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古代中国から考える官僚及び政治

実際のところ、古代なんて扱いに困る言葉を使うべきではないのですが、感覚的な空気感を重視するために用いています。

昔、中国に荀子という学者がいました。
性悪説の提唱者として、覚えておられる方も多いことでしょう。
荀子の非相篇という章のなかに、"微を以て明を知る"という言葉があります。これについては、一を聞いて十を知る、ぐらいの意味合いでよいと思います。また荀子の弟子に、韓非という学者がいます。
彼は、私の主観ではありますが、圧倒的に師である荀子より話が上手く、
逸話を巧みに引用して自説を展開することが多いので、たいへん話がわかりやすいです。これから話すことをその証拠にというと、まあ荀子は立つ瀬がないわけですが、韓非は先の荀子の言葉"微を以て明を知る"という言葉を、以下のように説明しています。


昔者紂爲象箸而箕子怖,以爲象箸必不加於土鉶,必將犀玉之杯;象箸玉杯必不羮菽藿,必旄、象、豹胎;旄、象、豹胎必不衣短褐而食於茅屋之下,則錦衣九重,廣室高臺。吾畏其卒,故怖其始。居五年,紂爲肉圃,設炮烙,登糟丘,臨酒池,紂遂以亡。故箕子見象箸以知天下之禍,故曰:「見小曰明。」


上記の"紂"と"箕子"は人名です。封神演義という作品を読んだことがある方であれば、漢文が読めなくとも内容を看取できると思います。一つの贅沢な嗜好品を持つと、それに関する品もどんどん豪奢になっていって歯止めがきかなくなるので、そのようなものを持つべきではない、という風なことをいっているわけですが、古の賢人であった箕子という人物は、君主が使う贅沢品をひとつ見ただけで国の滅びを予見した――故に曰く「小を見るを明と曰う」であり、これはつまり"微を以て明を知る"と同義です。ところで、韓非はなぜ師の「以微知明」ではなく老子の「見小曰明」にしたのでしょう。

話がそれそうなので少し戻りますが、箕子は自身の出身国がまさに上記起因による革命によって崩壊したあと、その主導者である姫発(周の武王)に国を統治める方法を問われたそうで、その問答が「尚書」洪範篇に残っています。中国史に精通しておられる方であれば、尚書は加上的に考えると内容に疑いが多いことはご存じのことかと思いますが、今回は書の信憑性等は考慮していません。引用ばかりで申し訳ないですが、以下に記しておきます。


八政:一曰食,二曰貨,三曰祀,四曰司空,五曰司徒,六曰司寇,七曰賓,八曰師。


人間は食わねば生きていけませんので食料が第一で、何よりも重要だといっているわけですが、まあ当然といえば当然かもしれません。
貨幣経済は、第二に置かれています。
箕子の出身国である"商"という号からもわかるように、ただこれは発案者は箕子ではなかったかもしれませんが、物流を意識して貨幣(当時は貝殻)を物品交換の仲介材として使用できるようにし、また物価を安定させるために国庫(食料庫)を作っていかに"貨"が有用であるかを説き、そして箕子自身の国が強烈な宗教国家であったことを考えると、崩壊しているとはいえもはやその宗教的盲目さから抜け出ているという点で、やはり卓抜といわざるをえない着眼点の持ち主だといえる気がします。
三はその祭祀をおき、司空は建築、司徒とは、教育のことをさします。
後に管仲が「衣食足りて礼節を知る」という言葉を残すように、教導には最低限の豊かさの下地がいるという自明、祭祀とは精神的支柱を形成するためのものであるとはいえ、順次が三にあるというのは、箕子が宗教国家出身であるという理由だけで片付けるのは、やや尚早な気もしますが、また話がそれました。さて、つぎの司寇は治安維持、賓は他国との外交、師は戦争です。国内が豊かでないのに他国との交流を進めたり、剰え侵略戦争などは以ての外、といっているわけです。箕子はまさしく異邦人である周によって国を覆されたので思うことがあったのかもしれませんが、外交がかなり下に置かれていることは、現代からみても考えさせられます。

いきなり話が古代から飛んでしまいますが、中国の有名な官吏登用試験に、科挙というものがあります。興りは五八七年とされています。
どことなく、覚えやすい数字の並びです。
科挙が成立しかけた当時の中国は、古来より長く続いてきたとされる地方の有力者主導で人材を中央政府へ推挙する郷挙里選という制度から、その仕組の基軸を政府が全て管理する制度へ移行しつつあった時期で、確固たる中央集権が出来つつあった時代ともいえます。

広大な中国を最初に統一したのは秦朝ですが、群雄割拠のなかでも秦だけは積極的に(――相対的に)在野の士を招聘し、能力があれば抜擢しました。
在野の士といっても秦ははやくから農業を奨励し、分家・開墾をすすめて国庫を豊かにさせる政策をとり、また農業に熱心であればあるほど減税するという方策をとったために、特に旨味がない学業に対して向かうものが国内にほとんどうまれようがなかったので、現代の価値観だと少し違和感を覚えるかもしれませんが、学者といえば他国の出身者であって、抜擢される者もまた他国出身という有り様でした。ただ全てが一律にそうとはいえないにせよ、他国の特権階級者は、皆々公族であり近親者です。秦だけが、その階級へ他国出身者を据える傾向がありました。

話が少し脇道にそれますが、愛国心、という近代的で速成の粘土細工のような言葉が、当時存在したかどうかはわかりません。士は己を知る者のために死す、という言葉の典拠は史記ですが、仕官を望んだ多くの遊説家たちも、自身の学説を認めて実施してくれるという、ただこの一点のみを渇望して、ほぼ死と隣り合わせの危険な旅を続けていたわけです。そうして得た貴顕の地位につく多くの執政たちに、生国に対しての郷愁からくるような情状酌量があったどうか、やや心許ないと私は思います。ただしかし、ここでいうところの他国も、今となっては中国という大きな括りのうちのひとつであることは、留意すべきです。

これは完全に余談ですが、先の富国強兵策を一種の愚民政策と呼ぶ人もいるそうで、まあともかくそのために戦国期を通してみても著名な学者は秦から出ていません。当然、前述した科挙のような機能的な官吏登用試験というものはないわけで、血族主義はさすがに薄れたにせよ、いまだ地方分権的な貴族・門閥主義が主体であったわけですから、商鞅のしいた農戦策だけが原因であるとは、私はいえないと思いますが、これはただの感想です。

さて、楚漢戦争を経て、その秦がさっそく滅んで前漢がたつと、その最初期に政権を担当した高祖・劉邦に付き従った元勲たちは、張良を除けば全て秦制度でいうところの地元採用の末端役人やなんならごろつきばかりで、ただ自らもその連類であった劉邦はその有用性を戦争を通して肌身でよく理解していたために、身分にこだわらない人材方針を示すことができました。
紀元前196年に出されたといわれる"求賢令"が、科挙の萌芽といえるかもしれません。原文が見つかりませんでしたので、恐らく参考にされているであろう「礼記」の王制篇をかわりに引用します。


司徒脩六禮以節民性,明七教以興民德,齊八政以防淫,一道德以同俗,養耆老以致孝,恤孤獨以逮不足,上賢以崇德,簡不肖以絀惡。命鄉,簡不帥教者以告。耆老皆朝于庠,元日,習射上功,習鄉上齒,大司徒帥國之俊士與執事焉。不變,命國之右鄉,簡不帥教者移之左,命國之左鄉,簡不帥教者移之右,如初禮。不變,移之郊,如初禮。不變,移之遂,如初禮。不變,屏之遠方,終身不齒。命鄉,論秀士,升之司徒,曰選士。司徒論選士之秀者而升之學,曰俊士。升於司徒者,不征於鄉;升於學者,不征於司徒,曰造士。樂正崇四術,立四教,順先王《詩》、《書》、《禮》、《樂》以造士。春秋教以《禮》、《樂》,冬夏教以《詩》、《書》。王大子,王子,群后之大子,〔公〕卿、大夫、元士之適子,國之俊選,皆造焉。凡入學以齒。將出學,小胥、大胥、小樂正簡不帥教者以告于大樂正。大樂正以告于王。王命三公、九卿、大夫、元士皆入學。不變,王親視學。不變,王三日不舉,屏之遠方。西方曰棘,東方曰寄,終身不齒。大樂正論造士之秀者以告于王,而升諸司馬,曰進士。司馬辨論官材,論進士之賢者以告於王,而定其論。論定然後官之,任官然後爵之,位定然後祿之。大夫廢其事,終身不仕,死以士禮葬之。有發,則命大司徒教士以車甲。凡執技論力,適四方,臝股肱,決射御。凡執技以事上者:祝、史、射、御、醫、卜及百工。凡執技以事上者:不貳事,不移官,出鄉不與士齒。仕於家者,出鄉不與士齒。


原文に八政と書かれていることからもわかるように、礼記も尚書もどちらも儒教の経典なので、共通するところがおおいにあります。だからこそ、真偽不明ということになるのですが、まあそれも仕方のないことではあります。もうひとつ、學という字が頻出しています。これは現在で言うところの学校ではありますが、現代社会の一般に開放されているようなものでは全くなくて、貴族階級の子弟を教えるためだけのものです。孔子はその著作のなかで「詩を学ばずんば、以て言う無し。礼を学ばんずば、以て立つ無し」と言いましたが要するに、そういう貴族たる作法を教えていたのだろうと考えられます。それはともかく、原文を要約すると、有能な人材を国中から推挙してくれ!頼むぞ!ぐらいのニュアンスです。
但し、現段階ではそう言っているだけで、有能の定義も、基準も明確ではありません。振るいにかける明確な尺度すら、なかったかもしれません。
漢代はすでに郡県制で、大きな区分での長は中央から任命していましたが、
末端部分までの採用に、国府は関与していませんでした。しかしながら、
せめて首脳部分――高等官はあまねく中央政府主導のもと、任命したい。
そうしなければ中央集権たり得ず、自分の意のままに官僚をこき使えず国をおさめられないと考えたのが、隋の文帝です。
科挙は、これよりはじまります。

もう少し時代が進むと、王安石という学者がでてきます。
彼は科挙に及第した進士で、明らかな秀才です。
前漢の武帝が国策に儒教を取り入れてから、以後数百年間儒教はその位にあり続け、科挙が始まっても尚その位置づけはかわっていません。
王安石は、四書五経という「素晴らしい人間とはなにか」だけを突き詰めて考えて体現する哲学といっても過言ではない学問だけでは、官僚は務まらないのではないかと考え始めました。なぜなら、高級官僚たちは自分たちの下で働く実務官たちのやっている単純数学或いは自然科学的な要素が、まるで理解できなかったからです。ただ、それでも王安石の改革だけでは不十分であり、これがもし発展していけば現在の中国ももう少し変わったかもしれません。良いか悪いか、という話ではないですが。

引用文のせいでやたらと長い記事になってしまったので、そろそろ無理やりにでも着地させて記事を終わらせようと思っているのですが、荀子の性悪説というのは、人は努力しなければ自然と悪性に陥るということを教えている学説です。つまり、努力は大前提として、あとはその方向性次第であるということで、中国は長らく、そして恐らく今も尚、儒教が正道です。儒教とはなにかという話までしてしまうと、この記事が仕上がるのは夏になるのでもう書きませんが、とりもなおさず、要は八政なのかもしれません。
食えなければ――食わせられなければ、国は滅ぶというのは、歴史が証明してくれています。少なくとも、国民に責任を転嫁するような政治家は、私自身は聞いたことがありません。

参考:

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/153965/1/jor043_3_433.pdf

Kyoto University Research Information Repository

https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/153579/1/jor034_2_193.pdf

Kyoto University Research Information Repository

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千秋@AseeK
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