【推し本】生成と消滅の精神史 終わらない心を生きる(下西風澄著)/こころとは何なのか
素晴らしい、素晴らしすぎる一冊。
心は発明された、と西洋哲学をホメロス、ソクラテスからデカルト、パスカル、カントを辿り、ヴァレラ、メルロ=ポンティまで、現代のコンピューティングやAIに通じる思想を読み解きます。
前半の西洋編は、ある意味無理に”食べ慣れないビフテキ”を飲み下すように西洋思想を理解しようとしている自分にもうすうす気づくのですが、この本の素晴らしいところは、日本における古来からのこころの変遷も後半に用意されており、ビフテキに疲れたところに”おだしのきいたおでん”のようにじんわりほっとできる(といっても必ずしも簡単ではない)読み解きができるところです。
その後半では、日本では心のあり方はどうだったのかを万葉人と古今和歌集時代の違い、そして時代を飛んで夏目漱石の思想を読み解きます。
誰もが教科書で多少なりとも知っている「吾輩は猫である」「坊ちゃん」の夏目漱石。
なんといってもお札の顔。
もう少し読んでいる人は10代の青春時代にでも「三四郎」「こころ」「それから」なども読んだでしょう。
そしてそのまま漱石を読み返す機会もなくン十年、という方も多いのでは。
私も、うっすら覚えている「こころ」で、親友の恋人奪って親友が自殺しちゃった先生がうじうじやばいんだよね、坊ちゃん成長したら何があったんだ、で、漱石は胃潰瘍になっちゃったんだよね、くらいの認識でした。
浅はかでした。ものすごく。
下西さんの解釈により、明治の最高知性のひとりでもある漱石が、近現代の西洋文化、いわんや西洋で二千年かかった変遷が一気に押し寄せ、心のあり方に苦悩するさまが浮かび上がってきます。
もう、普通の人には見えないものを見てしまった漱石の追い詰められ方たるや。
現代の問題の核心は「心を持つことのコスト」だといいます。
一個の有機体である人間はその処理負荷に耐えきれないためにAIへの欲望や期待が膨らむが、AIやネットワーク技術と人間には、自分の心で考えなくてもよい代わりに心を失う代償を払うという、抜き差しならないwin-win関係が形成されつつあると警句を述べます。
しかし心が”思考する機械”であるというのは一面的な機能の見方に過ぎず、様々な可能性があるとさらりと超越していく軽やかさ、そして何といっても全編通して美しい詩のような下西風澄さんの文章が、本当に本当に美しくて素晴らしいのです。
もともと、下西さんを知ったのは、2020年のコロナ直前の頃に都内のお寺で行われた森田真生さんと甲野善紀さんの講演に下西さんも来ていて、”風澄君が来てくれてて”と紹介されていて名前を憶えていたのでした。
下西さんと森田真生さんは、哲学へのアプローチや思索のモードがいろいろ共鳴していますね。