【短編小説】月を追いかけた男(『バラ色の日々』トリビュート小説)
月は、振り返ればいつだってそこにある。
追いかける始めるのに、遅すぎるということはない。
◼あらすじ
王都調査団の護衛依頼を受けた冒険家。
調査で訪れた村で、冒険家に憧れる少年と出会う。
少年の案内で荒野でも咲くバラの存在を知った冒険家は、貴重なバラを守るため、再開発を止めようとする。
THE YELLOW MONKEY『バラ色の日々』
から着想を得た短編小説。
ある夜、私はとんでもない発見をした。
「ねえ、J。月が追いかけてくるよ」
興奮して馬車の窓から身を乗り出す私を見て、執事のJは苦笑した。
「坊ちゃま。大変申し上げにくいのですが」
Jから月とこの星の関係を聞かされた私は、ひどく落胆した。私よりも先に気づいた人間がいた上に、その仕組みがあまりに退屈だったからだ。
なんとかしてそのつまらない理屈を覆してやろうと、次の晩、私はひとりで月を追いかけた。ただひたすらに月の方向へ歩いただけだが、夜はおろかひとりの外出すら初めてだった私には、それだけで大冒険だった。
結局、屋敷の敷地から出ることもできないうちにJに見つかって連れ戻された。しかし、あんなに楽しい体験をしたのは初めてだったから、お説教の言葉は耳に入っていなかった。
その日から、私は冒険家になった。
もちろん、冒険家なんて職業は存在しない。
言い換えるなら、ただの旅好き、道楽者、自分の命を危険にさらすことが趣味の愚か者、といったところだ。
両親が遺してくれた遺産と、領地と領民をしっかり管理してくれる優秀な執事のおかげで、私は壮年と呼ばれる歳になった現在まで、自由気ままに旅ばかりして生きてくることができた。
目的地がある旅もあれば、方角だけ決めて出発する旅もあった。まだ行ったことがない場所へ行き、見たことがないものを見て、知らない人と交流することが好きなのだ。
まだだれも行ったことがない場所は、さらにいい。ただ、だれも行きたがらない場所にはそれなりの理由がある。四十度の傾斜が数百メートル続く雪山とか、霧に遮られて常に夜のように暗い沼地とか、噛まれたら一時間で命をおとす毒を持つクモの生息地だとか。困ったことに、現地の人々に危険だ無理だと忠告されるほど、私の血はたぎるのだ。
初めの頃は執事や使用人を連れて旅に出ていたが、あまりの過酷さに次々脱落し、三年目には私ひとりで旅に出るようになった。今では皆、呆れ返っていて、次の行き先を聞いても止めることすらせず、粛々と屋敷で留守を守っている。
その旅の途中で見つけたものを持ち帰り、執事や領民に配るのもまた、旅の楽しさのひとつだった。旅に連れていくことはできなくても、こうすれば、見たことがないものに触れた感動を他の者と共有できる。
西方へ旅した時には、現地でよく食べられているイモを持ち帰った。それがどうやらこの土地に合ったらしく、このイモのおかげで、例年、食料が不足しがちな乾季を楽に乗り越えることができた。そのイモはまたたく間に国中の農家に広まり、やがて噂は国王の耳にも届いた。国の食糧危機を救った功績を国王がじきじきに讃えたことで「冒険家」はまるで爵位のような栄誉ある呼び名になった。
それをきっかけに、ただの道楽だった旅に金を出す者が現れた。どこそこへ行ってあれを持ち帰って欲しいとか。とある地方にいる珍しい生き物を捕まえてほしいとか。大抵は大した旅ではなかったが、金持ちの依頼とあって、報酬は破格だった。依頼が成功すれば、紹介でまた別の依頼が舞いこみ、冒険家の名はますます広まっていった。若い頃ほど無茶ができなくなってきたこともあって、旅をするだけで金と名声が手に入るのは、願ってもいない境遇だった。
町を歩けば見ず知らずの子どもが私に手を振り、冒険の話を聞かせてくれとせがむようになった。
私の冒険の記録を本にしたいと言いだす者まで現れた。書き物は苦手なので、勝手についてきて勝手に書けと言ったが、案の定、目的地にたどり着くより先に音を上げて帰っていったが。
急にもてはやされるようになって、初めこそ戸惑ったが、いつしかそれは日常になっていた。
王から依頼があったのは、今から半年ほど前のことだ。
南の国境近くにある村まで調査へ行く者達の、護衛と旅のサポートという内容だった。通常であれば、街道を歩いて十日ほどかかる道のりだ。だが今回は急ぐそうで、危険を承知で荒野をまっすぐ突っ切る計画だった。距離的には三日で村に着けるが、途中で補給できる場所はなく、砂嵐やサソリや盗賊を警戒しながらの旅になる。そこで、何度も荒野を越えている私に白羽の矢が立ったのだ。報酬は申し分なく、王からの直接依頼とあって、断る理由はどこにもなかった。
道中、大きな問題は起きなかった。一度、調査員のひとりが眠っている間にトカゲに耳を食いちぎられそうになったが、それ以外は予定通り国境の村へたどり着いた。
彼らは着いたその日から調査を開始した。今回の調査は村を城塞都市として再開発する計画を見据えてのものだ。雨季に入る前に城塞の基礎工事を終わらせるためには一日であっても無駄にできないという事情があった。
私の仕事は行き帰りの案内だけなので、彼らが調査をしている間は自由行動となる。
荒野の果てにあるその村は、これといった産業もなく、人口は減少し続け、衰退の一途をたどっていると聞いていた。ところが実際に見た村は、存外、賑わっていた。道には荷車や木箱に品物を積み上げた露店が並び、絶えず人々の話し声が飛び交っている。丁度、谷釣りのシーズンと重なったので、旅の漁師達が釣った獣を売ったり、飯屋で仕事終わりの酒を楽しむ姿をよく見かけた。
噂は聞いたことはあったが、実際に谷釣り漁師を見たのは初めてだった私は、飯屋で彼らから谷釣りについて話を聞いていた。
その飯屋で、ある少年と出会った。
「師匠! 氷の洞窟に行った話、もう一回聞かせてよ」
飯屋の息子は、私が冒険家だと知るなり、暇さえあれば冒険の話をせがんできた。大きくなったら冒険家になりたいらしく、勝手に私を師匠呼ばわりしていた。底抜けな明るさと、人の懐に飛びこむ大胆さがある、飯屋の看板息子だ。
私が宿のバルコニーで晩酌をしていると、少年は必ず乱入してきた。飯屋の屋上から宿屋の屋上へぴょんと飛び移り、壁をするするとつたってバルコニーまで下りてくるのだ。
「危ないから階段を使いなさい」
「だってこの方が早いだろ」
私の注意など意にも介さず、少年は背負っていた袋を広げる。飯屋の厨房から失敬してきた酒や干し肉やドライフルーツをふるまわれ、私はまんまと口を封じられてしまう。
その夜は月が出ていた。少年の話では、こんなにきれいに空が見える日は少ないらしい。乾季は常に砂で空が煙っているのだが、ここ数日は嘘のように風がなく、穏やかな日が続いている。
「俺さ、最初の冒険はあそこの真下って決めてるんだ」
少年は月を指さして言った。
「ここからじゃ、遠くてよく見えないだろ。だから真下まで行って、どれくらい大きいのか、近くで見たらどんな感じなのか、この目で確かめるんだ」
思わず笑ってしまった。
「なんだよ、なんで笑うんだよ!」
顔を真っ赤にして怒る少年が愛くるしくて、さらに笑いが止まらなくなる。笑いすぎて涙が出た。
そうか、あの時のJはこんな気持ちだったのか。夢を壊すのは胸が痛むが、いずれは知ることになるのだから早い方がいい。
月とこの星の関係の説明を聞いてポカンとなった少年は、やがて悔しそうに床にのたうち回った。
「なんで? だって、ずっとあのへんにあるのにさ、なんで? 回ってるって何?」
「残念だが、こればっかりは受け入れるしかない」
「どうして回ってるってわかるの? 空にあるのになんで? だれかあそこまで行ったの?」
「気持ちはわかるが、少し声を落としなさい」
月に向かって大声で不満をもらし続ける少年の口に、ドライフルーツを突っこんで黙らせる。しばらく干したオレンジをもぐもぐやっていた少年は、口の中がなくなる頃には落ち着いたのか、大人しく帰っていた。よほどショックだったらしく、帰りは階段を使った。
すっかり落ちこんだ少年の背中はひとまわり小さくなったように見えて、少し気の毒だった。すでにだれかに発見され、解明されてしまっていた悔しさも、目標を失った寂しさも、よくわかる。
少年がいなくなったバルコニーで、私は改めて月を見上げる。
私の頭の中には、地面にひもをくくりつけた風船のようにふわふわ揺れる月と、そのひもを登っていく少年が浮かんでいた。それはとても胸躍る冒険で、可能であるなら私も行ってみたかった。
そこで私は、はたと考えこんでしまう。
最後にそういう冒険をしたのは、いつだっただろう、と。
私の心配をよそに、次の日に会った少年は、いつも通りのわんぱく小僧に戻っていた。月以外で初めての旅先にふさわしい場所はどこかと私に尋ねる、その切り替えの速さには舌を巻いた。
少年は私をある場所へ連れていった。
「ここのことは秘密だよ。だれにも言っちゃダメからな」
道中、少年は繰り返し念を押した。だから詳しい場所は伏せる。
見せられたのは、息をのむほど美しい、岩壁一面にバラのカーテンだった。
赤茶色の岩と砂しかないこの地で、その真紅の花びらと緑の葉の色は、めまいがするほど鮮やかに見えた。
岩と岩のすき間のわずかな土に根をはっているようで、そこからツルと花が下へと垂れ下がるように伸びている。花や葉の形状はバラそのものだが、細いツルの根本にはコブがあり、どうやらそこに水分をためこんでいるようだ。
言葉を失う私に、少年が得意げに笑う。
「すごいだろ」
「ああ……すごいよ」
荒野と砂漠が国土の半分以上を占めるこの国では、花はとても貴重だ。イモの花が咲く時期には、見物人で農地の周りがごった返すくらいだ。食用ではない植物の花は完全な嗜好品で、すぐにしおれるので運搬コストがかさむ事情もあり、金持ちの間でとんでもない値段で取り引きされる。
だがこのバラは、過酷な乾季の荒野に適応し、たった数本の根から数え切れないほどの花を咲かせている。もしもこの花を量産することができれば、この村は一気に栄えるだろう。
「これはとんでもない大発見だ。君の名前は発見者として後世まで語り継がれるぞ」
新種の発見は冒険家にとって最高の勲章だ。ましてや乾ききったこの地を生き抜く花だ。月に行くのに匹敵する価値がある。冒険家の最初の一歩としては十分すぎる、大躍進だ。
なんだか私まで興奮してきてしまい、つい今後の展望を語ってしまった。だが語れば語るほど、少年の顔から表情が抜け落ちていく。
「どうした?」
私が尋ねると、少年は言い出しにくそうに「あー、実はさ」と苦笑いした。
「これ、俺の発見ってわけじゃないんだよね」
その晩、私がバルコニーで待っていると、少年が同じくらいの年頃の少女を連れてやってきた。私が宿泊する宿の娘だ。
少年になかば無理やり引っぱってこられた少女は、かしこまった顔で部屋に入るなり、くつろいだ時間を邪魔したことと、夜ごと部屋に押しかける少年の非礼を侘びた。宿屋の従業員ではなく、友人の友人として呼んだのだと伝えると、少し肩の力が抜けたようだった。しかし従業員としての姿勢や私に対する言葉遣いは、決して崩すことはなかった。
この少女こそが、あの花を見つけた張本人だという。
どうやら少年はだれにも言わないように口止めされていたようで、私にあの花を見せたと言うなり、少女はカンカンになって怒りだした。ところが少年は「師匠だから大丈夫」とどこ吹く風で、少女はさらに尖った声で少年を責め立てる。
「師匠なら、あの花を咲かせ続ける方法、見つけられるかもしれないだろ」
少年のひと言で、少女の口はぴたりと動きを止めた。
少女があの花を見つけたのは数年前で、それからずっと観察しているらしい。花が咲くのは乾季の間だけ。雨季の間はツタだけになって、また乾季が来ると葉と花がつく。少女はなんとかしてその花を雨季の間も咲かせられないかと苦心しているのだという。そんな少女の努力を知っている少年が、私に助言を求めたというわけだ。
残念ながら私に植物の専門知識はない。だが知り合いならたくさんいる。
「君さえよければ、植物学者の知人に相談してみるが、どうだろう?」
私が旅先からイモを持ち帰った時に力を貸してくれた人物だ。金や名声よりも好奇心と知識欲が勝つ人物なので、花のことをむやみに口外したりすることはないだろう。
少女は期待と不安の混ざった顔で私を見る。
「でも私、何もお礼できるものがありません」
「君には谷釣りを手伝ってもらった恩がある。これはそのお返しだ」
私が初めての谷釣りでウサギを釣れたのは、道具を用意しポイントを教えてくれた彼女のおかげだ。恩と言うには少々大げさだが、何か理由をつけておいた方が少女は安心するのではないかと思った。
実際、それで少女は安心したように見えた。
正直なことを言えば、少女の夢に私も乗ってみたくなったのだ。美しい花を少しでも長く咲かせたいという彼女の純粋な願いと、それを実行する発想力が行き着く先を見届けてみたい。そのために、私もできる限り力を貸したいと思った。
私は王都に戻ったらすぐにその学者に相談し、必要なら連れてくると約束した。やつのことだから、こんな荒れ地で群生する花があると聞けば、すぐにでも来たがるはずだ。
「ほらな、師匠に見せてよかっただろ」
「なんであんたが威張るの」
「だって俺のおかげだろ」
「次だれかにしゃべったら、ただじゃおかないからね」
「わかってるって」
少女ににらまれても、少年はケラケラと笑っている。そんなふたりのやりとりを、私は微笑ましい気持ちで眺めていた。
少年に引っぱってこられた時の少女は、宿屋の従業員として賢明に自分を押し殺しているような印象だった。だが私の約束に目を輝かせる今の少女は、夢見る無邪気な子どもの顔をしていた。
そんな少女を見ている少年も、また。
王都への帰還が近づいてきたある日、私は調査員のいる宿を訪ねた。
宿の主人に聞けば在室だというので部屋へ行ったが、だれもいなかった。机のカップにお茶が残っていたのですぐに戻ってくるだろうと思い、そのまま部屋で待つことにした。
机の上には地図が広げてあった。谷の南側に、谷と並走するように線が引いてあり、線と谷の間は斜線で埋め尽くされている。その斜線はこの村と重なっていた。嫌な予感がして、私は地図の周りに置いてあった報告書に手を伸ばした。ざっと目を通しただけで、信じられないような単語が次々に目に飛びこんできた。
調査人達が戻ってきたのは、それからすぐのことだ。
私が部屋にいたことに、彼らはひどく驚いていた。何人かが慌てて地図や報告書を片づけ始める。
「これはなんなんだ。再開発の下見じゃなかったのか」
「城塞都市は作りますよ。向こう岸に」
私が問い詰めると、調査団のリーダーはあっさりと開き直った。
「物資を運ぶには船が一番効率がいい。しかし大型船が入るには、この谷は少々せますぎるのです」
今は深い谷だが、雨季が来て水がたまると、谷は川へと姿を変える。川はそのまま海へとつながるので、船でここまで入ってくることも可能だ。地図に書かれていた斜線は、川幅、すなわち谷を広げる範囲ということだ。
「正気なのか? そんなことをして、この村の者達はどうなる」
「向こう岸に行けばいいだけのことです。再開発で職も住居も増えるでしょうから、丁度よいではありませんか」
「そういう問題ではないだろう!」
そんなことのために多くの人の住み慣れた家や生活を奪うなど、あまりに横暴だ。
私を前に、彼らはめんどうくさそうな表情を隠そうとすらしなかった。この村の到着した時、部屋の空きがなくて私だけ別の宿を手配したと聞いていたが、今思えばあれは、私に調査内容を知られないようにするためだったのだろう。初めからそういう計画だったのだ。
彼らの目には、この村は岩と砂しかない不毛の地なのだろう。だがここで暮らす人々には、岩や砂こそが故郷だ。砂を固めて家を作り、谷から恵みをもらい、乾ききった空気で食料を保存して、たくましく生きている。この村の文化も技術も、他の村では生まれ得なかった。この村にしかないものは、探せばまだまだあるはずだ。
だが彼らは、そんなことを自分に言われても困るとまったく取り合おうとしない。彼らは調査を命じられただけであって、計画変更の決定権はないのだ。ならば、権限を持つ者を説得するしかない。
「私から国王陛下に話す。この村にはそれだけの価値がある」
あのバラが生えていた場所もまた、斜線の中だ。花は金脈だ。バラを村の特産品にできれば、村は栄え、税収も増える。船を通すために潰してしまうのはあまりにもったいない。王なら、その判断ができるはずだ。
だがリーダーは鼻で笑った。
「私達にあなたを止める権利はありませんから、どうぞご勝手に。お勧めはしませんがね」
調査団を王都まで送り届けてすぐ、私は王宮へ向かった。
今回の調査旅行の報告だと告げると、あっさり目通りは許された。私は王の間へ入るなり、今回の旅の報告も早々に、谷幅拡張の計画変更を具申した。
あの村は特有の文化を形成していて、それを潰してしまうのは惜しいということ。谷のそばにバラの群生地があり、新種の可能性もある。あの村がバラの産地となればもっと豊かになり、おのずと都市機能も充実するはずだということ。今ある村を残したまま発展させる方が、長期的に見れば国にとって利益があるということ。
私は持てる言葉をすべて使って、自分が見聞きし感じたものを王へ伝えた。
はじめは調査の成功に上機嫌だった王だが、私の話を聞くうちに表情が消えた。飽きた子どものようにそっぽを向き、私の話を強引に遮った。
「国境付近の守りは何よりも優先される。国を守るためには多少の犠牲はいたしかたない」
調査員と話した時と同じで、まったく取りつく島がない。王の中ではもう決定事項なのだ。
「村の者達にはなんとご説明なさるおつもりですか。家や職は彼らにとって人生そのものです。それを奪われたとなれば、陛下への忠誠心が揺らぎかねません」
「差し出すことが忠誠を示す最高の機会と捉えよ」
「お言葉ですが、陛下はあの村のために何かされたことがあったでしょうか。一方的にすべてを奪われて、それでも忠誠心を保つことなどできるでしょうか?」
王が渋面になるが、それが事実だ。
あの村の生活水準は王都の足元にも及ばない。村人達は毎日一時間かけて村の外の井戸へ水をくみに行く生活を送っている。なぜそんなことをしなければならないのかといえば、村にあった井戸が干上がり、新しい井戸を掘るための資金援助を王に求めたがいつまで経っても返事が来ないからだ。中には、現在の王の名前すら知らない者もいた。あの村にとっては王も王都も、隣の国と同じくらい遠い存在なのだ。
「そなたの心配はよくわかった」
王は衛兵を部屋に呼んだ。
「この謀反者を捕えよ」
私はそのまま投獄された。石壁と鉄格子で囲われた独房で、ただの布と変わらない薄いベッドとトイレがあるだけだ。
どうやら王は、私が叛乱をあおったと思いこんでいるようだった。看守が食事を運んでくるたびに王への謁見を求めたが、看守は私の声など聞こえていないかのように、ことごとく無視を決めこんだ。
それでも私は訴え続けた。看守に言ってもダメならばと、外に向いた小窓から、近くを通りかかる人に向かって声をはり上げた。そんなことを数日続けていたら、看守が独房にやってきた。ついに話を聞いてくれるのかと思いきや、鎖のついた枷を手足につけられ、壁につながれた。鎖は、窓にも鉄格子にも届かない長さだった。
意味がわからない。
私は鎖でつながなくてはいけないような危険な人間ではない。そもそも投獄されるようなことはしていないというのに、屋敷の者に知らせることすら許されない。
気づけば雨季が始まっていた。雨季の始まりはいつも強い雨が降るが、今年は特に雨の量が多く、勢いもすさまじかった。
そして、私が投獄されてから二十日が経ったある日のこと。
あの村が川に沈んだ。
混乱しながらも、私はひたすら耳をそばだてた。こちらから質問すれば看守が口を閉ざすことがわかっていたので、彼らの噂話を盗み聞きするしかなかった。だから状況を理解するのに丸一日かかってしまった。
例年通り、雨がたまって谷は川となった。谷は東へ行くほど浅くなり、やがていくつかの細い川へと枝分かれしていく。その途中には水門があって水位を調整しているのだが、この数日間、どういうわけかその水門は閉じたままだった。行き場を失った水は押し戻され、あの村に流れこみ、住居や住民を押し流した。一方、対岸の村は岸が高いため無事だったという。
水門の管理は軍が担っている。軍は王の直轄組織だ。
王は初めから、村に住む者達のことなど、どうでもよかったのだ。村の大半の人間が移住するとなれば相当な時間がかかるし、相当な反発が予想される。ならば村ごと谷に沈めてしまった方が早いと判断したのだろう。
加えて、あの花だ。王の支援者には花の栽培を生業とする者がいる。谷に新種の花があるとなれば、計画はかなり進めづらくなる。
単独で村へ戻る力があり、花のことを知る私の存在は、王にとって不都合だったのだ。
それから、すべてが虚しくなった。
私は王に、無理に土地を取り上げれば村人達の反発を買うと吹きこんでしまった。少女に秘密にすると約束した花の存在まで明かしたのに、かえって王の強行をあと押ししてしまった。私がもっとうまくやれば、村が丸ごとなくなるという事態は避けられたのではないか。
一日のほとんどを、そんなことを考えてすごした。かと思えば、床に座りこみ、石の凹凸を見るともなく眺めているだけで一日が終わる日もあった。目が開いていても何も考えられない。眠っていても脳内ではとりとめのない考えがコバエのように飛び交う。
まったく食欲がわかず、気づけば三日食事を摂っていなかった。すると看守が数人がかりで無理やり私の口を開け、ペースト状にした食事をのどに流しこんだ。どうやら、まだ死なれては困るらしい。
おそらく「冒険家の死体」が必要になるその日まで、私は生かされるのだろう。知名度のある人間の死は、国民の心を少なからず揺さぶる。心が揺れ動いている民衆ほど操りやすくなるものだ。自分もまた、そうやって操られていたことに気づかなかった。これまで旅ばかりで政治的な駆け引きを避けてきたツケだ。
ある日、独房にJがやってきた。
「お顔を見られてどんなに嬉しいか」
独房に足を踏み入れるなり、Jは私の前にしゃがみこんで顔を覗きこんだ。普段は服についた糸クズすら許さないJが、躊躇することなく砂まみれの独房にひざをついたことに、私は驚いていた。その目は少し涙ぐんでいて、心配をかけていた申し訳なさが押し寄せてくる。体調はどうだとか、食事はきちんと出されるのかとか、矢継ぎ早に質問されたが、人と話すのが久しぶりすぎてうまく頭と舌が回らなかった。
Jは枷で擦れて傷になっていた私の手首を目ざとく見つけ、看守に外すよう求めた。もちろん、鉄格子の向こうで見張る看守は無視を決めこむ。ここではこれが日常だと察したらしく、Jはそれ以上、食い下がることはしなかった。
「遅くなって申し訳ございません」
私がここにいることは少し前からわかっていたが、だれもそのことを認めようとしなかったらしい。私が投獄されたことは公になっていない。そもそも投獄されていないのだから、面会も釈放もできないという理屈だ。
Jが面会を許されたのは、私の管財人だからだ。税金などの手続きが滞っており、私のサインがどうしても必要になる。期日までに手続きが完了できなければ私の不在が公になるが、それでもいいかと看守を脅したらしい。それが王に伝わり、私の投獄を他言しないことを条件に、面会を取りつけたというわけだ。つくづく、優秀な執事だ。
机がないので、床に座ったままいくつかの書類にサインをした。いつもサインの前に書類の概要を説明してくれるJだが、今日はとりわけ丁寧に、内容をすみからすみまで解説した。少しでもここにいる時間を引き延ばそうとしているのだろう。私も黙って聞いているふりをした。
淀みのない低音でゆっくりしゃべるJの声は、まるでチェロの演奏を聞いているようだった。心のこわばりが解けていくにつれ、とろとろとまぶたが落ちてくる。
気づいたJが、看守の視線から私を遮る位置にさり気なく移動した。変わらぬ調子で説明を続けながら、目元で微笑む。
私はまどろみに身をゆだねた。
短い時間だが、久々にきちんと眠れた気がした。
Jに呼ばれて目を覚ました。焦点が定まらない視界に、Jの神妙な顔が大写しになる。
「ここから出る算段がございます。脱出後の段取りもすべて手配済みです。少々荒っぽい方法になりますが、よろしいですね?」
鉄格子の前で見張っていた看守がいなくなっていた。今のうちに、とJは早口に段取りを説明する。なるほど、最初からそのつもりだったのか。まったく、私にはもったいないくらい優秀な執事だ。
「必要ない」
私に言葉を遮られたJは、動揺を押しこめながら「どういう意味でしょう?」と返す。
「私のことはもう忘れろ」
その荒っぽい方法とやらで私をここから出すことに成功したとしても、そのあとJや屋敷の使用人達の身がどうなるかわからない。逃げなくても、いずれ私の利用価値がなくなれば、屋敷や領地は国に接収され、彼らは放り出される。そうなる前に屋敷を離れた方がいい。
Jは言葉を失っていた。
彼がどんな顔をしているのか知るのが怖くて、私はずっと顔を伏せていた。
忘れろと言ったのに、Jはそれからも何かと理由をつけて独房を訪れた。私が咎めると「主のバカげた指示を聞き流すのも、優秀な執事の資質ですから」とのたまった。
短い時は数日おきに現れ、よくわからない書類にサインをさせたり、知人からの手紙になんと返事をするか相談したり、私の体調を確認したりした。来るたびに涙ながらに懇願されるので、食事だけは摂るようになった。
自分で追い払ったくせに、Jが来るのを心待ちにしている自分がいた。短い時間であっても、友の顔を見て、言葉を交わすことで、自分の中で消えかかっていた人間らしさが戻ってくるのを感じた。Jが来た夜はいつもより深く眠ることができた。
だがふとした瞬間、そんな砂粒程度の幸せですら、罪悪感に変わることがある。あの村とともに川に流された人々は、もう幸せを感じることはない。家族の顔を見ることも、友の声を聞くこともない。少年が冒険家として旅立つことも、少女が雨季にあの花を咲かせることも、もうない。私のせいで、すべてが流されてしまった。
それなのに私はまだのうのうと生きていて、今日はJが来なかったとため息をつくなんて、なんて贅沢なご身分か。
「王はいつ、私を殺してくれるんだ」
そんな私の問いかけすら、看守には無視された。
「お耳に入れておきたいことが」
ある日、Jが私に耳打ちした。
無事だった対岸の村では、川の拡幅や、今後増える作業員のための宿泊所の建設など、都市開発に向けた準備が着々と進んでいるという。乾季が来て本格的な工事が始まるまでの間は、地元の者から作業員を募っている。
なんだそんな話か、と私はJの話を聞き流していた。最近は集中力が続かず、耳から入った情報を理解するだけで疲れ果ててしまう。
「作業員の中に、十代の少年がいるそうです。もともとその村にいた子ではないとか」
その言葉に私は顔を上げていた。今、なんて言った。
Jは淡々と続ける。
「その少年は、仕事仲間にこう話しているそうです」
――金が貯まったら旅に出るんだ。
――行き先は決めてない。
――とりあえず月の出てる方向に行こうかな。
耳から入ってきたJの声は、私の頭の中で、彼の底抜けに明るい声に変換されて響き渡った。
間違いない。あの少年だ。
生きていた。
家を失っても、少年は少年のまま、まっすぐ夢に向かって生きている。
会いたい。
単純だが、猛烈な衝動がこみ上げてきた。
心臓が痛いほど強く鼓動する。
全身に血がめぐっていく。
視界と思考の霧が晴れて、すべてがはっきりと見えた。
ずいぶん久しぶりに、手足をしばる鎖を忌々しいと感じた。行く手を遮る鉄格子が、私を閉じこめる牢獄が、私の自由を奪っているということを思い出した。
小窓の外では、弱い雨が木の枝についた小さな葉を震わせていた。いつの間にか、雨季の終わりが近づいていたのだ。
私はこんなところで、いったい何をしていたのだろう。
「J」
「はい」
「お前が最初に来た時、ここから出る算段があると言ったな。詳しく聞かせろ」
Jは、心の底から嬉しそうに微笑んだ。
「その言葉を、ずっとお待ちしておりました」
この手記が世に出ているということは、私の脱出は成功したということになる。
というのも、これは今、脱出前の牢獄で書いている。
Jが指定した夜、私は合図を待っている。具体的にどんな合図かは知らされていないが、Jのことだ、その時が来ればわかるだろう。
手はず通りなら、ここを脱出したあと、わたしは王都のはずれで待つ記者にこの協力者を託し、その対価として、彼らが用意した馬車に乗って王都を離れる。
この先の予定を書き残すことは危険が伴うことは承知しているが、どうせ私の目的地はバレているのだから、大した問題ではないだろう。それよりも、王が私を捕まえるのが先か、あるいはこの手記が本やかわら版となって国中の人々に知らされるのが先か、ちょっと試してみたくなった。それに、冒険にはスリルが必要だ。そうだろう?
これから脱獄をしようというのに、今の私は、子どものようにワクワクしている。なにせ、脱獄だ。こんな冒険、そうそう味わえるものではない。
王都を離れたあとは、あの村へ行く。もちろん、少年に会うためだ。
そして、一緒に冒険に出るのだ。
本物の冒険だ。
金や名声なんかいらない。ただ、行きたい場所を目指す純粋な旅だ。
雨季の激しい雨を耐え、果てしない荒野を駆け抜け、谷だろうと川だろうと飛び越えて、私達はどこまでも進み続ける。
できるかどうかなんて、どうでもいい。常識がどうの、歴史がどうのと、わかったような口を利くやつは、放っておけばいい。できるかできないかは、私が自分の身をもって確かめるまでだ。
月は、振り返ればいつだってそこにあるのだ。追いかけ始めるのに、遅すぎるということはない。
そう。無理と言われるほど、私の血はたぎるのだ。
私と少年の冒険の結果も、いずれあなたの耳に届くかもしれない。あるいは届かないかもしれない。どちらであろうと、どんな結果であろうと、私が後悔していないことだけは断言できる。重要なのは結果ではないのだ。
そして、その知らせは、あなたにこう問いかけるだろう。
あなたの月はどこか、と。
<了>
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?