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私の人生。

ノートを書き始めて、1ヵ月半が経ちました。

今更ながら、自己紹介を兼ねて人生紹介したいと思います。

プロフィール

【年齢】 26歳(1994年生まれ)
【性別】 女
【兄弟】 長女(2個下の妹がいます)
【出身】 関西(ど田舎)
【住居】 関西(都会)
【職種】 営業5年目
【住まい】 一人暮らし


ノートを始めたきっかけ

2月から適応障害を診断され休職していました。休職期間中は、お金もないしコロナだし、時間だけがある状態だったため、時間つぶしになるかと思い始めました。それに加えて、自分の気持ちの整理や思いのはけ口として活用できればいいなと考えていました。


幼少期~中学時代

よく喋る子どもだったそうです。今でも変わっていません。笑

嫁姑の仲が悪く、よく喧嘩しているのを目にしていました。一度、親が離婚しかけましたが、同居をやめ引っ越すことで解決しました。毎日家庭で繰り広げられる言い合いの影響で、自分は愛されていないんじゃないかというジレンマに長年苦しむことになります。

小学校、中学校ではいじめ側もいじめられる側両方の経験があります。自分がいじめられるのが嫌で、ボスの2番手になることで身を守っていました。

所属していたバスケ部でも、顧問とうまく関係を築くことができず、担任も授業中にキレて泣き出すような女教師だったため、「先生」という職業が嫌いになりました。

少女漫画が好きで、ちゃお、りぼんをよく読んでしました。中学生の夢は漫画家でした。恥ずかしくて誰にも言えませんでしたが、オリジナルストーリーを書いたり、絵を描いたりしていました。

小説は、赤川次郎や有川浩が好きでした。

恋愛に関しては中学1年~3年まで片想いしていた男の子がいました。恋愛相談をした女友達に、彼を奪われて目の前でいちゃつかれていました。

青春でした。



高校時代

地域では比較的、勉強を頑張る公立校に行きました。

ここでもバスケ部に入部。性格がきつーーいキャプテンで、大学進学とともに縁を切りました。結局、ここでは彼氏も友達もできませんでした。高校3年間、話す友達がいなかったわけではないけれど、今も連絡を取り合うような人はいません。

小説は湊かなえが好きでした。

母親と対立したピークの時期です。おばあちゃんの家に1週間家出したこともありました。今のようにSNSは発達してなかったから、相談できる相手もおらず、こんなに苦しいのは私だけだと思い込んでいました。私が死んで、母親を一生苦しめたい。そんなことを考える日々でした。

大学進学に伴い、家を出るのが楽しみでなりませんでした。社会人なってからおばあちゃんに、「高校生の時は性格が悪くてどうなることかと思った」と言われました。独り立ちして本当によかったと思います。


大学時代

国語が好きだったので、文学部に進学しました。

私がデビューしたのはこの時期です。入学式に異様に話しかけられ、学部の人から可愛いと言われ、

あれ、私ってかわいい????

自己肯定感が初めて上がった瞬間かもしれません。

お酒を覚えて、サークルにはいり、彼氏を作り、友達にも恵まれました。大学時代は胸を張って充実していたと言えます。勉強より、サークル活動が9割だったとおもいます。四六時中サークルのメンバーと一緒にいました。一生の友達がここで出来ました。

ここで付き合った彼氏は初めて付き合った人で、20~23歳の3年間付き合いました。初めてもここで卒業です。

彼氏のことを単なる「好き」から、「愛情」に変わったのは、私の家庭環境や自らの存在意義を問うような話をした時に、「俺の好きな人のことを悪く言わないで」と言われたからです。その時は涙が止まりませんでした。こんな人は二度と現れないだろうと心の底から思いました。

そんな彼だったけど、誕生日やクリスマスなどのイベントごとで彼氏らしいことをしない人でした。よく泣きながら友達に相談していました。私も私で酒癖が悪く、よく怒られていましたが、受け入れてくれていたおかげで長く付き合えたのだと思います。


バイトは100円ショップで2年ほど働いていました。ここにいた先輩がアラサー独身女子で、また性格のきつーーーーーい人でした。安月給なのに、よく続けたと思います。

昔からストレスのある環境に我慢してしまう性格なのかもしれません。自ら動くより、流れに任せて新たな環境にいく癖があるようです。


社会人1~3年目(23~25歳)

新卒の配属から、関東に飛ばされました。

関西から出てみたいという配属希望を出していて、好奇心からでした。半年経ったくらいで、飽き始めて友達のいない環境や慣れない言葉に嫌気がさしていました。

仕事は、雑貨や家具などの有形商材を得意先に売るBtoBの営業職です。指導の先輩がイケメンで優しくて憧れでした。でも彼女がいて、すぐ結婚しちゃいました。

彼氏とは遠距離していましたが、留年してまだ学生だったこと、就職はせずに夢を追いかけること、私に秘密で夜の仕事をしていたことなどすれ違いも多くなりました。別れようか迷っている時期にマッチングアプリを始めました。大企業に勤めていて、彼にはない魅力を持った男性と何回かご飯に行っている間に、彼にへの恋愛感情がなくなっていき、別れました。

その後、新たに出会った年上の商社マンを好きになります。が、上手くいかず、その人を忘れるために夜遊びを始めました。貞操観念だけはしっかりしていたので、終電で帰っていました。

クラブ、相席、ラウンジ、スイッチバー、HUB、合コン、街コン、ナンパ…

学生時代にできなかった遊びをここで一気に経験しました。好きな人を忘れるための遊びは虚しさしか残らないことを知りました。男性を無下に扱うことで、私の立場は上なんだと思い込みたかったのかもしれません。性格が悪い不細工な女だったことでしょう。その後26歳になるまで、3年間彼氏は出来ませんでした。

ワンナイトは未だに未経験です。会社の20歳上の上司に、結婚を前提とした告白を受けましたが、断りました。とても良くしてくれた上司だけに、気持ち悪くなってしまいました。


ミニマリストにめざめ、モノを捨てる快感を覚えました。冷蔵庫とベッドを捨てるか悩んでいた時に洗脳から冷めました。

旅行にもはまり一人旅をよくしました。青春18きっぷ旅で東北に行ったり、上高地にトレッキングしに行ったり、アジアをバッグパッカーしたり。特にゲストハウスにハマりました。B級スポット巡りも好きです。全国の変なスポットには詳しいです。

高校時代から友達がいないことがコンプレックスでしたが、この頃になると一人行動が当たり前になりコンプレックスを克服した瞬間でもあります。

家族との仲も良好になりました。母親のヒステリック、わがままな性格を受け入れられるようになりました。妹とは特に親友のような関係性です。何故そうなったのかは分かりませんが、私の精神年齢も高くなったのだと思います。

この時期はものすごく楽しくて、仕事も順調でした。余裕も出てきて社会人ならではの遊びを存分に満喫していました。



社会人4年目(26歳)

会社に無理を言って関西の支店に異動しました。関西弁と関西の味が忘れられなかったのと、友達や家族との距離が遠すぎることが理由でした。

関西では可愛い人が街中に溢れ返っていて、自分が垢抜けていないことに気が付きました。いい美容院に行き、まつエクに挑戦し、服装も流行りと男性受けを意識しました。

初めてアムウェイ(ねずみ講)に出会ったのは関西で行った街コンでした。知らない人疑うことを覚えました。


コロナが流行しました。

人に会えない、旅行に行けない、飲み会もない、今までの趣味が全て失われました。在宅勤務と食べてばかりの生活だったので、易々と太りました。

7月にはまたマッチングアプリを始めて、4人目に会った人と付き合うことになりました。彼氏のいない3年間の空白を埋めたいだけで、全く好きではありませんでした。すごく淡泊な人で、性格も夜も合わず2か月で別れました。その後すぐに付き合った大学生はもっとひどく、同じく2か月で別れました。

芸能人の自殺のニュースも、重く受け止めました。高校生時代に病んでいたことがフラッシュバックし、故人の気持ちを汲み取ったような気持ちになりました。同時期に、仕事で悩むことが多くなり、食生活も荒れ、睡眠もとれず、悪循環を繰り返していました。

苦しさに耐えられなくなり、生まれて初めて精神科に行き、休職しました。

復帰して2021年5月に至ります。



これから

6月に27歳になります。

インターネットで年齢を調べると、27歳から始めるべきことや結婚のことや人生を急かすような記事が沢山出てきます。このような記事は、23歳くらいから1歳毎にあるのを知っています。

27歳だから仕事はここまで出来ないといけない、結婚を考えないといけない、などの決まり事はないと思います。今この一瞬を楽しく生きたい。私はそう考えています。

休職の経験は私の人生を大きく変えたと思います。これからの私は、焦らず、自分のペースでストレスなく生きていくことが目標です。


最後に

こうやって自分の人生を振り返ってみても、たった3000文字にしかなりませんでした。

アラサーだから…もう若くないから…とネガティブな意見を耳にすることが多い年齢になりました。でも、まだ、3000字分の命かと思うと笑えてきちゃう。

30歳には10,000字くらいの人生になってればいいな。






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