「隠しても明かしても救いはない」〜ASD(自閉スペクトラム症)を生きる現実〜
ASD(自閉スペクトラム症)を持つ人々にとって、生きづらさは日常の中で常に存在しています。そしてその生きづらさは、多くの場合、周囲からの理解不足や偏見に起因します。ある言葉に象徴されるように、「障害を隠せば『甘え』と言われ、障害を明かせば堂々と排除される」――この矛盾した現実が、ASDを持つ人々の人生に重くのしかかっています。
多くのASDの人々は、社会で「普通」に振る舞うことを求められます。つまり、「過剰適応」といわれるASDという特性を隠し、あたかも問題がないかのように見せかけることです。隠すことができれば、周囲から奇異な目で見られることは避けられるかもしれませんが、それは自分の一部を抑え込み、否定することを意味します。
特に職場や学校では、適応するために自分を無理に「普通」に見せることが、しばしば期待されます。しかし、その努力は内面に大きなストレスを引き起こし、次第に心身を蝕んでいきます。それでも、「頑張っている姿」を見せなければ、「甘えだ」と非難されてしまう現実があります。障害を隠し、表面的には何も問題がないように振る舞うことで、ますます周囲からの支援や理解は得られにくくなり、孤立感が深まっていくのです。
一方で、自分がASDであることを明かすことには、別の恐怖が伴います。社会的に「障害」と認識されると、残念ながらそれが差別や排除の理由になることがあります。オープンにすれば、理解や支援が得られるかもしれないという期待もある一方、堂々と「役に立たない」「配慮が必要な存在」と見なされるリスクが高まるという現実もあります。
たとえば、職場では「障害があるから、責任ある仕事を任せられない」という理由で重要な役割から外されたり、周囲の同僚から特別視されてしまったりすることがあります。学校では、友人や教師から「特別な扱いを受けている」という誤解を受け、さらに孤立を深めることがあるかもしれません。障害を明かしても、周囲の理解が不十分である限り、その情報は利点ではなく、むしろ弱点として利用されることがあります。
この「隠しても明かしても救いがない」という感覚は、ASDを持つ人々が置かれている現実の深刻さを物語っています。どちらを選んでも、結果として苦しむのは本人です。隠すことで自分を抑え込み、明かすことで排除される――どちらを選んでも生きづらさが軽減されることはなく、むしろ自分の存在そのものが否定されるような気持ちにさえなるでしょう。
この問題は、個人の努力だけで解決できるものではありません。障害を持つ人々が安心して自分の特性を明かし、適切なサポートを受けられる環境を作るためには、社会全体の意識改革が必要です。ASDという特性は、決して「甘え」や「弱点」ではなく、特性の一部であり、それを理解し、尊重することが重要です。
また、障害を持つ人々がその特性を明かすことができる環境を整え、それに基づいたサポートが受けられるような仕組みが整うことで、誰もが自分らしく生きることができる社会に近づけるはずです。安易な「甘え」という言葉で片付けるのではなく、それぞれの人が抱える課題や苦しみを理解し、適切に対応できるような文化を作り上げることが、これからの社会に求められる重要な一歩です。
ASDを持つ人々が、自分自身を否定することなく、安心して生きられる世界を目指すために、社会全体でできることがあるはずです。偏見や無理解をなくし、障害を持つ人々が自分を隠すことなく、堂々と生きることができる社会を築くために、正しい理解と適切な行動を社会全体で共有することが必要ではないでしょうか。