【短編小説】私はただ彼を(『シュレッダー』トリビュート小説)
ねえ、どうして私を置いて消えたの?
■あらすじ
ふいに蘇る、身に覚えのない“彼”との思い出。
押し寄せる強い喪失感からのがれるために、私は男を呼び出す。
吉井和哉さん『シュレッダー』
から着想を得た短編小説。
私は、私の上に覆いかぶさる男の背中に爪を立てた。
「もっとちょうだい」
馬にムチを入れるように。もっともっと、と男をあおる。
男は健気にペースを上げ、私の内側でじわじわと潮が満ちていくのを感じる。上手上手とほめるかわりに、私はのどを反らせ、甘い声でないて応えてあげる。
激しいのが好き。
息ができないほどの気持ちよさの中では、余計なことを考える余裕なんかはなくなる。
その間だけは、寂しさを忘れられる。
昨夜からまた、発作が起きていた。
私の記憶の中には、小さな蕾が埋まっている。普段はその存在を意識することはない。けれど何かの拍子に蕾がポンと爆ぜた瞬間、私はそれを忘れていたことに気づく。
蕾から飛び散った、身に覚えのない思い出の欠片が頭の中をひらひらと舞い続ける。小さくちぎった写真の紙吹雪みたいな感じ。自分では止められない。
目の前を一瞬横切る欠片だけ見たって、いつの、なんの記憶なのか思い出すことはできない。なのに、それらの記憶は目がくらむほど鮮やかで、光り輝いて見える。
私にはわかるのは、それらはすべて、すでに失われたものだということだけ。
つらいのは、覚えていないのに心はその欠片のひとつひとつに反応してしまうことだ。時には涙が止まらなくなり、時には後悔で起き上がれなくなる。胸をえぐるような強烈な喪失感が押し寄せてきて、体がくしゃくしゃにしぼんでいく。他のことは何も手につかないし、ひとりじゃとても正気でいられない。
そういう時は、男を呼び出す。えぐれた隙間を快楽で埋めている間だけは、安らぎを得られる。
だから、ことが済んだら男とはすぐに別れる。
私が身支度を済ませた頃、男がバスルームから出てきた。その背中には赤い跡がついている。縦に何本か並んだ赤い線が、肩甲骨のあたりにそれぞれ残っていた。私は自分の手を見る。左中指のネイルが少しはげていた。ぬり直さなきゃ。
「このあと飯行くけど、一緒にどう?」
「ごめんね。また今度」
私は男に微笑み、先にホテルを出た。男と会うのは昼間だけと決めている。誘われた時に「このあと用事がある」と言えるからだ。
さっきまで自分を満たしてくれていたことには感謝している。体の相性はいいし、顔も好みだ。けれどあの男に対しては、それ以上の感情がまったく湧いてこない。たまに、自分はこんなに冷酷な人間だったかと驚くことがある。
外はまとわりつくみたいな蒸し暑さだった。シャワーを浴びたばかりなのに、またすぐに汗だくになりそうだ。
体が満たされたことで、喪失感はだいぶ落ち着いた。
そのかわりに、胸をチクチクと刺すものがあった。原因はわかっている。
罪悪感だ。
大事な人がいた、ということだけは知っている。覚えているわけじゃない。知っているだけ。そして、男と寝たあとに罪悪感が来るということは、その人と私は、つまりそういう関係だったんだろうと推測しているだけだ。
ホテルから駅まで歩く。ホームで電車を待つ間、やめておけばいいのに、私はスマートフォンに保存してある写真を見返す。
クラウドには作った覚えのない共有フォルダがある。そこに保存されているのはほとんどが私の写真だったけど、たまに男の人も写っている。たぶん、私の写真を撮ったのもこの人なのだろう。カメラに向ける私の表情から、完全に気を許しているのがわかる。
残っているのは写真だけじゃない。通話やメッセージの履歴もそのままだ。ふたりで旅行の予定を立てたり、三十分以上通話していたり、親密な関係だったことが窺える。
でもそれらの記録を見ても、記憶はちっとも蘇らない。何も感じない。他人のスマートフォンを覗き見しているみたいな後ろめたさすらあった。でも、見てはいけないものほど見たくなる。指でどんどん画面をスクロールしていく。
メッセージの最後の方で、ふたりは海へ行こうと約束していた。なぜか現地集合で、時間と場所だけ決めるやりとりが残っている。
〈じゃあ、明日〉
約束の前夜に送られたそれが、彼の最後のメッセージだ。私はその日、その場所へ行った記憶はない。
それから一ヶ月くらいして、私が送ったメッセージがあるが、既読はついていない。
〈会えますか?〉
これを送った時の私は、いったいどういう気持ちだったのだろう。ただでさえ(たぶん)約束をすっぽかした負い目がある。その上、どんな人なのか、どんな人だと思われていたのか、自分だけが知らない状態で会おうとするなんて、どれだけの勇気が必要だっただろう。そして、いつまでも既読にならないことをどんなふうに感じたのだろう。それとも既読がつくかどうか確認する前に、また忘れてしまったのだろうか。
いずれにせよ、いつかの私がこのメッセージを送ってくれたから、今の私は彼に対してある程度の冷静さを保っていられる。
彼はもう、戻ってこないのだと。
そうとわかっていれば、好き勝手に彼を想像できる。
私は何気なく、最後の約束の場所を検索してみる。地図だととても遠そうに見えたが、ここから電車で二時間かからないらしい。
丁度、私の待っていたのとは反対側のホームに電車が入ってきた。
それに乗れば、海に行ける。
名前ではピンとこなかったけど、実際に着いてみたら思い出した。大学の卒業旅行で友達と一緒に来た海だ。
平日の昼間だというのに、先週に海開きしたばかりの海は結構、賑わっていた。よく晴れた空の下、水着を着てはしゃぐ人たちの姿は、いかにも夏って感じがして、ちょっとうらやましかった。こんなことなら水着を持ってくればよかった。最後に泳いだのは、もう何年も前だ。
私はパンプスとフットカバーを脱いで、砂浜に下りてみる。火傷しそうなほど熱いけど、ベルベットみたいになめらかな砂の感触は、懐かしくて愛おしかった。
海水浴客の邪魔になるので、波打ち際まで行きたい気持ちはぐっとこらえる。かわりに歩道から砂浜に降りる階段のはしに腰を下ろして海を眺めた。
真上から降り注ぐ日差しがまぶしい。強い光を受けて輝く砂や波や水着の人が、なんだか自分から遠く感じた。以前はよく海に来ていたのに、なぜだろう。
同じ水着をつけた男性がふたり、私の前を横切った。ライフセーバーだ。
急に、頬に当たる風が冷たくなった。冷たさは、頬からあごへと線を描くように伸びていく。
涙がとめどなくあふれてきた。
まただ。
また私は、私の感情に置いていかれる。
ただひたすら寂しくて、悔しくて、胸が苦しい。理由を教えてくれたら私も一緒に泣けるのに、感情は喚くばかりで何も答えてくれない。
ねえ、教えてよ。
私はいったい何を失ったの?
右手に、彼の手のぬくもりを感じる。
彼の手は、ほとんど触れるだけの優しい力で私の手を包んでいる。
こんなに安らいだ気持ちは本当に久しぶりだ。
私は目を閉じたまま、じっくりとその感覚を味わった。少しでも力を入れたり、目を開けたりしたら、彼が消えてしまう気がしたから。身じろぎもせず、ただ彼の温かさに身を任せていた。
空が見えた。
「あ、気がついた」
声が聞こえたかと思うと、視界に入ってきた男性の顔が空を遮った。
「大丈夫ですか? 名前言えますか?」
自分が仰向けに寝ているのだと理解するまで、少しかかった。私を心配する声に、意識が現実へ引き戻されていく。
ふたりのライフセーバーがかわるがわる私の顔を覗きこんで質問する。私はぼんやりした頭でそれに答えた。
泣きすぎて頭が痛くなったところまでは覚えている。もう気が済むまで泣かせるしかないと思い、涙が流れるに任せていたら、いつの間にか倒れていたらしい。もしかしたらあの頭痛は、軽い貧血だったのかもしれない。
ライフセーバーが視界から外れると、見える範囲すべてが空で埋め尽くされた。低い雲が風に流れていくのが見える。
きれい。
また、涙がにじんできた。さっきとは違う。じんわりと温かい涙だ。
彼を、感じる。
ここにいる。一緒に空を見ている。
やっと、思い出した。
私は温かい砂を握りしめる。
私がこの空を見る時は、いつも彼がいた。
この空を私に教えてくれたのは、彼だった。
この空は、この海は、私と彼にとって大切な場所だった。
「救護室で少し休みましょうか」
急に泣きだした私を心配したライフセーバーは、タンカを持ってこようともうひとりと相談を始める。
「大丈夫です」
だれが聞いても大丈夫じゃない、ひどいかすれ声だった。説得力がなさすぎるので、私はライフセーバーの腕を掴んで静止する。
「もう少し、こうしていたいんです」
ライフセーバーたちは不思議そうに顔を見合わせる。私は彼らを意識から消して、空に意識を集中させた。
どこまでも透き通るような青が、胸に突き刺さる。握りしめた砂が、どんどん冷めていく。
彼を感じるからこそ、彼の不在を実感してしまう。彼はもうそこにはいないという、揺るぎない事実を痛感する。
涙が記憶の胞子をすべて洗い流してしまえば、もう彼を思い出すこともなくなる。また蕾が破裂する、その時まで。寂しさに耐えかねて男を呼び出し、罪悪感に駆られて彼の記録を必死に掘り返す、その時まで。
今日思い出したことも、次の時には思い出せないかもしれない。かわりに別のことを思い出すかもしれないし、何も思い出せずただ喪失感に苦しめられるだけで終わるかもしれない。
だから私は、今のうちに、この寂しさを全力で抱きしめる。
ねえ、どうして私を置いて消えたの?
私がこんな切ない想いをしているのに、あなたはどこにいるの?
私はここにいるのに。
こんなに求めているのに。
もう一度でいいから、会いたい。
もう一度でいいから、声を聞きたい。
もう一度でいいから、触れたい。触れてほしい。
いつか私が、完全にあなたを忘れてしまう前に。
ただ、もう一度。
〈了〉
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