を完全に奪う立論になっているのではないか?という厳しい批判をエーデルマンに向け始めます。
 上の引用の直後に古怒田さんが紹介するのは、トマス・ビーティさんというトランス男性の話です。ビーティさんは性別変更後、ある女性と異性婚していましたが、パートナーの女性が妊娠‐出産できない身体であることを理由に、自分の男性ホルモン投与を一時停止し、じぶん自身が妊娠することを決断しました。2008年のことです。トランス男性の出産はいまでは海外では普通になっている印象がありますが、このビーティさんの決定には、当時トランスジェンダーのコミュニティの中からも非難があったようです。
 古怒田さんは言います。

特例法の第三項や第四項の強制断種や強制不妊がまかり通っているのは、このように一部のトランスジェンダーにすら根づいている「女性が出産をする生殖主体である」というジェンダー規範に基づいたものなのだ。クィアの否定性を唱えるだけでは、現実のクィアな存在が置かれている状況に必ずしも応答することができず、「未来=〈子どもなるもの〉の同一性=再生産という規範を破壊するどころか、空振りに終わってしまうのではないだろうか。(『現代思想』203ページ)

エーデルマンは、クィアは〈子どもなるもの〉に託された現在の社会の同一性の再生産(reproduction)を否定すると言うけれど(日本では生殖機能の停止が性別変更の条件とされてしまっている)そのクィアたちこそが、「男性が出産するなんて信じられない」という仕方で、既存の「女性が出産をする生殖主体である」というジェンダー規範を受け入れてしまっている、と古怒田さんは言います。
 つまり、「クィアには未来なんてない!」というエーデルマンの未来主義の否定は、「クィアに未来なんてない!」という特例法的な未来否定=生殖能力はく奪の正当化と重なってしまう、というのです。それが、エーデルマンによる未来主義批判が、〈子どもなるもの〉を巡る規範を破壊できずに空振りする、ということです。その空振りは、一部のクィアな人たちがシスヘテロ中心主義的な価値観を受容してしまっているということによってますます確固たるものとなっている、現にほとんど誰も特例法の撤廃のために闘おうとしていない、と古怒田さんはいらだっています(204ページ)。

3.トランスジェンダーと具体的な子ども

 古怒田さんがここでエーデルマン批判の足場とし、またご自身の議論のエネルギーをくみ取っているのは、ビーティさんという1人の具体的なクィア(トランス男性)が出産して生み出した、具体的な次世代の子どもの存在です。未来否定ばかりを説くエーデルマンには、この具体的なクィアの現実を捉えることができない、ということです。そしてここから、古怒田さんは〈子どもなるもの〉という抽象的なものに対抗するために、具体的な現実としての具体的な子どもの存在に議論を集中させていきます。
 論文の第3節「トランスジェンダーの「未来」」で取り上げられるのは、緒方拓海さんという日本のFTXの方の話です。古怒田さん曰く、緒方さんは(トランス当事者にすら受け入れられている)シスヘテロ中心主義的な「規範に組み込まれていないトランスジェンダー」で、緒方さんの姿にには「トランスジェンダーの「未来」が垣間見られた」そうです。(204ページ)
 緒方さんの人生についての紹介は、古怒田さんも参照しているLGBTER 2018『LGBTと家族のコトバ」双葉社をご覧ください。かいつまんで紹介すると、緒方さんのトランジションに悪印象を持ったご両親による非難により、緒方さんは解離性同一性障害を患いましたが、その後ゲイアプリで知り合った年上の男性と、逡巡の末交際したそうです。そんななか、アレルギー反応からホルモン治療を中止していたタイミングで、緒方さんはご自身の妊娠を知ることになりました。
 古怒田さんは、緒方さんに会いに行ったそうです。

私が緒方と直接会った時、既にお子さんは産まれていた。お子さんを抱えるパートナーと男とも女とも言えない緒方、三人のありようは私がもっていた固定観念すら破壊した。緒方は「男は出産するものではない」というビーティに向けられたジェンダー規範を自らの生き方において覆していた。(『現代思想』204ページ)

緒方さんは子どもを産みました。緒方さんとパートナーさんとのあいだには、子どもがいます。その絶対的で具体的な子どもの存在と、その子どもの親である緒方さんの存在は、まさしくエーデルマンが否定しようとした〈子どもなるもの〉の未来主義を、エーデルマンとは違った仕方で否定し、破壊し、そこから逸脱して見せる可能性を示している。そのように古怒田さんは言いたいようです。
 抽象的な〈子どもなるもの〉に仮託された未来主義と、ビーティさんや緒方さんが生み(産み)出した具体的な子ども。この抽象VS具体の対照関係は、その後のホセ・ムニョスの議論の紹介にも継承されます。古怒田さんによれば、エリート的な(=新しいホモノーマティヴィティ的な)近年のクィア/ゲイのもつ「抽象的ユートピア(楽観主義)」に対して、ムニョスは「具体的ユートピア」を対照させて、そこからクィアネスに固有の未来や希望を語るそうです(205~206ページ)。

4.絶望的等式

 ここまで、古怒田さんの論文の内容をわたしなりに紹介してきました。これから、これについての感想・批判を書きます。もう、読んでくださっている人には伝わっているかもしれませんが、わたしはこの論文に本当にうんざりしました。
 古怒田さんの論文には、絶望的な等式があります。それは「生殖」と「未来」をイコールで結びつけるような等式です。エーデルマンの議論は分かります。〈子どもなるもの〉の抽象性が、シスヘテロ中心主義的な社会を堅くかたく守っている。そういう「再生産的/生殖未来主義」を批判するのは大切です。しかし、そうして徹底的な未来主義否定をクィアに結び付けるエーデルマンに対して疑問が出るのも当然だと思います。だから、「クィア(トランスジェンダー)に未来はないのか?」と問う古怒田さんの疑問はわたしも共有します。
 しかし、〈子どもなるもの〉の抽象性を批判しつつ、とはいえエーデルマンの否定主義に陥らない「第3の道」を探す古怒田さんが、議論の足場を「具体的な子ども」に求めた点については、とてもがっかりしました。古怒田さんが肯定的に言及しているクィアの生存は、ビーティさんと緒方さんの2人です。2人とも、カップルを作っていて、子どもを産んでいます。
 古怒田さんは、2人の出産について、シスヘテロ中心的なジェンダー規範を逃れる希望をそこに見ています。エーデルマンの議論が見落とし、特例法の前提にあらがう、トランスジェンダーの具体的現実を見ています。しかしその批判的エネルギーを、古怒田さんは圧倒的に「子ども」の存在に見出しています。トランスジェンダーに未来はないのか?という問いに対して、ここに未来がある、と「子ども」を指差すのです。
 どうしてビーティさんと緒方さんなのでしょうか?どうしてここに「未来」があるのでしょうか?そこに子どもがいるからです。はっきり言って、わたしはこれは絶望的な等式だと思います。クィアに未来はあるかという問いを立てて、古怒田さんは「クィアも生殖する、だからクィアにも未来はある」と答えているように見えます。これが、〈子どもなるもの〉に仮託された未来主義とは別の、とはいえひとつの「生殖未来主義(reproductive futurism)」でないとしたら、いったい何なのでしょうか。
 確かに、ビーティさんと緒方さんは、既存の家族秩序=シスヘテロ中心的規範を逃れています。ですから、エーデルマンが批判したような同一性の反復=再生産(reproduction)は、ここにはありません。そもそも、わたしはビーティさんと緒方さんの個人的な生活についてとやかく言うつもりは全くありません。わたしが問いたいのは、そうしたビーティさんと緒方さんの生殖に殊更に「クィアの未来」を見出そうとする、その古怒田さん自身の「生殖的(reproductive)未来主義」であり、「生殖=未来」という絶望的等式です。
 わたしの不満は次のように言いかえることができます。クィアにも未来がある、と言ってビーティさんと緒方さんが持ち出されるとき、古怒田さんは生殖能力のないトランスジェンダーから未来を奪っているのではないでしょうか。クィアは未来を否定する、と言ったエーデルマンがクィアたちの未来を奪ってしまったように、ビーティさんと緒方さんの事例から議論のエネルギーをくみとる古怒田さんは、生殖能力を(あろうことが自分自身の決定によって)持たないクィアたち―――その筆頭は「オペ」や「ホルモン」をしたトランスジェンダーです――から奪い去っていないでしょうか。
 ここまでくると、論文の最初の特例法批判すら、わたしには怪しく見えてきます。特例法は確かに問題です。その条件はあまりにも厳しい。現実の生活における性別移行にそぐわない仕方で、不必要なハードルを課していると思います。医学的適応によってオペができないトランスは置き去りにされており、シスジェンダー中心的な性別=身体観が強固に存在しているのも確かです。そして、この特例法の要件を満たすような仕方で身体改変を行うことが「正規の」医療の在りかたである、という問題含みの医療モデルを生み出した点で、特例法はとても罪深いものだと思います。
 しかし、特例法のそうした問題、なかでも「子なし要件」と「手術要件」を批判する古怒田さんの議論は、まるで子どももつ能力を奪うからこそ特例法が問題であるかのようです。そうではないはずです。特例法の手術要件の問題は、医学的適応や過剰な身体的侵襲の問題、リプロダクティブ・ヘルス&ライツの問題として議論されるべきであり、「子どもを持てなくさせることでトランス/GIDから未来を奪うこと」にはないはずです。
 わたしは疑っています。古怒田さんが次のように書くとき、わたしは古怒田さんが「生殖的未来主義」に強く賛同しているのではと疑っています。

トランスジェンダーは、既存の社会のジェンダー規範にはまだ存在しないような新たな性愛関係をもっているのではないか。生殖規範に抗して、また「現在」にのみ拘泥する否定性にはまだ想像もしえないような生殖の「未来」、「新たな社会性の希求」を描く可能性をトランスジェンダーはもつ。(『現代思想』205ページ)

どうして、新しい「未来」の希求が、なお生殖に仮託されるのでしょうか。どうして既存の「生殖」規範に抗うために、また新しい「生殖」を引き合いに出さないといけないのでしょうか。わたしには全く分かりません。〈子どもなるもの〉のイメージに投影された生殖主義への批判をエーデルマンと共有する古怒田さんが、ここで再び「生殖」主義に陥っているのは、ほんとうにがっかりさせられます。古怒田さんはきっと、そんな絶望的等式を自分は採用していないと言うでしょう。しかし、著者の意図はどうあれ、この論文が依拠している抽象VS具体の図式と、殊更にとりだされるビーティさんと緒方さんの出産の事例は、明らかにその等式を前提としてしまっているように思います。

5.トランスジェンダーは未来を生きている

 特例法には問題が多いです。厳しすぎる手術要件も、子なし要件も、少なくとも現在の運用に問題があることは多くの人が理解できると思います。(詳しくは、最近出された学術会議の提言などを見てください。)しかし、そうした特例法の問題を指摘する論者のなかには、特に手術要件にかんして、トランスの現実に対する配慮を欠いているように見える人も多くいます。その現実のひとつは、トランスジェンダーが自分自身で自分の身体を切っている、という現実です。
 皆さんは自分の外性器や生殖器官まわりの臓器を切り落としたいと思ったことはありますか?この記事を読んでいる人にはすでに偏りがあるかもしれませんが、多くの人はそんなこと思ったことがないと思います。でも、トランスの人の中にはその欲求を強く持っている人が少なからずいて、実際に手術(オペ)をすることで生きやすくなった、死なずに生きていけている、という人がたくさんいます。わたしもコロナや持病の影響ですっかり遅くなってしまいましたが、もうすぐ睾丸摘出をして女性ホルモンを始めます。(いまの持病の薬の飲み合わせが奇跡的にフィットしているので、このタイミングを逃すわけにはいかない。本当は外性器も切りたいけど、切ったあとどうしたらいいのか分からない)
 こうして自分自身で生殖臓器を切除しようとする私たちは、必ずしも特例法に強制されているわけではありません。もちろん、自分の人生設計にとって特例法が大きな意味を持つ人はたくさんいて、特例法の要求に自分を適合させていった人もいるでしょう。でも、それでもなお、そこにはただの「強制」ではない、本人自身の欲求があり、願いがあり、切望があり、生き延びようとする必死の努力があるはずです。だから、特例法の規定のことを「強制断種」という風に書く人のことは、わたしは嫌いです。いくら特例法に問題があるとしても、トランスのなかには自分自身にとってどうしても必要なこととして、自分のために手術をする人がいるし、その割合はきっととても高いとわたしは信じているからです。そこには、特例法をクリアするために強制されたわけではない、本人の意志があるはずです。ですから、特例法の求める要件と自分の身体がたまたま結果的に一致するだけのトランスももちろんいて、そういう人たちにとってみれば「断種」や「強制」という風に同じ手術のことを表現されるのは、気持ちの良いことではないでしょう。そういう人たちにとって、オペは子孫を残さないようにするため(=断種のため)ではなく、じぶん自身の身体を自分のものとして回復するためであり、性別の自己認識を自我のアイデンティティと結びなおすためのものです。(※加えて、特例法の手術要件を「強制断種」と表現することには別の問題もあると思います。それは、本当にこの日本社会に存在した強制不妊優生手術のもつ非人道性、つまり旧優生保護法の問題が、特例法を「強制断種」と表現することで見えなくなる、という問題です。)
 古怒田さんの論文には、自分自身が生き延びるために自分の生殖器官を切除してきた、そういうトランス/GIDの存在が見えません。ビーティさんと緒方さんという、生殖能力をもったトランスが現れて、その子どもたちに「クィアの未来」を見出す古怒田さんの論文では、自分で自分の身体を切るトランス/GIDの存在がいないことにされます。なぜなら、「生殖=未来」の絶望的等式をもっているこの論文にとってみれば、そんな人はまるで自分の未来を自分で奪う「自殺行為」をしていることになるからです。
 いいえ、違います。いくら特例法が強い影響力をもっていて、いくらシス中心的な身体の価値観が内面化されてしまっているとしても、自分の生殖器官を切ろうとするトランス/GIDのそのオペの決定には、否定できない「その人自身の意志」が混じっています。わたしたちは自殺しているのではありません。このままでは生きていけないから、生き延びるためにオペやホルモンをするのです。
 「生殖=未来」の等式が存在する以上、古怒田さんの論文では、生殖能力を失うことは未来を失うことのような位置を持つでしょう。いいえ、違うはずです。生殖能力を自ら失うことによってはじめて「明日」の時間をひねり出そうとする、そういうトランスが存在しています。今のままでは生きていけないという「今日の絶望」を突破するために、「明日」という未来をひねり出すためには身体を切る、そういう風に思っているトランスはたくさんいるはずです。生まれたときに乗せられた性別のレーンが将来に続かずに途切れているから、過去から現在へとまっすぐ繋がっていくシスジェンダーとしての時の流れを自分自身で逸脱して、そうやって「時間を脱臼させる」ことによってなんとか「明日」というわずかな未来の時間をひねり出しているトランスがいます。
 トランスジェンダーに未来はあるか?と古怒田さんは問うていました。わたしは、この問いにはすでに答えが出ていると思います。手術やホルモンの経験によらず、トランスジェンダーはすでに未来を生きています。シスのままでは生きていくことができなかった、そのどん詰まりの時間をなんとか突破して、かつての性別と異なる性を生き、生きようとする、それだけですでに、トランスジェンダーはありえなかったはずの未来を生きています。
 ときどき、トランジションは自殺と同じ、という風に言っているトランスジェンダーの人がいます。さきほど身体改変は自殺ではない、と言ったばかりですが――そしてもちろん身体改変だけがトランジションではないのですが――、この主張をする人の気持ちがわたしにはすごく気持ちが分かります。それまでやらされてきた性別で生きることができなくなったから、死なないためにぎりぎりでトランスする。それは、ある意味で、死なないために一度死ぬことです。「性別」が極めて強い力をもってしまっている現在の社会で、性別が変わるというのは別の人間になるということです。それまでの人が死ぬということです。自分が死なないために、そうやって一度死ぬということです。
 でも、そうして一度死んで、過去から現在へと続く、真っ直ぐでどん詰まりになってしまった「割り当てられた性別」のトラックを抜け出して、時間の関節を外すことで、トランスジェンダーはわずかずつですが将来の時間を捻出しています。だから、トランスはトランスであるだけで、すでに未来を生きています。シスジェンダーをやらされているあいだには決してイメージできなかった未来、手詰まりで真っ暗になってしまっていた自分の将来を、トランスすることでぎりぎりで時間を脱臼させて、自分の前に開くのです。だから、現在を生きるトランスジェンダーたちは、トランス以前には決して手に入れられなかった未来を、いま、おのおの生きています。トランスジェンダーは、脱臼された時間としての未来を、もうすでに生きているのです。

6.二重の不可視化と反未来主義

 どうして古怒田さんは、トランスジェンダー(クィア)の未来の可能性を問うために「生殖=未来」の等式を呼び込んでしまったのでしょうか。わたしが思うに、それは「子ども」が分かりやすく可視的(visible)だからだと思います。トランス男性が子どもを産んだり、男性でも女性でもない人が「親」になっているということが、目に見えて分かりやすく「クィア」だからだと思います。しかし、わたしは、ここにはおぞましいまでの「可視性(visibility)の政治」がひそんでいると思います。
 この社会はシスヘテロを標準にできていて、ふつうに生きているだけですべての人間は勝手にシスジェンダーのヘテロセクシュアル・ヘテロロマンティックの人間として決めつけられます。非シスジェンダーや、非ヘテロの存在は、まるっと不可視な(invisible)存在にされています。しかし、そうした非シスや非ヘテロなどの「クィア」な人びとが、自分たちの存在を訴えていこうとして、自分たちの存在を可視化(visualize)させていこうとするとき、そこにはまた陥穽が潜んでいます。それは、決して目に見えて分かりやすい(visible)仕方で生きてはいない、そういったクィアが不可視化されるという第二の問題です。
 「クィア」という言葉が領有されることになった闘争的な歴史を振り返ってみるならば、「可視的でないクィア」というのは語義矛盾かもしれません。でも、現実に「不可視のクィア」は存在していて、目に見える(visibleな)クィアばかりが「クィア」な存在として注目されることによって、不可視化され続けています。
 ジェンダー規範に反するような服装をしたトランスジェンダー。男性とも女性とも言えない奇妙ないで立ちのノンバイナリー。幸せそうにキスするレズビアンカップル。パブリックスペースをプライベートな「ハッテン」場へと変換していくゲイたち。パレードの先頭を走り抜けるダイク。ブースの上で踊るドラアグクイーン。非シス・非ヘテロな「クィア」という言葉で表現されるのは、いつもこうした目に見える存在で、たいていはいつも、恋愛や性愛、性行為の文脈とセットになっています。しかし、わたしはいつも思います。世の中には無数の「見えない(invisible)クィア」がいるのに、と。
 現代のAセクシュアルコミュニティの知恵がつまった、すばらしい本があります。タイトルは The Invisible Orientation: An Introduction to Asexuality、書いたのはサンドラ・デッカーさんです。昨年には奇跡的に日本語に翻訳されたのですが、この書籍のタイトルが Invisible Orientation であることには、意味があると思います。そうです、Aセクシュアルは「見えない」のです。Aセクシュアルは好んでセックスをしません。ヘテロの人々がまゆをひそめるような性行為をするわけでもないし、性的な文脈で誰かとハッピーな関係になったりしません。だから、Aセクシュアルはどこにいてもいないことにされます。ヘテロでないセックスや、ヘテロでない関係性をもたないから、可視化されるべき性行為や性欲、性的関係、家族形成がないから、Aセクシュアルはいないことにされます。シスヘテロ中心的な社会からもいないことにされるし、LGBT-クィアな人たちの運動や理論からも、いないことにされます。
 わたしは、Aセクシュアルほど「クィアな(へんてこな)」存在はいないと思っています。世界の殆ど全ての人が持っている性愛の感情を抱かないのですから。なんて非常識なんでしょう。でも、Aセクシュアルはいないことにされます。可視化されるべき材料が何もないからです。そして、そうして不可視化され続けているAセクシュアルとして、同時にわたしは覚えておきたいと思います。必ずしも誰かとセックスしたり、付き合ったり家族になったりすることを望まない、あるいはそういう性愛や恋愛がとりあえず日常のことになっていない、そういうレズビアンやゲイ、バイセクシュアルやパンセクシュアルの人たちのこと。誰かとセックスしなくなって、誰かと付き合ってなくたって、レズビアンの人はレズビアンだし、ゲイの人はゲイです。でも、そういった人たちの存在はいつも「いないこと」にされがちです。だからわたしは、InvisibleなAセクシュアルを生きる人間として、そうした方たちの不可視化された状況のことも、できるだけ覚えていたいと思います。
 セクシュアリティだけではありません。わたしがいつも心のなかで考えているのは、社会のなかでシスジェンダーのふりをして「ステルス」しているノンバイナリーの人や、トランジションをする状況が整っていないからシスのふりをしながら生きていかざるを得ないトランスの人たちのことです。そうした人たちは、決して目に見えません。わかりやすくジェンダー規範をかく乱する、奇抜な格好をしないし、ミスジェンダリングを絶えず被っていながらも、違和感や怒りを会社や学校で爆発させることはありません。わたしも、生活上の表現はトランスしてしまったけれど、就職したときの性別を知っている人にも「目ざわり」にならないよう、慎重に外見を調整しながら、女性の側に埋もれられるよう生活しています。さもないと、会社にいられなくなるからです。わたしは、そのことを身をもって知っています。
 古怒田さんには、そうやって今日もどこかで生きているクィアたちのことは見えているでしょうか。シスヘテロ中心的な社会からも不可視化され、「クィア」の可視化の政治からも置いて行かれて不可視化されている、そうしたトランス、ノンバイナリー、Xジェンダー、Aセクシュアル、レズビアン、ゲイ、バイセクシュアル、パンセクシュアルの人たちの被る「二重の不可視化」の経験は、見えているでしょうか。
 もう一度、もとの問題に帰っておきたいと思います。なぜ、「再生産的/生殖未来主義」を否定するはずの古怒田さんが、具体的な子どもの存在ばかりに「未来」を見出す「生殖主義」を招き入れたか。それは、子どもの存在が可視的だからだと思います。ふつうの家族じゃなくて、見えやすくて分かりやすいからです。でも、わたしは言いたい。そんな風に可視的でないとしても、今日もどこかでクィアたちは生きている。そうして生きて、あり得なかったはずの未来の時間をそれぞれの方法でひねり出しながら、窒息させられそうな社会の中でなんとか呼吸をして、来なかったはずの「明日」の時間を生き延びている。この、脱臼した時間のなかに捻出されたぎりぎりの「未来」の時間を見ようとしないで、「子ども」という分かりやすい次世代の存在に注目するなんて、わたしには到底無理です。もし、それが「クィアにとっての未来」なのだとしたら、わたしはそんな未来は拒否します。〈子どもなるもの〉に託された「再生産的/生殖未来主義」にとって代わるのが、「具体的な子ども」に託される「生殖未来主義」なのだとしたら、そんな「未来」はいりません。
 以前書きました。クィアの政治が「幸福」の概念の刷新を目的としているなら、Aセクシュアルはそこには参加できない、と。自分たちを不幸にする社会を変えて、自分たちも幸福になれるような未来を手に入れよう。それがクィアたちの幸福のポリティクスなのだとしたら、そこにAセクシュアルの居場所はありません。だって、Aセクシュアルには欲望がないのですから。手に入れたい「幸せ」も、奪われている「未来」も、ないのですから。だからAセクシュアルは、ただの「アンハッピークィア」ではない、「アンチ(Anti:アンタイ)ハッピークィア」なのです。

この結論は、今も変わっていません。そして、既存の生殖主義、生殖未来主義に代わる「新しい生殖」の形を手に入れることが、クィアたちに未来を取り戻すことなのだとしたら、そんなものにもわたしは参加できません。生殖器官を切除し、ホルモンを摂取し、他者との性的活動を欲望しない、AジェンダーのAセクシュアルとして、わたしはそうした「未来」を巡る政治なんて大嫌いです。A, is for Anti-Futurism。どんな新しい性愛をクィアは見せてくれるだろうか?どんな新しい生殖の可能性をクィアは開くことができるか?そんなことが「未来(Future)」の掛け金になっているのだとしたら、わたしはその「未来」を拒絶します。これが、不可視化されて続けているクィアとしての、わたしの「反-未来主義」です。

7.脱臼した時間

 古怒田さんは論文の最後で、尾崎日菜子さんの文章「エイリアンの着ぐるみ」を参照しています。これは、2019年6月に発行された『女たちの21世紀』の特集「フェミニズムとトランス排除」に寄せられた、尾崎さんから一人のトランス女性へのメッセージの録音記録です。その女性は、ツイッター上のトランス差別を理由にして、自殺しました。2019年の1月ころ、そのことがご友人のブログを通じて知られることになりましたが、そのときのトランス差別者たちの醜い反応と共に、この女性のことを記憶している方は多いのではないでしょうか。
 しかし、わたしの解釈で申し訳ありませんが、古怒田さんは尾崎さんの文章を理解していないと思います。古怒田さんは、「だから、ありえたはずの別の歴史のなかで、あなたの声を、そして、あなたが他の誰かと生きることを望む声を、どうか聞かせてください」(『女たちの21世紀』16ページ)という尾崎さんの録音を引用しながら、(そしてムニョスの概念を使いながら)ここにトランスジェンダーたちの「ユートピア的希望」があるとしています。

トランスジェンダーの「未来」という「ユートピア」は、「歴史」が未だ「未完了」であることを示し、社会的生活において現行の生殖規範の批判と組み換えへの「実践」が可能となる場なのではないだろうか。(…)性別のゆらぎをもつ緒方の「現前(presence)」は、トランスジェンダーの「未来」が、「ユートピア的希望」が不可能ではないことを垣間見させてくれる。なにより緒方はクィアネスと、観念的な〈子どもなるもの〉ではない具体的な「子ども」とが共に「ユートピア的希望」を抱くことができることを、まさに「実践」している。(『現代思想』207ページ)

古怒田さんはここでも、抽象的な〈子どもなるもの〉と具体的な「子ども」の対立図式を繰り返し、トランスジェンダーの「未来」を「新しい生殖の形」に見出そうとしています。しかし、尾崎さんの「エイリアンの着ぐるみ」が開こうとしているのは、それとは違う、それどころかそれとは全く逆向きの「時間」だと思います。
 尾崎さんは、自死してしまったトランス女性へのメッセージを録音しています。「あなたは今宇宙のどこを漂っているのでしょう」つぶやく尾崎さんは、もうほとんど滑稽と言ってもいいかもしれないくらいの、途方もなく絶望的なコミュニケーションを実践しています。「いつかここに戻ってみようかと思ってもらえるように、録音を始めてみました。」(『女たちの21世紀』11ページ)。尾崎さんのレコーダーは、宇宙に電波を飛ばしているのでしょうか。死後の世界に届くのでしょうか。死んだ人が「戻ってみよう」と思って、尾崎さんのレコーダーを再生することなんてあるでしょうか。
 尾崎さんがここで生きている時間は、だから、未来のいつかにかけられている希望へとつながる、そういう前向きの時間ではないと思います。尾崎さんは、死んでいなくなってしまった過去の「あなた」に後ろ向きに呼びかけることで、「あなた」に出会えないままに終わってしまう時間軸とはまったく別の時間軸をひねり出そうとしているのだと思います。「あなた」が誰かに確かに弔われ、その生が生きるに値するものだったといつくしまれるような、そういう「別の歴史」を新たに作り出そうとしているのだと思います。尾崎さんはこの文章を書くことで、死んでしまったトランス女性の「あなた」が、トランス差別によって(多くのトランスジェンダーたちが日々そうであるように)殺され、名前を奪われていく、そういうシス中心的な時間軸を脱臼させようとしているのだと思います。真っ直ぐに続く、シス中心的な社会の歴史に埋もれてしまって、存在を消されている過ぎ去ったトランスの魂に呼びかけることで、尾崎さんはストレートには繋がっていない現在と過去を、時間の関節を外すことで繋ごうとしているのだと思います。
 尾崎さんは「エイリアンの着ぐるみ」の冒頭に、バトラーの『アセンブリ』のパッセージを掲げています。

そう、だから、哀悼不可能なものは時に哀悼の公的な反乱に集う。だからこそ、これほど多くの国々において、葬儀とデモを区別することは難しいのである。(『アセンブリ』2018年、257ページ:『女たちの21世紀』2019年、11ページ)

 亡くなってしまったトランス女性の「あなた」へのメッセージを録音する尾崎さんは、未来への希望や「ユートピア」について語っているのではないと思います。尾崎さんは、哀悼されるべき魂に二人称で呼びかけ、「いつかあなたがこの録音を聞くとき」を夢見つつ、「いつか会えたらいいですね」という風に語っていますが、この「いつか」は、具体的ないつか訪れる未来ではありえないでしょう。だから「エイリアンの着ぐるみを着たあなたの声が、ここに帰ってくるのを待っています」(16ページ)と語る尾崎さんは、そうして「待っています」という言葉を通じて、まさにそこで死んでしまった「あなた」に出会っているのだと思います。尾崎さんが働いていたニューハーフショーパブのママさんの口を通して、尾崎さんの入店1カ月前に自ら命を絶ってしまった「彼女」に尾崎さんが会ったように、尾崎さんはこの文章全体を通して、亡くなってしまった「あなた」が弔われない世界の時間を脱臼させて「あなた」に会おうとしているのだと思います。そしてまた、読者であるわたしたちに「彼女」を合わせようとしているのだと思います。
 死んだ人には会えません。でも、それは時間がまっすぐ流れて行くときの話です。
 いつも書いているように、わたしは過去のAセク・トランス・クィアの人たちが残してきたものによって、命を救われてきました。それは、掲示板の書き込みであり、とっくに放り棄てられたブログであり、更新の途絶えたチャンネルのYoutube動画でした。もう亡くなってしまった人も含めて、過去の人たちと出会ったことで、わたしはこれまで自分の人生の時間の流れをそのつど脱臼させて、何とか「明日」をひねり出してきました。
 それと同時に、そうしてわたしが過去の魂に触れることは、そうした過去のクィアたちが亡霊のように現在に呼び出されることでもあります。わたしの好んで読んでいた英語のブログの書き手さんは、あるときから精神を病んで以降、全てのSNSの更新が途絶えました。Youtubeでいつも動画を観ていた、わたしがとても感情移入してしまう日本のトランス女性の方は、つい10日前に自殺しました。わたしは、they・彼女たちの文章や動画に生かされてきました。でも、わたしがそのブログを開いて、Youtubeの動画を再生して、共感したり、哀悼したりすることで、わたしは過去のある時点で途切れてしまったその人の生の断面を、強引にゆがませて現在に接続することができます。
 こうした「脱臼した時間」こそが、クィアたちの生きる時間であり、尾崎さんが「エイリアンの着ぐるみ」で描き、生きようとした時間だと思います。ここには、未来のユートピアを夢見るような希望はありません。でも、クィアたちの生が誰にも弔われない世界線とは別の、クィアたちの生が弔われる世界を作ることはできます。それは、シスヘテロ中心的な、真っ直ぐストレートに続くトラックの時間の関節を外すような、アナクロニックな哀悼です。ここには、何も現前していません。「固定観念を破壊する」ようなショッキングで可視的な「クィアネス」は、ここにはありません。哀悼される「あなた」について、私たちはもしかしたら何も具体的なことを知らないかもしれないし、第一「あなた」はもういません。でも、「具体的なもの」が何もないとしても、わたしはここにトランスジェンダー/クィアたちの「リアル」があると信じています。自分とどこか似通った生存を生きていたような、過去の人たちのテキストや動画に触れることで、「自分だけじゃない」という感動を抱き、決して時間・空間的な「いま・ここ」においては交わることのない人生だったとしても、互いのことを気にかけ、時には弔うような、そうしたトランス/クィアの「リアル」があると思います。

 トランスジェンダーに未来はあるか?その問いに対してわたしは、トランスジェンダーはすでに未来を生きている、と答えました。既存のシスヘテロ的生殖規範を批判することは、確かに大切です。でも、その過程で「生殖未来主義」が再び回帰するようなら、ときに自らの身体を切り、ホルモンを摂りこむトランスジェンダーの生きているこの「未来」は見えなくなります。それどころか、そうした「生殖未来主義」は、恋愛やセックス、生殖などの点で可視的(visible)ではないような、不可視なクィアたちの存在を抹消してしまいます。その抹消(二重の不可視化)はきっと、後世の人々がそのクィアたちに出会うことをも妨げてしまうでしょう。クィアたちが生き、繋いでいくはずの、脱臼した時間の連なりを阻んでしまうでしょう。だからわたしは、あらゆる未来主義(Futurism)を拒否します。トランスやクィアたちがそのつどひねり出している「明日」。その現在生きられている未来の時間を注視し、過去のトランス・クィアたちと「脱臼した時間」において出会う、そういうねじれた時間を、わたしは大切にしたいと思います。
 そして最後に。これは、控えめなひとつの願いとして。もしかしたら、わたしとわたしの大切に思う人たちが死んだとしても、いつかのトランス・クィアたちが時間の関節を外してわたしたちに出会いに来てくれるかもしれません。たったそれだけの、決して「具体的」でない希望をもつことが許されるのなら、わたしの「未来」はもう十分です。