女性と自己同一化する/女性で自己となる/女性(The Woman Identified Woman)(1970)
50年前の今日、1970年5月1日。第2回女性連帯会議(Second Congress to Unite Women)に集まった400人の女性たちの視線が、ステージに注がれていました。突然落とされた照明が再び点灯したとき、「ラベンダー色の脅威」と書かれたTシャツを着た20人の女性たちがステージをジャックしていました。彼女たちは予定されていたスピーカーからマイクを取り、女性解放運動のなかでどれだけレズビアンの存在が脅かされ、どれだけその問題が覆い隠されてきたかを語りました。それと同時に彼女たちが会衆に配布したのが、これから紹介する「女性と自己同一化する/女性で自己となる/女性(The Woman Identified Woman)」という名のマニフェストです。
ラベンダー色の脅威
このUnite Womenという会議は、全米を代表するリベラルフェミニズム団体NOW(全米女性機構)の指導の下、リベラル・ラディカル問わず、全米の女性解放運動体が一堂に会する会議でした。しかし第1回Uniteの準備の過程ではレズビアンフェミニストたちの排除が行われ、NOWの組織からレズビアン女性が追放される事件も発生しました。加えてNOWの代表であるベティ・フリーダンがNew York Times Magazine誌上でレズビアンたちを指して言い放ったのが、冒頭の「Lavender Menace(あれらはフェミニズム運動にとってのラベンダー色の脅威だ)」というセリフです。
ステージ上にいたのは、こうしたフェミニズム運動からのレズビアン排除への抗議を示すために集った女性たちでした。彼女たちは自ら「ラベンダー色の脅威」を名乗り、また「ラディカレズビアンズ(Radicalesbians)」という名称を用いて、自分たちがラディカルフェミニズムはじめ女性解放運動の正当な成員であることを示そうとしました。
そのステージ上で読み上げられ、またパンフレットとしても配られたのが、「女性と自己同一化する/女性で自己となる/女性」(The Woman Identified Woman)です。わたしはAsexual Manifestoという1972年に策定された宣言文の源流を求めて、いまNYのラディカルフェミニズム運動について調べているのですが、この Woman Identified Womanは、間違いなくAsexual Manifestoに最も影響を与えた文書だと思います(おそらくNotes from the third year(1971) に収録されたWoman Identified WomanをAsexual Manifesto(1972)を起草したLisa OrlandoさんとBarbara Getzさんが読んでいたのではないかと思います)。それだけでなく、この Woman Identified Womanには、「女性であること」の意味を根本的に問い直そうとしたアメリカのラディカルフェミニズム運動の最も中核的な思想が詰め込まれているとわたしは素人ながら考えています。
「Woman Identified Woman」というこの奇妙なタイトルには、二義性が込められています。ひとつは、「レズビアンは男になった女(Man-identified Woman)なのだ」という当時の誤解、侮辱に対する抗議です。自分たちは「女である」ということ。そしてもうひとつは、「女性である」というアイデンティティをもっぱら「男性にとっての女性である」という仕方で男性に対する従属的=奉仕的な関係から定義しようとする、男性優位的=家父長的な性役割分配システムの破壊という文脈です。男性に対する従属的な関係のなかで「女性である自分」を獲得する女性、すなわちMan-identified Woman(男性との関係の中に自らを映し込む女性)ではなく、女性たちが女性たちだけで女性である自分を獲得しなければならない。つまりWoman-Identified Womanにならなければならない。それこそが(ラディカル)フェミニズムの論理的帰結だ、という含意がこのタイトルには込められています。その内実は、本文を読んでいただけばすぐ分かります。そういうわけで、無理やりこれを日本語にした結果「女性と自己同一化する/女性で自己となる/女性」となりました。
レズビアンと聞くと、性的指向のことを想起すると思います。それは当時の文脈でも確かにそうです。しかしこのマニフェストで「レズビアン」という言葉が分析されるとき、その言葉が使われている文脈は、性役割規定(=女性らしさ)からの逸脱をとがめ、処罰するという、男性中心主義社会による制裁と脅迫です。女性らしくしないこと。(あたかも男性のように)一人前の自己を獲得しようとすること。その人間としての普通の可能性を、女性たちだけに禁じるために用いられているのが「レズビアン=ダイク」というラベルだと、マニフェストは主張します。そしてこのマニフェストでは、同性愛(Homosexuality)の存在も、既存の女性らしさ/男性らしさを充足しない逸脱(副産物)として、かなりの程度ジェンダーの視点から検討されます(※もちろん男性同性愛と女性同性愛に巨大な非対称性があることも強調されています)。そういう意味で、この Woman Identified Womanは、レズビアンであることに焦点を当てたものでありつつ、性役割システムの根絶を指向するというラディカルフェミニズム運動の課題を明確に背負っています。(ただし、こうした「性愛:セックス」を重視しないレズビアニズムは、のちに「バニラセックス」という言葉で批判の対象ともなりました)
以下に、Woman Identified Womanの全訳を記します。扱いとしては、ここまでの説明に対する引用部分だと思ってください。ちなみに、このマニフェストはネットで検索すればどこでも原本を見ることができます。わたしが参照したのは、Duke大学の次のデータです。
Woman Identified Woman(全訳)
レズビアンとは何か? レズビアンとは、発火点まで高まりに高まった、全ての女性たちの怒りの爆発である。レズビアンとは、しばしば人生の極めて早い段階から、社会が彼女に対して――ともすればそのときにもう、しかし間違いなくそのうち――許容してやろうと気をもんでいる〔女性に認められた生き方〕よりも完全に、より自由になろうとする、自分の内側からの衝動に従って行動し始めた女性のことである。こうした必要やそれに伴う行為によって、彼女は何年にもわたり、他の人々や状況、そして〔社会に〕受け入れられている考え方や感じ方、ふるまい方とのあいだで痛みの伴う葛藤を味わうことになった。そしてその葛藤は、彼女が身の回りの全てのものとの絶えざる戦争状態を生きるまでになり、またよくあることだが、その葛藤は彼女と彼女自身とのあいだの葛藤でもあった。彼女は、自分が個人的な必然性として始めたことが自分にとってどのような政治的含意を持っているのか、完全には意識していないかもしれない。しかしある水準では、彼女は、彼女の生きる社会の中のもっとも基本的な役割によって彼女に課せられた特定の制限や抑圧を受け入れることができなくなっている。それは女性という役割(the female role)である。彼女が経験するトラブルは、彼女が社会的に期待されていることを満たすことができないと彼女が感じる強さに応じて、それだけ罪悪感を生み出す。加えて/あるいは、そうしたトラブルはときに、いったい何であれば自分以外の社会は多かれ少なかれ〔自分を〕受け入れてくれるのだろうかと、そのように問い、またそのことについて分析するよう彼女を駆り立てもする。彼女は、自分自身の生活形態を自分で編み出すことを強いられる。しばしば彼女は、自分の人生の大半をひとりで過ごすし、一般に、彼女の「ストレート〔異性愛者〕の」姉妹たちよりもずっとずっと早くに、人生が本質的には孤独であるということについて学び、また色々な幻想にまつわる真実について学ぶ。女性になっていくということに伴う深刻な社会化(the heavy socialization)を投げ捨てることができない限り、彼女はいつまでも、決して自分自身とのあいだの平和を本当の意味で見つけることができない。というのも彼女は、彼女に対して社会が抱いている考え方――そこでは彼女は自分自身を受け入れることができない――を受け入れることと、この性差別的な社会が彼女にしてきたことが何であるかを理解し、そのようにすることが性差別な社会にとって有意味で必然的なのはなぜなのかを理解するようになることのあいだで、動けなくなっているからだ。私たちのなかでそれを乗り越えたものたちは、もしかすると何十年ものあいだ続いていた、闇夜の中の曲がりくねった旅路の反対側に辿り着いている。その旅路を通して開かれた視角とは、自己の解放であり、内的な平和であり、自分自身そして全ての女性に対する本当の愛である。そしてこれらは、全ての女性たちのあいだで共有されるべきものである――なぜなら、私たちはみな女性なのだから。
はじめに理解されなければならないことがある。それはレズビアニズムが、男性同性愛(male homosexuality)と同様、厳格な性役割によって特徴づけられ、また男性優位主義(male supremacy)によって支配された性差別的な社会においてしか可能ではない振る舞いのカテゴリーだということだ。そうした性役割は、男性という主人の階級との関係で支援し/仕える階級にあるものとして女性を定義づけることで、女性たちの人間らしさを奪い、またそうした性役割は、情動的に男性たちを壊してしまう(emotionally cripple)。男性たちには、自分の経済的/政治的/軍事的機能を効率的に果たすために自分自身の身体や感情から自らを切り離すことが求められるからだ。同性愛(Homosexuality)は、性(sex)に基礎を置きつつ役割(もしくは世間で承認された振る舞い方のパターン)を設定する、その特定のやり方から生み出された副産物(a by product)である。そうしたものとして、同性愛は、正統でない(すなわち「現実」ときちんと調和していない)カテゴリーである。男性が女性を抑圧することなく、性表現が感情に任せて可能な社会では、同性愛や異性愛のカテゴリーは消滅することになるだろう。
しかし、レズビアニズムは男性同性愛と異なってもいる。レズビアニズムは、社会の中で異なる役割を果たしているからだ。 「ダイク」は、「ホモ野郎(faggot)」とは異なる種類の侮蔑の言葉である。どちらも「お前は社会によって割り当てられた性役割を果たしていない」、「だからお前は『本当の女性』や『本当の男性』ではない」ということを含意しているが、それでも、両者は異なる種類の侮蔑である。おてんば娘(tomboy)に対して感じられる妬みを含んだ賞賛や、なよなよした男の子について感じられる吐き気やむかつきは、同じひとつのものを指し示している。それは、女性たちや女性的な役割を果たす者たちを支配して離さない、侮辱である。そして女性たちをそのような軽蔑的な役割のうちにとどめ続けるような資本投下は、どうしようもなく大きい。「レズビアン」というのは、一つの言葉でありラベルだが、それは女性たちをぴったり一列に整列させてしまうような条件付けとなる。「レズビアン」という言葉が自分に投げかけられたのを耳にすれば、彼女は自分が一線を越えていたと知る。彼女がそこで知るのは、彼女が自らの性役割のおそるべき境界線を踏み越えてしまっていた、ということである。彼女は後ずさりし、打ち消し、承認を得るために自分の行動を組み立て直す。レズビアンというのは、【男性the Man】によって発明された一つのラベルなのである。それは、不遜にも【男性】と同等の立場を主張する女性や、【男性】の大権(――そこには、男性の間での交換の媒体という役割を果たすものとしての全ての女性についての大権を含む――)に対して不遜にも挑戦を挑む女性、また、彼女自身のニーズを不遜にも優先しようなどと主張する女性に対して、あまねく投げかけられるラベルなのだ。女性解放運動のなかで精力的に活動してきた人々に対して〔レズビアンという〕ラベルが当てはめられているということは、長い歴史の中でのちょうど最も新しい実例である。より年配の女性たちは、それほど昔ではない頃のこと〔=そのラベルが使われていた以前の実例〕を覚えているだろう。自分自身で成功し、独立し、自分の人生を一人の男に差し向けるということをしてこなかった女性たちは、誰でも〔お前はレズビアンだという〕この言葉を聞くことになったのである。このようにラベルが使われてきた理由、それは、この性差別的な社会においては女性が自立していることはその女性が女性ではありえないということを意味しているからだ――「彼女はダイクに違いない」。そのことがまさに、それ自体で、女性たちがこれまでどこにいたのかを教えてくれるはずだ。 それは、およそ能う限りもっとも明確に、「女性」と「人格」は相互に矛盾する言葉なのだ教えてくれる。なぜなら、レズビアンは「本当の女性」とは考えられていないのだから。しかし、広く行きわたった考えにおいては、レズビアンとその他の女性との間には、本当のところたった一つの本質的な違いしか存在しないことになっている。それは、性的指向の違いである。このことが意味するのは、あなたが背負っているものを全て肩から降ろせば、あなたは最後には次のことに気づかざるを得ない、ということだ。つまり「女性」であることのまさにその本質は、男にファックされることにある、ということに。
「レズビアン」は、男性たちが人間を二つに分断するために用いる、性的なカテゴリーの一つである。全ての女性は性的な客体として人間扱いされなくなっている一方で、男性の客体としては、女性たちにはいくらかの報酬が与えられている。〔つまり〕男性の持っている権力や男性の自我、男性の地位、そして(他の男から)男性に保護してもらうことに自分を同一化させることで、女性たちは「本当の女」になったような気持ちになり、彼女の〔女性としての〕役割を固守することによって社会から自分が受け入れられていることに気づく、など〔これが報酬である〕。〔男ではなく〕他の女性と向き合うことによって、女性が自分自身と向き合うとき、そこにはほとんど何の理屈づけも、何の緩衝材も存在しなくなる。そうした理屈や緩衝材によって、彼女は自分が人間扱いされなくなっているという状況についてのむき出しの恐怖を避けることができていたのだが、それがなくなってしまうのである。ここには、女性によって性的な客体として利用されることに対して多くの女性たちが抱いてきた、非常に大きな怖れがある。そのように女性に利用されることによっては、「男性と紐づいた」報酬はいくらも手に入らないし、むしろそれは、女性たちが置かれている本当の状況を、つまりむなしき虚空を彼女に暴いてしまう。こうした人間扱いしないことは、姉妹がレズビアンであることをストレート〔異性愛の〕女性が知ったときに表現されているものである。そのストレートの女性は、レズビアンである自分の姉妹のことを性的な客体の候補として扱い、そのレズビアンに対して、男の代役という役回りを課し始めるのである。このことが明らかにするのは、セックスが潜在的に関係性の中にある以上彼女自身が〔性の〕客体へと転化されてしまうという、彼女の異性愛的な状況であり、そしてそのことは、レズビアンに対して彼女の完全な人間性を認めないことにつながっている。女性たちにとって、とりわけ〔女性解放〕運動の中にある女性たちにとって、レズビアンである自らの姉妹を性役割の定義についての男性的なスコープを通して受け入れるということは、まさにこの男性的な文化的条件付けを受容するということであり、自分たち自身が男性たちの手によって抑圧されてきたのと同じように、自分たちの姉妹を抑圧することである。全ての女性を何らかの他のカテゴリーの人々との性的な関係のなかで定義しようとする男性的な分類システム(male classification system)を、私たちはこれからも続けようというのか。「レズビアン」というラベルを、一人の人間たらんとする女性に対して貼り付けるだけでなく、女性たちの間での真実の愛、真実の連帯、真実の卓越であるようないかなる状況に対しても判で押したように刻印すること。これは、女性たちのあいだに不和をもたらそうとする基本的なやり方である。そうした不和をもたらす「レズビアン」というレッテル貼りこそが、女性の性役割という枠のなかに女性たちを留め置こうとして女性たちを取り巻く状況なのであり、またそうしたレッテル貼りは、私たちのあいだにありうるいかなる基本的な親愛、集団、協働を形作ることからも女性たちを引き離そうとする、評判を下げて脅しをかける〔呪いの〕言葉である。
〔女性解放〕運動の中にある女性たちは、たいていのケースにあって、レズビアニズムという問題を議論し、それと向き合うことを力の限り避けてきた。その問題は、人びとを落ち着かなくさせる。運動のなかの女性たちは、〔レズビアニズムに対して〕敵対的であったり、〔その問題を〕はぐらかそうとしたり、あるいはその問題を何らかの「より大きな問題」へ合併してまとめられないかと試みている。彼女たちは、レズビアニズムについて語りたくないのだ。そうして、自分たちがそれについて語らなければならないときがくるや、彼女たちはレズビアニズムを貶めようとして言う。「ラベンダー色の脅威がきた」と。しかし、それは決して副次的な問題などではない。〔レズビアニズムと女性解放運動の関係という〕この課題に取り組むことは、女性解放運動の成功と達成にとって絶対に本質的なことである。「ダイク」というラベルが、女性たちを脅かしてより戦闘的でない姿へと女性たちを仕向けるために用いられ、また女性たちを彼女の姉妹たちから切り離すために用いられ、そして男や家族以外のなにかを大切にすることを彼女に許さないためにそのラベルが用いられている限り、彼女は男性的な文化に支配されているのだ。女性たちが、最も基本的なコミットメントの可能性のなかでお互いを見るようになるまで――そしてそのコミットメントには性的な愛(sexual love)が含まれるが――、女性たちは自分たちがすすんで男性たちに授けている愛や価値を、自分たち自身には与えることを拒み続けることになる。そうして女性たちは、自分たちの二級市民としての地位を肯定し続ける。男性に受け入れられるかどうかということが、個々の女性にとっても、また女性の運動にとっても、そのどちらにとってもそれが第一次的なことである限り、「レズビアン」という言葉はどこまでも女性たちを効果的に押さえつけるために用いられることとなるだろう。女性たちが既存のシステムの中での特権をより多く手に入れようとしている限り、女性たちは男性権力を敵としてそれと向き合おうとしていない。そのとき女性たちは、男性権力に立ち向かう代わりに、〔男性権力からの〕受け入れ可能性を女性運動のために求めている。その受け入れ可能性にとって最大の核となるのは、レズビアニズムの拒絶である――つまり「女性the female」の基礎をなすものに対するいかなる根本的な挑戦をも拒むことである。付け加えて言うべきことは、いくらかの若い、よりラディカルな女性たちが、レズビアニズムについて正面から議論し始めているということである。しかしその限りでのレズビアニズムは、第一義的には男性の代わりとなる性的な「代替品」のことであった。 これではしかし、まだ男性を上位に置いている。というのも、女性たちともっと完全に関係しようという考え自体が、男性に対する否定的な反応として生じているからであり、またレズビアンの関係性が、単にセックスによって特徴づけられるものとなっているからである。しかし、これは分断を招くものであり、また性差別的である。個人的でもありまた政治的でもある水準においては、女性たちは感情的なエネルギーや性的なエネルギーを男性たちから引き上げることができる。そして、そうしたエネルギー使用の代替となる様々なことに、女性たちは自分たち自身の生活のなかで取り組むことができる。それとは異なる政治的/心理学的なレベルにおいては、女性たちが男性によって定義された応答のパターンから身を退き始めることが決定的に重要な意味を持つということが、理解されなければならない。私たち自身の心の秘奥で、私たちはそうした原則を心の真ん中にまで刻み込んでおかなければならない。私たちの恋愛と性愛のエネルギー(our love and sexual energies)がどこに流れ出て言っているのかを考慮することなくしては、すなわち、私たちが自分の頭のなかで「男性に自己同一化している〔=男性との関係に自らを映し込んでいる〕」(we are male-identified)限り、私たちは人間存在としての自分たちの自律性を理解することができないからである。
しかしどうして、女性たちは男性たちと関わり、また男性を経由して生きてきたのだろうか。男性的な社会のなかで育てられてきたおかげで、私たちは、私たち自身を男性的な文化がどのように定義するのかということを内面化してきた。その定義は、性的ないし家族的な役割へと私たちを格下げし、私たちの人生の区分を私たち自身が定義し、私たち自身が形作ることを妨げてきた。私たちが心理的に〔男性や男性中心社会に〕奉仕し、社会のなかで利益を生み出さない非採算部門の役割に従事することと引き換えに【男性the man】が私たちに与えてくれたのは、たった一つのことだった。それは、奴隷の地位である。そして私たちの生きる社会の眼差しにおいては、私たちはその奴隷の地位にあることによって正当な存在として認められている。この奴隷としての地位が、私たちの文化のわけのわからない言葉遣いでは「女らしさ」だとか「本物の女性になること」だということになっている。私たちが真正で、正当で、本物の存在であるのは、私たちがその男の名を名乗ることになる、その幾人かの男の所有物である限りにおいてなのである〔※●●の妻、●●家の奥さん〕。誰の男のものにもならない女性であるということは、見えないものになるということであり、可哀そうで、きちんとしていない、本物ではないもの(unreal)になるということだ。男が承認するのは、私たちについて彼が持っているイメージであり、私たちがその男に受け入れてもらうためにそのようにならなければならなかった姿について、彼が持っているイメージである。それは、本当の私たち自身ではない。男が承認するのは、男が定義する限りでの、男との関係にある限りでの、私たちの女性らしさである。男には、私たちの人間性や、私たち自身の自己を絶対的なものとして承認するということができない。 このような女性の定義に沿って、このような男たちからの是認に沿って、私たちが男性の文化に依存し続けている限り、私たちは自由にはなれない。
このような役割を内面化していることの帰結が、自己嫌悪の巨大な蓄積である。このことはしかし、自己嫌悪がそれとして認識されたり、受け入れられたりしていることを意味するわけではない。むしろ殆どの女性は、そうした自己嫌悪の存在を否定するだろう。そうした自己嫌悪は、彼女の役割についての不快感として経験されるかもしれないし、空虚さの感情、しびれ、落ち着かなさ、心の中心を占める麻痺させるような不安として経験されるかもしれない。あるいはそれとは違って、その自己嫌悪は、彼女の役割がもつ華々しさや運命をなんとか死守しようとすることのうちに表現されるかもしれない。しかし、その自己嫌悪は確かに存在している。それはしばしば彼女の意識の末端のその真下に隠れながら、彼女の存在を毒に侵しつつ、彼女を彼女自身から、また彼女のニーズから疎外させつづけ、別の女性に対するようなよそよそしい見知らぬ他人のように、彼女を変えてしまう。彼女たちは抑圧する者に自己同一化する〔=そこに自らを映し込む〕ことによって、またその抑圧する彼を通じて生きることによって、そしてまた抑圧する彼の自我や権力、またその副産物を通して自分の地位とアイデンティティを獲得することによって、逃避を試みている。そして、自分自身がそうであるようなその他の「空っぽの器〔女性〕」とは自分を同一化させないことによって、逃避を試みている。女性たちは、自分たち自身の抑圧を、自分たち自身の二流の地位を、そして自分たち自身の自己嫌悪を映し出してしまう他の女性たちとは、あらゆるレベルで関係することを拒む。なぜなら、他の女性と向き合うことは最終的に、自分自身‐自己自身と向き合うことになるからであり、私たちはそれを何が何でも避けようとしてきたからである。その鏡のなかで私たちが知るのは、私たちがそうあるようにと作られてきたもの〔=男を媒介とした存在としての女性〕を、私たちが本当は尊敬もできないし愛せもしない、ということなのである。
自己嫌悪と、本当の自己の欠落という、このことの根拠は、男によって与えられた私たちのアイデンティティに根差している。だから私たちは、自己についての新しい感覚を創造しなければならない。私たちが「女性であること」の考え方にしがみついている限り、私たちははじまりの自己とのあいだに、つまりは「私」についての感覚とのあいだに、ようするに一人のまったき人格であるという感覚とのあいだに、いくらかの葛藤を覚えつづけることになるだろう。「女性的」であることと全人格的な存在であることは、和解しえないものである。このことに気づくこと、そしてそのことを受け入れることは、非常に難しい。新しい自己についての感覚を与えることができるのは、女性たちだけ、女性たちがお互いにそれを与えることによってだけである。そのようなアイデンティティは、私たち自身に準拠することで発展させるほかないものであり、男性たちとの関係で発展させるものではない。このような意識こそが革命的な力であり、その他のものすべては、その力から発出する。私たちにとって、この意識は根元から生え出ずるひとつの革命(an organic revolution)なのだ。この革命のために、私たちはお互いを助け、支え合うようでなければならない。私たちのコミットメントと愛とを、お互いに与えなければならない。この運動を維持することに必要な感情的な支えを、与えなければならない。私たちのエネルギーは、私たちの姉妹たちに向かって流れていく。それ以外にはない。私たちのエネルギーが私たちの抑圧者の方へと逆流していくことは、ない。 私たちを抑圧する者とのあいだの一対一の関係へと私たちを縛り付ける、この基本的な異性愛の構造(the basic heterosexual structure)と向き合うことのないまま女性解放運動が女性たちを自由にしようと試みている限り、夥しいエネルギーが無為に流れ出続けることになる。夥しいエネルギーが、一人の男性とのあいだのそれぞれの特別な関係を強化する努力へと、よりよいセックスをする方法を見つけ出すことへと、そしてその男を「新しい男」に変えようとする努力の中でその彼の顔を自分に振り向かせ、釘付けにする方法を見つけ出すことへと、流出し続けることになる。そのとき私たちは、この「新しい男」こそが私たちを「新しい女”new woman”」にしてくれるのだ、という妄想のうちにある。こうした妄想が、私たちのエネルギーとコミットメントを切り崩している。そのせいで私たちは、私たちを解放するはずの新しいひな形を構築することへと、自分をコミットさせることができなくなっているのである。
女性たちが女性たちへと関係すること。女性たちが互いについての新しい意識を創造し、またお互いの力でその意識を創造すること。そのことが第一義的に重要なことであり、それこそが女性解放運動の核心である。私たちは、私たち本来の自己を見つけ出さなければならない。再びそれに力を与えなければならない。それを真なるものとしなければならない。私たちは手を取り合って、それをしなければならない。私たちがこれを成し遂げるなかで、私たちは、自らの尊厳や強さについてのもがき苦しむ感覚、あの始まりの感覚をはっきりとお互いのうちに認めることになる。私たちを二つに切り裂く障壁は崩れはじめる。私たちは、私たちの姉妹たちとのあいだでこの連帯がますます強まっていくのを感じる。 私たちは、私たち自身こそが第一に大切であると理解する。私たちは、私たちの中心を私たち自身のうちに置く。疎外されているという感覚、閉ざされた窓の内側に立たされている感覚、私たちの内側にあるものを打ち明けることができないという感覚が、薄れていくのが分かる。 私たちは、本物であること(real-ness)を感じる。少なくとも私たちは、私たち自身が私たち自身と一致しているということが分かる。その本物の自己によって、そしてそうした意識によって、私たちは強制的な自己同一化を強いるようなあらゆる無理強いを終わらせるための革命を始める。人間らしい表現のうちで最大限の自律を獲得する、そのための革命を始めるのだ。(終わり)
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◆参照「Aセクシュアル・マニフェスト」(1972)