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「理解のある彼氏」を求める声と、その先に見えた現実

  最近、とある投稿を目にしました。そこには、「これまでの地獄のような苦しみを救ってくれる理解のある彼氏が現れないと辻褄が合わない」という切実な願いが綴られていました。この投稿に、かつて私も同じようなことを考えていたことを思い出します。

 ただ、私は中年の独身子供部屋おじさんという立場で、その願いが叶わなかった一例です。「理解のある彼氏」を求める声に共感しつつも、その願いが簡単に叶うものではない現実を痛感しています。

 「理解のある彼氏」や「理解のある彼女」。それは誰もが望む理想の存在かもしれません。しかし、現実の恋愛や婚活の場では、その「理解してほしい」という期待が、時に相手にとっての負担やプレッシャーになることもあります。

 私自身も、過去に「誰かが自分の苦しみや孤独を理解して救ってくれるはずだ」と信じ、何度か婚活や出会いの場に足を運びました。しかし、現実は厳しく、何度も拒絶されました。そして、拒絶されるたびに、自分の存在そのものが否定されたように感じ、無力感を感じました。

 でも、ようやく時が経ち気づきました。他人に「理解されること」を最優先に求めている限り、自分自身の人生が他人の手に委ねられたままだということに。

 この投稿を書いた方の「これまでの地獄のような苦しみを救ってほしい」という願いは、痛いほどよくわかる気がします。私自身も、中年になるまでに仕事での挫折や、職場関係から疎外されることがありました。それでもなお、「誰かが現れて救ってくれるはず」と、どこかで期待した浅ましさがありました。

 しかし、中年を迎えた今、それが叶わないまま時間だけが過ぎてしまいました。夢を追い求めた結果、自身には結婚に至らなかったという現実だけが残っています。

 それでも、今なら思います。「救ってくれる誰か」を待つのではなく、自分自身がどう生きるかを考えなければ、ただ年齢だけを重ねてしまうのだと。

 投稿者の方が望む「理解のある彼氏」。その願いは否定しません。それが叶う可能性もおそらくあるでしょう。ただ、その期待が叶わなかった時、自分を支えるものは何なのか。それを考える必要があるのではないでしょうか。

 結婚やパートナーシップは確かに人生を豊かにしてくれるものだと思います。しかし、それがすべてではないとも考えます。特に、誰かに「救ってほしい」と願う気持ちを手放せた時、自分自身を救える力が芽生えるのではないでしょうか。

 私の人生を振り返ると、「誰かが救ってくれる」という幻想を抱き続けた結果、現実とのギャップに苦しむ時間が長かったように思います。それでも今は、その幻想を手放したことで、少しずつ自分なりの生き方を見つけられてきた気がします。

 投稿者の方の希望が叶うことを願う一方で、「誰かに理解される」以上に「自分を理解し、受け入れる」ことの重要性も伝えたいです。それが、中年の独身子供部屋おじさんからの、余計なお世話とも言えるメッセージです。
 


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