竜の爪あと その4

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 竜との対峙はそもそもは近衛騎士自身が望んだことのはずだったが、彼は何が納得行かぬのか終始ずっと苛立たしげだった。
 ともあれ、せっかく命からがら竜の元から逃げ出したはずなのに、好んでそこに戻りたい者も本来はいなかっただろう。城塞へと進路を転じた事について兵士たちの間にも動揺は見て取れたが、そうするよりほかにないというのは皆が無言のままに承知していることだった。
 そういった不平や不安を皆が一様にぐっと飲み込んだまま、探索隊の一行は、結局来た道を引き返し再度城塞へと向かっていく。もはやそこに戻っていく以外に、事態を打開する手段が何もない事は一同皆痛いほどわかっていたのだ。
 退路はあれだけの堂々巡りだったにも関わらず、城塞をめざして歩いてくその足は一度も道に迷う事はなかった。
 それでも、実際に建屋の上屋に静かに身を丸めている竜の姿を目の当たりにすれば、人々はおそれを抱かずにはおれなかった。単純にその巨大な体躯の存在感にも圧倒されたし、その禍々しい異相にも、心安らかではいられなかった。そんなものに、敢えて近づいていかねばならぬという事実が誰しもの心を戦慄させた。
 その頃にはルーファスも多少は落ち着きを取り戻していたのか、険しい表情こそ崩さぬままに配下の近衛兵を呼び寄せては、小声で何かしら打ち合わせる言葉を交わしているようだった。近衛が何を企んでいるのか気になりはしたが、敢えて詮索などして余計な口論を招いてもやぶ蛇である、とベオナードは敢えて何も口を差し挟まなかった。
 上に竜がいると分かっていて、城塞の建屋に入っていくのは勇気のいる事だった。勇気というよりもはや無謀な蛮勇に近かったかもしれない。誰が先に行くかでベオナードとルーファスがお互いの顔をにらみつけるようにして無言の主張を交わし合おうと試みたが、それを横目にアドニスが真っ先に城門をくぐっていく。
 竜の寝床に至る手前、物見塔の上屋の入り口のところに、一行を待ちわびたオルガノフの姿が見えた。
「やあアドニス。またここに来ると思っていた」
「そうせざるを得なかったのはあなたが一番分かっている事なのではなくて? この街から出られないように結界を張り巡らせたのはあなたの差し金なんでしょう、オルガノフ」
「さて」
 見え透いた態度でしらを切って、魔法使いは一人ほくそ笑んだ。
「私はともあれ、君たちが去るのを竜が望んではいないという事なのではないかな」
「あなたの意図するところではないのなら、私たちをここから無事に帰してくれるよう、あなたが手を貸してくれるというわけにはいかないの?」
「竜の意に沿わぬ事が許される身では、もはやない」
 オルガノフが一行を招き入れる。彼自身は何に警戒するでもなく、塔の上階へと階段を上っていく。アドニスがそのあとに続き、ベオナードとルーファスが後に続く。
 その道すがら、オルガノフは語る。
「竜は孤独だった。一匹だけで荒野に放り出されるようにこの世に生を受け、だれも持てる力をどのように使うべきかを示してはくれず、ただ下等で野蛮なけだものと恐れられるばかりだった。生きとし生けるものがひしめくこの世界から疎外されているという思いが、怒りとなって渦巻いているのだ」
「……それは、本当に竜の思いなの?」
「分からない。私がそう感じているだけで、あるいはその怒りは私の中にあるものなのかも知れない」
 アドニスが固唾を飲む。
「あなたが竜を見つけたのか。それとも、竜があなたを見つけたのか」
「分からないな」
「竜は、本当に竜と言える存在なのかしら。あなた自身の想念が、何かしら形となって現れたものこそがこの竜である、とは考えられないかしら」
「否定するには惜しい意見だが、竜が竜として実在しているのは事実だ」
 オルガノフはそう言って笑った。
「その意見は、アドニス。あるいは君自身が、この竜がそういう存在であってほしいと望んでいるのだろうね。もしただ想念の産物であるなら、例えば私が死ぬことで、この竜を止めることが出来るのでは……たぶん君は今、そういう風に考えているはずだ」
「別に私は、そんなこと……」
 考えてもいない、と言おうとして、ふと振り返ると、近衛騎士ルーファスがいつの間にか抜身の剣を手に下げていた。アドニスは短く息を呑んで、どうしたらよいか分からずにベオナードの方を振り仰いだが、彼もまた渋い表情のまま、腰に下げた剣をゆっくりと鞘から抜き放った。賢い判断とは言えなかったかも知れないが、血気にはやる近衛騎士の無言の主張がこの場は正しいのだと、ベオナードも認めざるを得なかったということだろうか。
 近衛騎士ルーファスが苦虫をかみつぶしたような表情で、オルガノフに迫る。
「貴君に恨みがあるわけでは無いが、元より黒竜の討伐こそ我らが最終的な使命でもある。貴君が死ねば竜を止められる……その言い分、我らが試させてもらうぞ!」
 ルーファスが剣を振りあげ、魔導士に躍りかかる。当の魔導士は踵を返して逃げるでもなく、身構えることすらしない。丸腰の相手に刃を向けるのは正騎士ベオナードとしてはためらいを覚えないわけでは無かったが……そうは言っても、竜の事を抜きにしても相手は魔導士であるし、何かしらの手妻でルーファスが反撃を受けた場合に、傍らで抜刀しているベオナードがただ傍観していました、では済まされない状況に陥ることも考えられるので、やむなく近衛騎士の一歩あとに続く形で、魔導士との間合いを詰める。
 オルガノフは、笑った。
 彼が普通に刃におびえる素振りを見せていれば、少なくともベオナードだけでも寸でのところで思いとどまっていたかも知れない。だが悠々たるその態度が、何かしら含みのあるものに思えて仕方がなかった。ルーファスが振り下ろした切っ先が魔導士の肩を切り裂いたのに続いて、ベオナードの一突きが、オルガノフの脇腹を貫通していた。
 魔法使いは苦悶のうめき一つ漏らさなかった。
 代わりに、背後で身を休めていたはずの竜が、突如として悲痛な叫び声を上げ始めた。
 まるで竜自身が何か深い傷でも負ったかのように、恐ろしげな咆哮をあげ、翼をばっと広げたかと思うと、太い脚で石畳の床を強く踏みしめる。動き出した竜を、その場の一同は皆恐怖におののきながら見上げる。
 だがアドニスだけは違っていた。刀傷を真正面から受け止め血を流すオルガノフが、彼女をしかと見据えていた。血塗れた魔法使いと相対したまま、彼女は目をそらすことが出来ずにいたのだ。
 二人の騎士に引き下がらなかったオルガノフは、今度は一歩二歩と血を流しながらアドニスににじり寄る。
 アドニスは固唾を呑んだ。そこまでの旅程で一度も抜いたことのない、護身用の短刀をいつの間にか抜身のまま握りしめていた。
「アドニスよ、忘れるな。竜の怒りは人に呪いをもたらすぞ」
「……!」
 アドニスは我知らず、恐慌のあまり手にした短刀の切っ先をオルガノフの鼻先に突き付けた。それでも視線をそらさない魔法使いを、恐慌のあまり思い切り突き飛ばしてしまった。
 さすがにオルガノフは足をもつれさせ、その場に膝を折り崩れ落ちる。それに呼応するかのように、荒れ狂う竜の叫び声が響き渡った。
 竜が強く踏みしめた後ろ足が、彼らの立つ建屋の床を踏み抜き、それを支えていた石の柱を砕いた音がした。竜はそのまま翼を大きく一度、二度と羽ばたかせると、上屋の尖塔から軽く跳躍し、建屋の屋上へと飛び降りたのが分かった。
「建屋が崩れるぞ! 皆逃げろ!」
 叫んだのはベオナードだった。
 正騎士は呆気に取られて動けない兵士たちに、その場から引き下がるように促す。
 だが近衛は様子が異なっていた。その場から逃げ出したくてうずうずしている近衛兵に、ルーファスが何ごとか指示を下しているのが分かった。兵士の一人が背負った背嚢からひと房のロープの束を取り出し、それを肩にかけると、崩れかけた尖塔の最上階の足場の先端部分まで駆けていく。
 ルーファスの合図に従い、その近衛兵は階下にいた別の近衛兵に、ロープの束を投げ渡す。
 見れば、四人の近衛兵が二手に分かれて、互いに投げ渡したロープを思い思いに手繰り寄せていた。そのまま竜は、ぴんとまっすぐになったロープに絡め取られてしまう。
 そのロープの突端を握る上階の近衛兵が、竜が身をよじるのにつられて足場から落ちそうになる。
 ベオナードは思わず駆け寄り、落ちそうになる近衛兵の身体を支えるのだった。近衛のたくらみを手伝う気は更々なかったが、ルーファスの浅はかな計画に兵卒たちがうかつに危機にさらされるのを見過ごすわけにもいかない。
「縄を放せ! 引きずられるぞ!」
「し、しかし……!」
 竜を目の当たりにした恐怖、ロープを実際に引っ張る膂力の強さに対する戸惑い、任務を果たさねばという義務感と相まって、もはやその近衛兵はどう対処してよいか自分でも分かっていなかったようだった。
「えいやっ」
 ベオナードは兵士に退去を促すため、その手から無理やりにロープを奪う。だがその瞬間、ものすごい力でロープが引っ張られる。そこで手を放してしまえば彼は石畳の上に墜落ししたたかに身を打ち据えていただろう。その覚悟を決めて思い切りよく手を放すべきだったかも知れないが、一瞬の決断を迷ってしまったがために、彼はそのままロープと一緒に竜に手繰り寄せられる格好になった。
「ええい、ままよ……!」
 そのまま、竜の背に思い切ってしがみつくのだった。
 竜はベオナードを振りほどこうと身をよじる。ベオナードは無我夢中で鱗の隙間に手や爪先をかけたままぐっと踏みとどまり、剣を抜いて、そんな鱗の隙間に切っ先を突き立てるのだった。
 竜の口から、苦悶の咆哮があがる。
 そのまま竜が大きく身をよじると、ついにベオナードは踏ん張り切れなくなって身を滑らせる。首に突き立てた剣を握った手を放すまいとするが、柄には彼の全体重がかかる格好となり、重みに耐えきれずに剣は根元から折れてしまった。
 鎧姿のベオナードが、大の字のまま真っ逆さまに石畳の上に叩きつけられるのを、逃げ惑う他の兵士たちは呆気に取られてみているしかなかった。結果的に身代わりとなったベオナードに逃げるように促された例の近衛兵が、正騎士の身を案じ慌てて駆け寄る。何人かの兵士たちが、ベオナードを助け起こそうと駆け寄っていくのを、アドニスは茫然と見守ることしかできなかった。
 彼女がふと見上げた視線の先に、ベオナードが竜の首に突き立てた切っ先が見えた。
 自分でも意識してはいなかったかも知れない。彼女は我知らず、呪文を唱え始めていた。
 ベオナードは背中をしたたかに打ち据えたが命に別状はないようだった。若い兵士らに助け起こされ、いささか頼りない足取りで竜から離れようとする。他の兵士たちも、そんな正騎士の号令にあわせてその場から退避しようという中、アドニスだけが竜をしかと見据えたまま一心不乱に呪文を唱え続けていたのだ。
「何をしているんだ! 踏みつぶされてしまうぞ!」
 ベオナードが無理やりに、彼女の印を組んだ手を引いてその場から引きはがそうとした。次の瞬間、上空に雷鳴がとどろき、大粒の雨が兵士たちの頭上に降り注ぎ始める。
 天候が崩れる気配など何もなかったので、突然の荒天に兵士たちはうろたえた。上空で何度か稲光が見えたかと思うと、アドニスの詠唱の声が次第に声高に、やがては半ば叫ぶようにまくし立てたかと思うと、ついには一条の雷光が、轟音とともに彼らのいる城塞に落ちたのだった。
「――!」
 人々は息を呑んだ。
 その雷撃が直撃したのは、ベオナードが竜の首に突き立てたあの折れた剣の切っ先であった。
 竜の首が内側から赤く光ったかと思うと、一瞬のうちに竜の首がまさに大きく張り裂けるのが見て取れた。
 竜は断末魔の叫びをあげながら、やみくもに翼を広げ、その場から飛び立とうとする。アドニスは大粒の雨に打たれたまま、さらに詠唱を続けると、もう一撃の雷鳴がとどろき、竜の傷口になお刺さったままの剣の切っ先をもう一度強く穿つのだった。
 ひとたびは空に浮かび上がった竜の巨躯が、最後の一撃を受けて空中でぐらりと傾く。
「落ちるぞ!」
 兵士たちがわらわらと逃げ惑う。竜の巨体は、首と胴が離れ離れになって、そのまま城塞の脇の少し開けた石畳の広場に別々に墜落した。
 人々は呆気にとられながら、物言わぬ姿になった竜を遠巻きに見守っていた。
 アドニスが詠唱をやめたためか、それともただのにわか雨だったのか、雨はやんで、湿った風がずぶぬれになった人々の間を通り過ぎていく。
 我に返ったベオナードが、部下たちを見まわす。
「皆、無事か?」
 兵士たちが思い思いに声を上げる。ルーファスも近衛兵も無事だったが、ベオナードの部下のうち三名ほどが、あえなくも竜に踏みつけられ、身体があらぬ方向にねじれたまま絶命してしまっていた。それとは別に一人、立ち上がれずに苦悶のうめきを上げる兵士がいた。
「どうした?」
「彼も竜に踏みつけられてしまったようです。足が折れています」
「誰だ? ……マーカスか。おい、しっかりしろ」
 足が折れているのは分かったが、身にまとった鎧がへし曲がっているのを見ると足ばかりか胴の辺りも圧迫された形跡があった。足の折れた部位を固定してそっと運ぶように指示し、一行は隊列を整え、その場をあとにすることにした。
「竜はあのままでよいのか?」
「今は負傷者を助けるのが先だ」
 近衛騎士の問いを聞き流すように、ベオナードは部下たちに指示を下す。重傷なのは竜に踏みつけられたマーカスのみだったが、擦り傷を負ったり、中には腕の骨を折ってしまったものもいて、早急に手当てが必要だった。
 アドニスが魔導で呼んだ雨雲はすでになかった。治療のため怪我人を村に退却させるようにベオナードが命じる。落命した者たちの亡骸も収容すると、一同はてきぱきと隊列をまとめ、そのまままっすぐに城門を目指していくのだった。

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