歩行者妨害について思う
警察官の友人に随分と前に言われたことがある。
「道路脇に歩行者がいたら必ず停まってくださいね。これから取り締まりが厳しくなりますから」
なるほど、ここ数年で確かに厳しくなった。
僕の周りでも捕まっている人はちらほらいる。
そして、YouTubeなど見ていると本当に停まってもらえず横断出来ないケースが目に付く。
そう考えると良い規則だと思う。
しかし、なんでもそうなのだが・・・。
こういう決まり事があると、良い方向に進む時もあれば、そうで無い時も必ずと言っていいくらい出てくる。
作用と副作用だ。
クスリみたいな話だが、これはある。
先日、車のディーラー担当者から聞いた話だ。
彼が車を走らせていて、道路脇にご老人がいたので停車した。
ところが、ご老人は「どうぞ」と手で合図してくれた。
彼はそれを見て、お辞儀をして車を進ませた。
その瞬間にパトカーがサイレンを鳴らした。
警官に「あの方が『どうぞ』ってしたので言ったのですが」と訴えても「規則は規則ですから」と取り合ってもらえなかったそうだ。
こういう時は『良い』ということにするべきではないだろうか。
なんでも規則で片付けるのは良く無い。
実は、担当者からこの話を聞いた翌日に僕は同じ様な境遇に置かれた。
おじいさんが道路脇に立っている。僕は停車し、「どうぞ」と合図した。
おじいさんも僕に「どうぞ」と合図してくれたが、僕は前日の担当者の言葉を思い出してもう一度「どうぞ」と合図した。
おじいさんは意を決したかのような覚悟とも取れる表情で横断し出した。
足が前に進まないのだ。
そうか、おそらく脳梗塞などで身体が不自由なのだろう。
だから、車に待たれてる間横断するのが辛いのだろう。
これは考えものだと思った。
この状況でおじいさんが焦って渡ろうとして転びでもしたら大事である。
それなら、僕が先に行かせてもらう方がきっと良い。
しかし、それでも警察は規則で違反とするのであろう。
お互い譲り合いの美徳ってあると思う。
担当者の話でも、警官がご老人に「道を譲られましたか?」と訪ねて認められたら問題無いのではないだろうか。
いろんなケースが世の中にはきっとある。
『融通』というものを忘れるとギスギスした社会になる。
もう少し柔らか頭を持って欲しいと願う。