泣き虫ジュゴン②

 かれこれ1時間ほど、僕は掌の上で気持ちよさそうに眠るカッターを見つめ続けている。ペットボトルと違って蓋のないその刃を押し出して手首を切ることなんて赤子の手を捻るみたいに簡単だ。だけど僕はとんでもない臆病者で、そんな恐ろしいことなんて、とてもできやしないのだった。
 安物のカッターと窓から差し込む夕陽の色はオレンジで、つまりは夕陽も安っぽい。それに照らされてオレンジ色に染まっているであろう僕もまた然り。旧校舎の窓にはカーテンがない。ボロボロになって捨てられてしまったらしい。誰にも読まれることのなくなった古書たちと、うっすらと埃の被った床。ここはそういう場所だった。
 画材を片づけて特にすることもないので、僕はカッターを握りしめながら担任を待っていた。連れて行きたいところがあるのだという。朝、僕が図書室の鍵を借りに来たとき、彼はそう言った。なんとかして僕を教室に来させようとしているのだと思う。中学2年の後半から不登校になって、ずっと旧校舎の図書室で過ごしてきた。保健室は不良のたまり場になっていて使えないから、時々特別授業をしてもらったり、司書さんに話しかけられたりすることもあるけれど、僕は基本的にここでひとり、絵を描いていた。
 春からは1度も教室には行っていない。そしてそのまま夏休みまで来てしまった。
 高校はどうするんだ大人になったらどうするどうやって生きていくんだ瀬名 陽。夕陽の中で鳴いている針金みたいに細い足で電線を掴む鴉が、この時間になると毎日僕に問いかけてくる。

「煩い。黙れよ、耳障りだ」

 目を閉じて、僕は幻想を描く。臆病でない僕を。いじわるな鴉たちのいない世界を。幻想の中の僕は、こんこんと眠るカッターを叩き起こして静かに持ち上げ、手首に当てる。そして一気に引き裂いた。飛び散る赤の中、幻想の中の僕は笑っている。

「瀬名」

 突然名前を呼ばれて現実に引き戻された僕は、相変わらず掌の上で頑なに目を閉じているカッターに少し落胆しつつ、それをポケットに仕舞い、はい、と返した。

「荷物持って、ついてこい」
 
 人を使役するのに慣れきった声だった。教師という職業の人間の言葉は、本人が何気なく発したつもりでも、抗い難い命令のように聞こえることがある。解きなさい、読みなさい、聞きなさい、座りなさい、立ちなさい、やめなさい。水谷先生は僕が図書室を出るとすぐに扉を閉める。彼は数学の教師だった。
 薄汚れた緑色の廊下を通り過ぎると、僕以外の靴が存在しない下駄箱で靴を履き替える。旧校舎の下駄箱は、数年前から生徒には使われていないのだ。彼は、スリッパからその辺に置いておいたらしい下靴に履き替える。そのまま昇降口を出ると、まだ部活をしている部員がいて、ほんの少し視線を感じた。いつものように何か奇妙なものを見るような視線に身体が強ばった。俯いてぎこちなく歩く僕に気づかないわけがないだろうに、先生は何も言わなかった。
 正門の反対側にある裏門から学校を出ると、途端に家が並ぶ。坂の下にあるこの中学は、帰るのが大変だ。時が来れば、坂の上から下まで、ここら一帯の地区の子どもたちはこの中学に入学することになる。しかし、坂の上に住むお金持ちの子どもたちはお受験をして、坂の上にある私立の中学校に行く。あるいは僕もそういう人間だったかもしれない。あのとき受験に合格していれば。

「こっちだ」

 しばらく坂道を上っていると、それまで無言を貫いていた先生が後ろを歩く僕を振り返った。背の高い彼の影が夕陽に照らされて長細く、どこか頼りなく伸びている。その先に、いつもならそのまま真っ直ぐ通り過ぎる道の右側に細い路地があることに、僕は今日初めて気づいた。

「こんな道があったなんて知りませんでした」
「そりゃそうだ。こんな路地裏、誰も好んで通りはしないだろうからな」

 先生はどこか自慢げに呟いた。
 路地裏は街灯もほとんどなく、周りの草は荒れ放題で手入れもされていない。細い道の隣には、これまた細い川が通っていて、道の途中に水質AA、という看板が立て掛けられていた。案外綺麗な川らしい。家からそこまで距離はないはずなのに、僕はこの場所のことをちっとも知らない。彼は僕を、一体どこへ連れてゆくつもりなのだろう。

「俺の実家はとある由緒正しい家柄の分家でな」
「……はぁ」
「まぁその事実はお前を今からあそこに連れていく理由のたったひとつにしか過ぎないわけだが」

 一瞬自慢話でも始めたのかとも思ったが、どうやらそれが目的ではないらしい。先生はまた口を閉ざし、僕の前を黙々と歩いた。
 水谷先生は、無精髭と目の下のクマは酷いが何故か女子に人気で、その飾らない性格から生徒に慕われている教師だ。まぁ、いい教師なのだろう。けれど本当は冷たい人だと思う。中2の頃に廊下や教室移動などで垣間見た、親しみやすさの中にふと見せる水谷先生の冷たい表情が、それを物語っているような気がした。

「サードプレイス、という言葉がある」

 知っているか、という問いに、僕は知りません、と答える。

「アメリカの社会学者が提唱したものらしいがな。お前にとって、ファーストプレイスは家、セカンドプレイスは学校ってとこだ」

 狭い路地裏を歩きながら、先生は右手をふらふらと彷徨わせている。多分、手持ち無沙汰なのだろう。先生からは、煙草を常習的に吸う人間の匂いがする。最近は煙草を吸う場所が限られてきているから、歩きながら吸うわけにもいかないのだろう。難儀なことだ。

「サードプレイス、というものは、家でも学校でもない。義務が発生することのない場所だ。端的に言えば、逃げ場所」
「逃げ場所」
「そう。お前に今、1番必要なもんだ」

 突然足を止めた先生の背中にぶつかりそうになって、思わず立ち止まる。彼の目の前には、花に囲まれた家。煉瓦造りで西洋風のその家は古びていてかなり小さかったが、まるでお城のように見えた。彼はそこにずかずかと踏み込んでいき、小さな城に不釣り合いな、酷く現代的なインターホンを押す。ピーンポーン、というあまりに不調和な音に唖然としていると、やがて扉が開いて、1人の男性が顔を覗かせた。

「よぉ、紫苑」
「こんばんは、先生。お待ちしてました」

 男性は乱雑な言葉遣いの先生に薄く笑みを浮かべた。随分と親しい間柄のようで、男性にしては珍しい長髪は色素が薄く、染めた様子もなくて綺麗だった。顔立ちもどこか日本人離れしており、どことなく異国情緒漂うその男性は、髪と同じように薄い瞳に僕を映した。

「君は?」
「……こんばんは。瀬名 陽といいます」

 嗚呼、と掌を叩く。

「君が先生がおっしゃっていた子かぁ」
「そうだ。しばらく頼むよ」
「わかりました」

 紫苑さん、というらしいその男性はしばらく僕を興味深そうに眺めていたが、先生の言葉に頷いて、僕たちを家の中に招き入れた。家の中は外観と同じように洋風で、あちらこちらに高そうな家具が置いてある。ひとつひとつの装飾が丁寧で、安物ではないことが感じられた。小さな家ではあるが、お屋敷のような雰囲気だった。何より、紫苑さんも先生も、そのまま土足で歩いていくのに驚いた。室内だというのに、紫苑さんも靴を履いている。彼はクリーム色のセーターを着ていて、真夏の今は暑くないのだろうかと思っていたが、室内は冷房が効いていたのでおかしくないか、と考え直した。
 豪奢な装飾の施された階段を上がってゆくと、扉が2つあった。紫苑さんは、ためらうこともなく奥の方の扉の前に立つと、コンコンと2回、ゆっくりとノックをした。

「白雪さん、お客さまがいらっしゃいました」
「お通しして」

 返ってきた澄んだ声に、紫苑さんは慣れた様子で真鍮のドアノブを引いた。部屋に入ってまず目に入ったのは本。夥しい数の本が棚を埋めつくしている。背表紙は英語であったり日本語であったり、それ以外の言語であったり。書斎、と言うに相応しい部屋だと思った。油断していたら床が抜けそうだ。その部屋の奥の机に、誰かが座っていた。本を読んでいるようで、その表情はこちらからは窺えない。白い清潔そうなブラウスと長い黒髪から、女性であることは察せられた。本を捲る手は白い。先程返事をした声の主は、恐らくこの人なのだろう。紫苑さんがもう一度白雪さん、と呼ぶと、その人物は顔を上げた。
 人形のような人だった。真っ白な肌ときりり、と整った顔立ち。アンティークロリータ、というのだろうか。お嬢さまめいた服装も相まって、彼女の年齢をわかりにくいものにしていた。水谷先生が、後ろで小さく、美人だろ、と呟く。音のない室内でその声はよく響いて、もちろん彼女にも届いたらしく、ぎっ、と先生を睨む。しかし先生は慣れているようで、口笛を吹いただけだった。そんな彼を彼女はげんなりとした様子でため息をつき、静かに立ち上がる。綺麗な瞳が、僕を真っ直ぐに射抜いた。

「初めまして。私は白雪。幻想図書館の主よ」
「幻想図書館……?」
「そこで口笛を吹いて遊んでいる奴が勝手に決めたここの名前」
「いや、サードプレイスなんだから、カフェみたいに名前があった方がいいだろうと思ったんだよ」

 美女の睨めつけるような視線に臆する様子もなく、彼は胸を張ってそう答えた。彼女は不愉快そうに眉を顰めているが、紫苑さんはにこにこと穏やかな笑みを崩さない。不思議なことに、学校での先生とここでの先生はあまり変わらない様子だった。

「あなたのお名前は?」
「……瀬名 陽といいます」

 か細い声で答えると、彼女の視線がまたしても僕の方に戻ってきた。紫苑さんと違って真っ黒なその瞳は僕の奥底まで見透そうとしているようで恐ろしかった。それでも、何故か目を逸らすことができず、僕と彼女はお互いの瞳を見つめ続ける。先にしびれを切らしたのは意外にも彼女の方で、やがて瞳が揺らめいて、長い睫毛を伏せた。

「……後悔、諦念。そんなところかしら」

 そっと呟かれた2つの言葉に思い当たりがありすぎて、どきりとした。僕の人生は、後悔と諦念でできている。何かを達成したり、何かを成功させたことなんて、1度もなかった。何かを失うことも、何かを台無しにすることは星の数ほどあったというのに。

「私は基本的に、あなたたちには関わらない。たまにリビングに下りてくることはあるけれど、特に意味はないわ。ただ、少し紅茶を飲みたくなっただけ」
「ここで紅茶は飲まないんですか」
「ええ。だって、もしこぼしてしまったら本が汚れてしまうわ」

 アンティーク調の机の上には、本はあれどティーカップは見当たらない。比較的読書が好きだった父は、休日に温かいコーヒーを飲みながら本を読んでいたが、1度盛大にコーヒーを零して大騒ぎをしたことがあった。本好きは、本が汚れるのは嫌なのだな、と思った。
 彼女は椅子を少し後ろに引くと、引き出しから鍵を取り出す。

「これは、幻想図書館に入るための鍵。あなたを信用して、これを渡します」
「……ちょっと待ってください」

 差し出された鍵をそのまま受け取るわけにもいかず、僕は口を開く。

「僕は、あなたとは今日が初対面ですよね。そんな人間に、この家の鍵を渡してしまっていいんですか」
「ええ。だってここは、あなたのサードプレイスだもの」

 彼女は花のようにふわりと微笑んだ。そうすると、冷たい印象を与える整った顔立ちの輪郭がほんのりとぼやけて、随分と可愛らしい印象になる。彼女は白い手を僕のそれに重ね、鍵を握らせた。

「あなたの他にも住人がいるの。仲良くして頂戴」

 そう呟くと、また無表情に戻って、彼女はもう用はない、とでも言うように僕から手を放し、また本に目を落とし始めた。

「じゃあ、俺はこのままお暇させてもらうぜ」

 ぐっ、と肩を引かれて、僕は部屋から連れ出される。扉が閉まる直前、紫苑さんが僕たちに手を振っているのがちらりと見えた。
 先生と階段を下りながら、僕は呟く。

「狂ってる」
「まあそう言うなよ。彼女も、お前と同じように苦しんできた人なんだ。お前らを助けてやりたいって思ってるのは本当だ」

 こんな素敵な家で優雅に本を読んで暮らしている人間が苦しんできただなんて全く思えない。渡された鍵を掌で遊ばせながら、僕はこの遊戯を金持ちの道楽であると認識していた。
 
「僕以外にも誰か住人がいるんですか?」
「ああ。あと2人ほど、な」

 本当は3人の予定だったんだが、と呟く声は少し残念そうだった。住人にならなかったあと1人は、鍵を受け取らなかったのだろうか。だとすると、僕のこの鍵もすぐに返品したいものだ、と思った。
 廊下に出ると、リビングへの扉の前で先生は立ち止まる。

「瀬名が教室に来ないのは、あの噂のせいだろう。お前の家庭環境についても、何も言わないが、ある程度はわかってるつもりだ」

 振り返らずに僕に話しかけてくる彼の右手には、いつの間にか煙草の箱が握られていた。彼は白いその箱から煙草を取り出し、口に咥える。

「お前、自分がこの世で1番不幸だ、とか思ってんだろ」

 煙の代わりに、毒を吐いたみたいだった。有害な副流煙は、僕の肺を通って、静かに心を蝕む。そうだ。僕は世界で1番不幸で、可哀想な人間だ。違いない。

「さっきだってリスカする勇気もないくせに、カッターを握りしめて」

 彼は、僕が彼を待っている間、カッターで幻想を繰り広げている様子を見ていたようだった。僕の臆病を鼻で笑われたみたいで、かぁぁ、と頭に血が上る。お前に何がわかるんだ。僕の苦しみが。僕のこの痛みが。

「だからな、お前は触れ合うべきだと思うんだ。お前と同等、もしくはそれ以上に可哀想な奴らと。そして、傷口を舐め合うといい。飽きるまで、癒えるまで、な」

 中でご自由に、と火のついていない煙草から口を放し、彼は親指でリビングへの扉を指差すと、僕の前から去っていく。沈みかけた夕陽に照らされる彼の背中は酷く頼りなげで、明後日の方向に長細く影を伸ばしていた。

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