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【短編小説】執事の役目(『未来はみないで』トリビュート小説)
この部屋で生まれたあなたが、自分の足で出ていく。扉を開けるのは、私の仕事です。
◼あらすじ
冒険家の屋敷に仕える執事。
冒険家が投獄されたと知り、王宮の牢獄へ向かう。
THE YELLOW MONKEY『未来はみないで』
から着想を得た短編小説。
これ単体でも読めますが「月を追いかけた男」を先に読んでいるとわかりやすいです。
少しですが、水害について触れるシーンがあります。
「そんなにお急ぎになって、どちらへ行かれるのですか?」
木にぶら下がった坊ちゃまは、私を下ろして苦笑しました。
「なんでわかったの?」
「常におそばにいるのが執事の仕事ですから」
今夜の坊ちゃまは妙に自室に戻るのが早かったものですから、怪しいと思って見回っていたのです。自室の窓から木をつたって脱走するのは、坊ちゃまの常套手段です。
諦めて木から下りた坊ちゃまと、屋敷の玄関まで歩きます。
「今夜はどちらへ行かれるおつもりだったのですか?」
「裏の山。月夜に西の洞穴に行くと、戦士の亡霊が出るんだって」
「それはおもしろそうですが、今は時期が悪いですね。産卵が近いですから、ヘビが凶暴になっています」
「大丈夫だよ。このへんのヘビの毒は死なないから」
「ええ、死にはしませんよ。吐き気とめまいと幻覚が数日続くだけです」
坊ちゃまの顔が引きつりました。やはりご存知なかったようです。
「今度からは、こっそり抜け出すのではなく、行きたい場所があると堂々とおっしゃってください」
「でも父上はきっとダメって言う」
「坊ちゃまを心配なさっているんですよ」
「心配するのが領主の仕事だから?」
それは領主であるお父上の口ぐせです。領地で起きるすべてのことを把握し、二手、三手先を読んで備えることで、領地の平穏を保っております。しかし坊ちゃまには、その偉大さがまだ理解できないようです。
「領主なんか、なりたくない」
坊ちゃまはそれきり黙ってしまいました。うつむいているので表情はよく見えませんが、きっと唇をとがらせて、いじけているのでしょう。
「確かに坊ちゃまは、領主を継承できる立場にいらっしゃいます。ですが、坊ちゃまの将来が領主で決まっているわけではありませんよ」
「本当に?」
「騎士にだって、学者にだって、なんにだってなれます。愛する人を追いかけて屋敷を出たって構いません。坊ちゃまが本気で望むのなら、お父上は耳を傾けてくださるはずです。その時は、私も全力でお支えするつもりです」
その考えは、坊ちゃまにはとても新鮮だったようです。顔を上げた坊ちゃまは、目を爛々と輝かせて、こう言いました。
「俺、冒険家になりたい!」
「これはまた、大層な夢が飛びだしましたね」
「Jの夢は何?」
無邪気に問われ、私は考えます。
「いつか坊ちゃまにお子様が生まれた時、この屋敷でお世話すること、ですかね」
夢、と言うと少し大げさかもしれませんが、そんな未来をぼんやりと思い描くことがあります。ただ、それは坊ちゃまの求めていた答えとは違ったようです。
「つまんないの。それじゃ今と変わんないよ」
「それがいいのですよ」
仕事があり、よき主に恵まれた今の環境を、私はとても気に入っています。この暮らしがいつまでも続くこと、それが私の願いです。
「そうだ。次の遠征、一緒に行こうよ。J、ずっと屋敷から出てないだろ」
「お気持ちは嬉しいですが、留守番が私の仕事です」
領主が不在の間、屋敷を守る者が必要です。遠征から戻った坊ちゃまが聞かせてくださる土産話だけで、私は十分です。
しかし坊ちゃまは、またむくれっつらになってしまいます。
かと思うと急に立ち止まり、懐をさぐりました。そして、取り出したものを私に差し出します。
「ちょっと、これ持ってて」
懐中時計でした。今年の誕生日に、お父上から贈られたものです。白い文字盤に、黒く細い針。ふちには小さな王冠のようなリューズがついています。背面にはお屋敷の家紋が刻印されていました。
私がそれを受け取ると、坊ちゃまはすたすたと歩きだしてしまいます。
「それ、常に持ち歩けって父上に言われたんだ。だから、俺が行くとこにJもついて来なきゃダメだから」
やられました。
「ずるいですよ、坊ちゃま」
坊ちゃまは、にんまりと笑います。
結局、私がいくら時計を返そうとしても、受け取ってくださいませんでした。
そして私は、本当に次の遠征から坊ちゃまについていくようになりました。旅先でふらりと探検に出てしまう坊ちゃまに、お父上も頭を悩ませていたようで、あろうことか「お前が一緒なら安心だ」とお墨つきを与えてしまったのです。おかげで私はあちこち連れ回されて大変でした。
その数年後、お父上が亡くなると、坊ちゃまはすんなりと領主を引き継ぎました。それを機に呼び方も「坊ちゃま」から「旦那様」へ変わりました。
しかし旦那様の旅好きは相変わらずで、いつしか世間から「冒険家」と呼ばれるようになっておりました。
結局、私が旦那様の旅に同行できたのは、最初に数年だけでした。
旦那様は水たまりをまたぐくらいの気軽さで、底が見えない岩の裂け目を跳び越えていくのです。後ろから追いかける私では、心臓と命がいくつあっても足りませんでした。ついていけないから行き先を変えて欲しいとお願いしても「ならひとりで行く」と言い、本当にそうしてしまうお方です。
旅先で何か起きた時におそばにいられないのは心配ですが、私がついていくとかえって危険が増します。だから私は、残って留守を預かることに徹するようになりました。
旦那様が出発する時は、いつも屋敷の正面玄関で見送ります。扉を開けるのは、私の役目です。
「くれぐれもお気をつけて」
どうか無事に帰ってきてくれるよう祈りこめて、私は深々と頭を垂れます。
「じゃあ、行ってくる」
旦那様はいつもどおり、ちょっと散歩してくる、みたいな気楽さで出発いたしました。
私たちがどれだけ心配しようと、旅立ちを止めることはできません。帰りが遅いと気を揉んでも、ある日突然ふらりと帰ってきて、いかに実りの多い旅だったか熱く語り始めるのです。
気づけば、そんなことを何年も、何十年も繰り返していました。
だから今回も、私たちの心配をよそに、けろっと帰ってくるのだろうと思っていました。
王宮の裏にある牢獄の出入り口には、ふたりの衛兵が立っていました。
「じじい。お前は自分が何を言ってるのか、わかっているのか?」
「旦那様がこちらにいらっしゃるのは、わかっております」
衛兵は状況が理解できていないようで、へらへらと笑っておりました。知性が足りない者を相手にするのは苦手です。私はいらだちを噛み殺し、口角を持ち上げます。
「税金の手続きが滞っております。他にも、領民からの上申やご友人からの手紙など、旦那様ご本人に確認いただく必要があるものがたまっております。これ以上は、否応なしに旦那様の不自然な不在に気づく方が現れますが、それでもよろしいでしょうか?」
ここまで言ってようやくこちらの本気が伝わったのか、衛兵たちはこわばった顔を見合わせました。
「どうぞ権限のある方にお伝えください。面会の許可をいただけるまで、私はこちらで待ちますので」
片方の衛兵が、血相を変えて中へと走っていきました。
しばらく待って現れたのは、旦那様と同世代くらいの男でした。口の周りを覆うひげはよく手入れされていて、身に着けた甲冑や剣からも、そこそこの身分であることが窺えます。男は看守長と名乗りました。
「お前の要求は?」
「旦那様に会わせていただきたい。確認が必要な書類がたまっておりますので」
「紙切れのために、わざわざここまで来たって言うのか?」
「さようでございます」
看守長は鼻で笑いました。組んでいた腕をほどくと、右手を腰の剣の上に置きます。
「もし仮に、お前の主がここにいたとしてだ。そのことを知っているお前を、俺たちが大人しく帰すと思うか?」
「何か誤解なさっているようですね。私がここに来たのは、おたがいの利益のためです」
「ほお、おたがいの?」
私は気づかれないように、深く息を吸いこみます。
「使用人にとって、主が不在の屋敷はとても居心地がいいのですよ。私はそれを守りたい。そのためには、税金の手続きが滞ったり、主が死んでしまっては困るのです」
礼節と平静は、執事にとっての鎧と剣です。どんなに鼻につく相手でも、意にそぐわぬことであっても、己の感情は微笑みの下に隠すことができます。
「利害の一致というわけか」
看守長が再び鼻で笑いました。しかしさっきと違って、感心と呆れの混ざった顔です。
彼らは、旦那様が投獄されていることが公になっては困るはずです。私を旦那様に会わせても、彼らが損をすることはありません。いざとなれば、私を消すなり投獄するなりすれば、すべてなかったことにできるのですから。
少し考えこんだ看守長も、その結論にたどり着いたようでした。
「お前の要求は上に伝える。明日また来い」
看守長はそう言うと中へ戻っていきました。とりあえず一定の成果はあったので、私もその日はそれで引き上げました。
牢獄を離れ、宿に向かって歩いていたら、途中で急に胸が苦しくなりました。鼓動と呼吸が乱れ、思い出したように冷や汗が噴き出してきます。
あれでよかったのでしょうか?
私はうまくやれたのでしょうか?
あの男は、私の言葉をどこまで信じてくれたでしょうか?
旦那様とともに社交の場に行くこともありましたので、本意でないことを言うのには慣れているつもりでした。しかし、旦那様を貶める言葉をひとつ吐き出すたびに、のどをカミソリで裂かれるようでした。
今でも舌の上に、さっきの言葉が苦く残っているような気がします。
旦那様は、王都から派遣される調査団の旅の護衛を依頼されていました。
ところが調査団はとっくに王都へ帰還したにもかかわらず、旦那様は一向にお戻りになりません。王宮へ問い合わせると、旦那様は報酬を受け取って帰ったというではありませんか。それで調査をしてみると、だれもいないはずの王宮の牢獄から声がするという噂を聞きつけました。結論を申し上げれば、それは旦那様の声でした。
旦那様は、何か厄介なことに巻きこまれたようです。
私はすぐにでも牢獄へ駆けつけたい気持ちを抑え、慎重に計画を練りました。不用意につつくと旦那様をよそへ移されてしまう危険があります。行動を起こす時は、一度で確実に成功させなければなりません。
そう自分を言い聞かせつつも、心配で一時も心が休まりませんでした。
ようやく計画を実行に移したのが、昨日です。雨季に突入してから、しばらく経っておりました。
そして今日、ようやく旦那様への面会がかないました。どうやら、私を消すよりも、共犯として抱きこむ方が都合がいいという判断が下ったようです。計画どおりです。
牢獄は、とにかくひどい場所でした。明かりが少ない石造りの通路は、いくつもの鍵つきの扉で仕切られていて、奥へ進むにつれせまくなっていきます。天井もどんどん低くなり、途中から体をかがめて進まなければなりませんでした。
何より耐えがたいのは、においです。カビと、排泄物と、通路のすみで腐っている小動物の死骸と、その他にもよくわからないにおいが混ざっています。じめじめした空気とともに、においが肌や髪や服に染みこんでくる気がして、ただ歩いているだけで具合が悪くなりそうでした。
ここは人のいる場所ではありません。早く連れ出さなければ。
そう思っていたのに、いざ旦那様の姿を目にした私は、言葉を失ってしまいました。
鉄格子の向こうで、旦那様は床に座っていました。壁にもたれて眠っているのか、私が来たことにすら気づいていません。ひげや髪は伸び放題で、すっかりやせていました。着せられている服に比べたら、厨房の雑巾の方がよっぽどきれいです。手足には枷がつけられ鎖で壁につながれています。
せまい独房は、何もありませんでした。トイレ代わりのバケツと、薄いベッドがあるだけです。上にかかっているブランケットは、屋敷のカーテンよりも薄いのです。鉄格子つきの小さな窓から少し光が入ってきますが、見えるのは城壁だけです。
「J……?」
旦那様が私に気づきました。その声は乾ききって、ほとんど聞き取れないほどかすれていました。
それでも、とにかく、生きています。それだけで涙が出そうでした。
私は旦那様の前にしゃがみ、無事を確認します。服の上から触れた腕の細さにぞっとしました。
「具合が悪いところはありませんか? 食事は摂れていますか? 旦那様?」
旦那様は別人のような、精気の抜けた顔をしていました。私の問いかけにもなかなか答えません。ようやく口が少し開いたと思っても、声が出てくるまでずいぶん時間がかかりました。
「なぜ、お前がここに」
「お帰りが遅いので方々を探したのです」
枷が擦れて手首に血がにじんでいるのを見た瞬間、カッと頭に血がのぼりました。閉じこめるだけでは飽き足らず、こんなせまい独房の中でさえ自由を奪おうというのですか。
「これを外していただけますか」
鉄格子の向こうで座っている看守に求めましたが、無視されました。旦那様にこんなものは必要ないと訴えますが、看守はこちらを見ることすらしませんでした。旦那様の置かれている状況が、よくわかりました。ここにずっとひとりでいた旦那様の心細さを想像すると、胸がはり裂けそうでした。
こんな場所、一秒たりとも長居したくありませんが、看守の目がありますので、とりあえず私は仕事に取りかかるふりをします。書類を広げ、旦那様に内容を説明していきます。もともと不在がちでしたから、旦那様には方向性の決定と最終確認だけしていただければ、あとは私たちだけで回していける体制になっています。しかし今回は、普段の数倍時間をかけて、書類のすみからすみまで丁寧に説明しました。
それから一時間ほどすると、鉄格子の向こうにいた看守が立ち上がりました。
時間稼ぎがバレたかと焦りましたが、看守はこちらを一瞥しただけで、通路を歩いてどこかへ行ってしまいました。
ようやく訪れた好機に、私はすぐ行動を開始します。旦那様の肩をつかんで、顔をこちらへ向かせます。
「旦那様、よく聞いてください。ここから出る算段がございます。脱出後の段取りもすべて手配済みです。少々荒っぽい方法になりますが、よろしいですね?」
宙も漂っていた旦那様の視線が、私の顔のあたりでとまりました。私が来た理由を理解したようです。
私は計画を手短に説明します。ここを出る方法、決行はいつか、旦那様には何をしていただきたいのか。
しかし、半分も話さないうちに、旦那様に遮られました。
「必要ない」
とっさに、言葉が出てきませんでした。計画のその部分が必要ないという意味なのか、それとも……。
「私のことはもう忘れろ」
つぶやきに近い小さな声なのに、胸を突き飛ばされたような衝撃がありました。軽いめまいがして、床に手をつかなければならないほどでした。
私は無意識に深呼吸していました。常に冷静さを保つために体に染みついた習性です。しかし今回ばかりは、動揺でのどが震え、思うように酸素が入ってきませんでした。
「承服できません」
どうか、そんなひどいこと言わないでください。
本心ではないと、少し気が弱っただけだと言ってください。
私たちの愛する旦那様に戻ってください。
そう泣きつきたい衝動を抑え、毅然と拒否しました。
「ここにいれば、いずれ殺されます」
不都合なことを知った人間を生かしておく理由は、ふたつしかありません。殺すことでさらなる不都合が生じるか、まだ殺すべき時ではないか。投獄そのものが伏せられている状況を鑑みるに、後者である可能性が濃厚です。
「ああ。だから、お前たちまで道連れになる必要はない」
それきり旦那様は顔を伏せてしまいます。
言葉が、見つかりませんでした。
私はこれまで、旦那様の肉体的な憔悴ばかり心配しておりました。私の知る旦那様は、例え使用人が相手であっても、疲れや不機嫌を他人に見せることはありませんでした。いつも活力がみなぎっていて、行くと決めたらだれにも止められません。そんなお方が、こんな暗い場所で立ち上がることすら諦めるなんて。そんな事態、微塵も想定しておりませんでした。
冒険家ともあろうお方が、生きる気力を失うなんて。
いったい、何があったというのですか。
何があなたを、そんなふうにしてしまったのですか。
何よりも、それが私の預かり知らぬところで起こったことが不甲斐なく、耐えがたいほどに腹立たしかったのです。
私は失意のまま宿へ戻り、協力者へ計画の中止を伝えました。
旦那様の様子を聞いたご隠居様は、言葉を失いました。
「そうか。あの坊がそこまで……」
子どもの頃から変わらぬ呼び名が、なんだかとても懐かしく感じられました。早くにお母上を亡くされた旦那様にとって、ご隠居様は第二の母のような存在です。御年七十歳ですが、長い白髪をなびかせながら歩くお姿は、気品にあふれています。
ご隠居様は隣の領地の領主だったお方で、お父上が若い頃からおつき合いがあります。調査団がすでに帰還していることを私に教えてくださったのがこの方で、救出作戦の立案から決行まで手を貸してくださいました。にもかかわらず計画は立ち消えになり、私は合わせる顔がありませんでした。
しかしご隠居様は、にやりと笑うのです。
「だが、ここで終わるつもりはないんだろう?」
「当然です」
私は即答しました。旦那様を見捨てたりできるはずがありません。それはご隠居様も同じでした。
「私は、やつらが調査に行ったという村を調べてみる。先日、川の増水で水没したと聞くが、タイミングがよすぎる。何かあるはずだ」
ご隠居様が領主の立場をご令嬢に引き継いで数年経ちますが、まだ方々に顔が利きます。ご隠居様自身、王のやり方に長年疑問をいだいてきた身ゆえ、同じことを感じている者にも心当たりがあるそうです。
「問題は坊だ。あいつにその気がなければ、始まらん」
「それは私の方でなんとかします」
「お前を疑うわけじゃないが、一度折れた心を取り戻すのは並大抵じゃないぞ。何か手立てはあるのか?」
「今のところ、ありません。ですが、なんとかします」
今の旦那様に必要なのはだれかの支えです。それは私が一番、得意とするところです。
私はそれからも、こまごまと理由を見つけては旦那様に会いに行きました。屋敷から王都まで馬車で半日かかるので、毎日というわけにはいきませんが、できる限り足を運びました。
看守たちはあからさまに私を煙たがりましたが、何度か酒やタバコを差し入れしたら、すんなり通してもらえるようになりました。
そのおかげで、旦那様と仕事以外の話をしても咎められなくなりました。やはりまだ死なれては困るようで、看守たちも旦那様の憔悴ぶりには頭を悩ませていました。そこで、知った顔と会話することで少し気力を取り戻せるのではないかと考えたようです。やつらの思惑に沿うようで虫唾が走りますが、それで旦那様の顔をいつでも見られるようになるのなら、安いものです。
私は長年、旅中毒の頑固者である旦那様に仕えてきたのです。忍耐力と諦めの悪さは、だれにも負けません。
旦那様も、はじめこそ私を追い返そうとしていましたが、私の粘り勝ちで、今では文句ひとつ言いません。
何があったのか、旦那様から聞き出すのには時間がかかりました。上の空で会話がうまく噛み合わず、話も飛び飛びで、つなぎ合わせるのに苦労しました。
どうやら、先日、洪水で沈んだ国境の村のことに責任を感じているようでした。旦那様が王都の調査団とともに行った村です。そこで新しい友がたくさんできたようで、彼らの顔が浮かんで眠れないのだそうです。その自責の念が、生かされている屈辱へと跳ね返ってきているようです。
王は南の国境の守りを固めることにご執心で、対岸に城塞都市を築くためには国境側の村は邪魔だったのではないか、というのがご隠居様の見立てです。王が国防のために自国の村を破壊したなんて話、にわかには信じられませんでしたが、旦那様が秘密裏に投獄されたことを考えれば、うなずける部分があります。旦那様も同じ結論に至ったようでした。
王の悪逆に旦那様が心を痛める必要はないと何度も申し上げましたが、私の言葉は耳に入っていないようでした。
ですので私は、まったく関係のない話をして旦那様を励まし、常に旦那様を想う者がいることを伝えました。
領地の子どもたちが、新しい冒険の話を楽しみにしています。
もうすぐイモの植えつけが始まります。去年が豊作だったので、今年もと農家ははりきっています。
ご不在の間に、屋敷の大掃除をしました。天井のすみまできれいになりましたので、楽しみにしていてください。
旦那様がそれらに興味を示すことは、ほとんどありませんでした。
ですが知った顔が会いに来ることでいくらか気が休まるのか、旦那様は、私の話を聞きながらうとうとと舟を漕ぐことがありました。
おかしな話ですが、その時の私は、まだ幼かった旦那様の枕元で童話を聞かせたことを思い出すのです。まだ眠たくないからもう一回とわがままを言うのですが、二回目が終わらないうちにまぶたの重さに抗えなくなり、気づけば静かな寝息を立てているのです。
やつれていても、目を閉じた無防備な顔は、その頃と変わっていません。
今の旦那様は、事件の衝撃で道を見失っているだけです。いずれ必ず、また歩きだす時が来ます。その時に、私がまいた種が、旦那様を進むべき道へ戻す道標となるはずです。
そう信じて、私は独房へ通い続けます。
すべてが変わったのは、ご隠居様からの手紙が届いた時です。それを読んだ瞬間、雨ばかりの空から光が射したように感じたほどでした。
すぐに独房へ行って、旦那様にその話をお伝えしました。
洪水被害のあった村に住んでいた者の多くは、対岸の村へ避難をしていました。その中に、冒険家を目指す少年がいたそうです。
彼は、月を追いかけるんだと屋敷を飛び出した坊ちゃま、そのものでした。
あの頃の坊ちゃまは、自分にできるかどうかを考えるより先に動いてしまう無鉄砲な子でした。分別や責任を身に着けるずっと前の話です。おかげで身の周りの世話をする私たちは、それはそれは苦労させられました。
ですが、もしかしたらあの頃が、人生で一番、自由な冒険家だったかもしれません。
私は、これに最後の望みをかけました。
もしも旦那様に少しでも冒険家の心が残っているのなら、この少年の話を聞いて、じっとしていられるはずがありません。
結果は、狙いどおりでした。
いつものように頭を落とした姿勢で、聞いているのか眠っているのかわからなかった旦那様が、徐々に顔を上げ始めたのです。
いつも眠りの狭間を漂っていた焦点が、この時はしっかりと私を捉えていました。
その目には、新しい旅の行き先を見つけた時の、あの爛々とした光が宿っています。
「J」
「はい」
「ここから出る算段があると言ったな。詳しく聞かせろ」
その時の喜びは、言葉になりませんでした。
ずっと一方的に伸ばしていた手を、ようやくにぎり返してもらえたのです。
全身に震えが走って、気を抜くと涙がこぼれてしまいそうでした。
「その言葉を、ずっとお待ちしておりました」
今の私は、さぞや情けない顔をしていることでしょう。
それほどの感動と安堵だったのです。
ご隠居様に知らせると、すぐに屋敷に駆けつけてくださいました。今からでも決行できるか尋ねると「まったく、待ちくたびれたわ」とすぐに準備を始めてくださいました。
図らずも時間ができたことで、計画は前回よりもしっかりしたものに進化していました。荒っぽさは薄れ、うまくいけば王に見つかるより先に王都を脱出できる、洗練された計画です。
「お前の手際次第では、やはり荒っぽくなるがな」
「あまりプレッシャーをかけないでください」
私が苦笑すると、ご隠居様はしっかりやれと私の背中を叩きました。
一番の難関は、旦那様の自由を奪う枷と独房の鍵を外すところです。看守の目もあります。それらを、私がひとりで対処しなければなりません。
計画の最終確認を終えると、ご隠居様がついでのように言いました。
「娘からの伝言だ。領民のことは私に任せろ、だとさ」
なんて頼もしいお言葉でしょう。領地と領民のことは、旦那様の安否の次に重大な懸念でした。私の力で対処するには限界がありましたので、事情を知るご隠居様を通じて、領主であるご令嬢に相談をしていました。とんでもないお願いの上、ご隠居様を伝書鳩に使うという無礼を重ねたにもかかわらず受け入れてくださるなんて、なんて寛大なお方でしょう。
「ご隠居様にも領主様にも、なんとお礼を申し上げればよろしいか」
「坊のイモがなかったら、娘は孫を身ごもったまま死んでいたさ。ようやくあの時の恩を返せるとはりきっているよ。私もな」
干ばつによる食糧難が厳しかった年に、旦那様が旅先から持ち帰ったイモを少し分けて差し上げたことがありました。二十年近くも前の話ですが、ご隠居様は未だに当時の恩義を忘れていないのです。
今回は、イモに比べてあまりに大きな恩に思えますが、ご隠居様とご令嬢のお気持ちはありがたく頂戴することにしました。旦那様を救出できなければ、その恩を返す機会もなくなってしまいます。
「すべてが終わった暁には、必ずや、ご恩に報います」
「いらんわ」
頭を垂れる私を、ご隠居様は豪快に笑い飛ばします。
「あのぼんくら王の鼻を明かせるんだぞ。私はそれで十分だ」
領民の心配がなくなりましたので、屋敷の使用人にも全員、暇を出しました。
皆、何かがあったことは薄々感じ取っていたと思います。それでも、いつか旦那様が戻ってくる日のために、屋敷を完璧な状態で保ち続けてきた勤勉な者たちです。中には、旦那様のために何かしたいと言ってくれる者もおりました。しかし脱獄となれば、王がこの屋敷をただでおくはずがありません。今は何も聞かずにここを去り、だれに何を聞かれても知らぬ存ぜぬで通すことが、一番、旦那様のためになります。予告なく解雇を告げた上に、そうしてひとりずつ説得していくのは、やはり心が痛みました。
そして、屋敷は私ひとりになりました。
私の足は自然と、今は使われていない部屋へと向いていました。
家具には埃よけのクロスがかけられていますが、どこに何があるかは目を閉じても思い出すことができます。窓の外では、よく坊ちゃまが部屋を抜け出すのに使った木が、月明かりに照らされていました。
私が坊ちゃまと初めて会ったのも、この部屋でした。
当時の私は十二歳で、執事の見習いになったばかりでした。お父上に呼ばれた私は、この部屋で生後数日の坊ちゃまを抱かせていただいたのです。
強くにぎっただけで潰れてしまいそうで、抱くのが怖かったのを覚えています。
おくるみに包まれて眠る坊ちゃまは、顔も手もしわしわで、まぶたは腫れぼったくて、言葉を選ばずに申し上げればブサイクでした。ですが不思議なことに、たまらなく愛おしかったのです。使用人の両親の間に生まれ、ずっとこの屋敷で生きてきた私にとって、屋敷の中で私よりも小さな命を見るのは初めてでした。私が守らなくてはと、使命感に貫かれたのです。
お父上は、執事としてはもちろん、必要な時には友として支えるよう私に命じました。そう努めてきたつもりです。
私の仕事は、この時計と同じです。
旦那様と屋敷の日常を、狂いなく回していくこと。
時とともに訪れる変化に備えること。
永遠はありません。
腕の中にいた小さな坊ちゃまが、あっという間に私より体が大きくなり、たくましい主へと成長したように。
私は粛々と、その変化に対応するのみです。
もう、旦那様がこの部屋に戻ることはありません。
寂しくないと言えば嘘になります。いつか別れが来ることは覚悟しておりましたが、思っていた形とはずいぶん違いましたから。
しかし、今は喜びの方が大きいのです。
旦那様に、旅よりも大切なものができたのです。これまで積み上げてきた冒険家としての名声よりも、生まれ育った屋敷や領地よりも、大切なものが。
そんな旦那様の旅立ちに立ち会うことができるのです。
執事として、これ以上の幸せがありましょうか。
気づけば、雨季の終わりが近づいていました。
決行の日、私は夕方に牢獄を訪れました。
「時が来たらすぐに動けるよう、ご準備をお願いします」
独房で、旦那様と計画について最後の確認をします。
私はもうすっかりここの常連となっていて、看守はもう、面会中の私たちを監視することすらしていませんでした。そのため、少し声を落とせば、こうしたきわどい会話も可能でした。
脱獄を決意した日から、旦那様は本来の精悍さを取り戻していました。ずっと閉じこめられているので体力的な不安はあるものの、目には揺るぎない信念が灯っています。看守の前では無気力を演じるようお願いしてありましたので、看守はこの変化に気づいていない様子でした。計画は順調です。
「では、またのちほど」
「J」
立ち上がろうとした私を、旦那様が呼び止めました。
「そのあと、お前はどうするんだ?」
「しばらくは近場で身を隠します」
脱獄後、旦那様は協力者の用意した馬車で王都から脱出します。その交換条件として、王の所業と、旦那様の身に起こったことをまとめた手記を提供する手はずとなっています。
王は間違いなく、脱獄した旦那様を逆賊扱いするでしょう。旦那様の手記を発表しても、捏造だなんだと難癖をつけて、手記の信用を落とそうとしてくるはずです。そうなった時、手記の出どころを証明する証人が必要となります。私はそのために、王都に残るのです。
「今のうちに、お返ししておきます」
私は懐から取り出した懐中時計を、旦那様に差し出しました。脱獄のあとにお返しするつもりでしたが、計画が動きだしたら一刻の猶予もありません。ゆっくり話ができる今の方がよさそうです。
ですが、旦那様は受け取ろうとしません。
「このタイミングで、私が受け取ると思うか?」
「お返ししなければ、お父上に顔向けできません」
「私と一緒に王都を出ればいいだろう」
「できません。私はまだここで仕事がありますので」
この状況で私の身を案じてくださるのは、この上ない幸せでございます。ですが、今はご自身のことに集中していただかなくては困ります。
旦那様は、私の覚悟が揺るぎないものであると悟ったようです。
しかし旦那様は、懐中時計を持った私の手を押し返しました。
「すべて終わったら、自分で返しに来い」
「また無茶をおっしゃる」
「常に私のそばにいるのがお前の仕事だろう」
「ずるいですよ、旦那様」
そう言えば、私が引き下がれないことを知っているのです。
決断の狭間で揺れる私を、旦那様は静かに抱き寄せました。
「友を失うのは、もうたくさんだからな。汚い手でもなんでも使うさ」
そこまで言われては、私も観念するしかありませんでした。
私も旦那様の背中に腕を回して強く抱きしめました。
幼い頃は片腕で抱けた背中が、ずいぶん大きくなったものです。
そろそろ行かなくては。これ以上は決心が鈍ります。
そう思うのに、なかなか腕を離すことができませんでした。
独房から出た私は、看守室に寄りました。
扉を開けるなり、大きな笑い声が聞こえました。看守長と、若い看守ふたりがテーブルを囲んでいました。テーブルには私が持ってきたワインの空ビンが二本置いてあります。
「お口に合いましたか?」
「おう、最高だ」
すっかりでき上がった看守長が、グラスに残っていたワインを飲み干しました。
「もう二本とも飲んでしまったのですか? さては、私が部屋を出てすぐに飲み始めましたね?」
「当たり前だろ。こんな辛気くさい場所で仕事してんだ、飲まずにやってられるか」
私は懐中時計を確認します。ワインは私が旦那様の独房へ入る前に渡したので、飲み始めて一時間ちょっと経ったことになります。
「なんだ、急いでるのか?」
看守長が尋ねました。もう、ろれつが回っていません。
「いいえ。そろそろかなと思いまして」
「何が?」
「作戦開始です」
彼らの笑いがぴたりと止まりました。
「お前、なんの話をしてるんだ?」
看守長が立ち上がります。しかし、踏み出したひざがふにゃりと抜け、そのまま床に崩れ落ちてしまいます。それを見た若い看守たちもあわてて立ち上がりましたが、同じように転倒しました。じっとしている分には平気なのですが、ちょっとでも動くと急に目が回って、平らなはずの床が時化の海みたいに波打って感じられるのです。一度転んだら、もう立てません。私も試しましたから、よくわかります。
「ご安心ください。死にはしませんから」
吐き気とめまいと幻覚が数日続きますが、ええ、死にはしません。
私は看守長の剣を拝借し、柄をしっかりとにぎりしめます。それから扉から顔だけ出して、通路の方へ声をはり上げました。
「だれか! 来てください!」
通路にいた見張りの看守が小走りでやってきました。
「どうした」
「看守長が急に倒れて」
「なんだと!」
看守は詰め所に駆けこんできました。倒れている三人を見るなり、血相を変えて駆け寄ります。彼は必死に声をかけますが、酒と毒で朦朧とした三人はまともな受け答えもできません。
彼の背後からそっと近づいた私は、鞘がついたままの剣を振り下ろします。鈍い音がして、看守が床に崩れ落ちました。
たったそれだけの動作なのに、心臓が早鐘を打っていました。殴った感触が残る手は、じんじんとしびれています。
しかし、惚けている時間はありません。
私は看守のベルトを引き抜き、腕を腰の後ろでしばります。それから両足の靴のひもをくくりつけ、仕上げにスカーフをさるぐつわにします。他の三人も同じようにして、部屋の奥へ転がします。
黙々と作業しながら、大変なことをしているという自覚が、じわじわと押し寄せてきました。これは明確な国家への反逆です。
それなのに、私はどういうわけか、年甲斐もなくわくわくしていたのです。恐怖を一歩すぎたところから、ぞくぞくとした興奮が湧き上がってくるのを感じます。こんな感覚、初めてです。旦那様はいつも旅先で、こういう感覚を味わっていたのでしょうか。であれば、虜になるのも、わかる気がします。
私はテーブルにあったランタンを、西側の窓へと移動させました。窓とランタンの間に手をかざし、光を遮ります。手を外し、もう一度。さらにもう一度。外にいる協力者たちへの合図です。これで、彼らが外の出入り口を制圧してくれる手はずになっています。
私は、壁にかかっていた鍵束を手に取り、看守室を出ました。通路を早足に進み、旦那様の独房へ向かいます。
旦那様を待ち受けている未来は、これまでのどの旅よりも過酷なものになるでしょう。
ですが、恐れる必要はありません。
旦那様はこの国、いいえ、世界で一番の冒険家なのですから。この程度の困難、あっさり乗り越えて、あとで笑い話にしてしまうはずです。
これまでどおりに、心のおもむくままに進めばいいのです。
道に迷ったり、身動きが取れなくなったとしても、心配することはありません。
行く先々で、力を貸してくれる者が必ず現れます。
冒険家だからではありません。旦那様という人柄がそうさせるのです。
ご隠居様をはじめ、脱獄に協力してくれている者は、皆、旦那様へ敬愛や恩義によってつながっています。
これまでの旦那様のおこないが、今の旦那様に手を差し伸べてくれているのです。
だから、こんなところ、さっさと出ましょう。
今、扉を開けます。
旅立つ旦那様をお見送りするのは、私の仕事です。
おまけに、土壇場で大きな仕事がひとつ増えてしまいました。これではおちおち死ぬこともできせん。
本当に、困った主です。
<了>
Photo by photoB
Edited by 朝矢たかみ