正義と差別ととする話

結局いつもこの結論で終わってしまうので、この話を書いておくことにする。
当たり前の話しか書いてないので面白くはない。

皆さんは現実的に考えて、「~である」ものをいくつ思いつくだろうか。
探してみると、案外少ないのではないだろうか。
自分が最初に思いつくものは、
「生まれた人はやがて死ぬ」
これは流石に納得いくのではないだろうか。
少なくとも不老不死の研究には成功していないので、現状は正と言えるのではないだろうか。
じゃあ、「食事をすると満腹になる」これはどうだろう?
割と納得するのではないだろうか、もちろん満腹は死に比べてかなり定義しにくいが、かなり皆さん納得いかれるだろう。
では、「1+1は2になる」ここぐらいになるとちょっと不信感が増える人もいるのではないだろうか。
そもそも、数字は定義したものであり、「とする」ものを納得しないと成立しない・・・がりんごが1つと1つなら2個。
りんごなら交換可能感が高いし、割と「である」感高めだな。
なんてことを考えた人もいるかもしれない。

多少示唆的なことが見て取れた、生物の生存に関わる問題は割と「である」感が高く、学問的な要素はそれに比べると低い。
「とする」という定義が間に多く挟まってしまう。
じゃあ、学問同士で「である」感を試してみよう。

・吾輩は猫であるの作者は夏目漱石だ
・日本で一番高い山は富士山だ
・ダイナマイトを発見したのはノーベルだ
作品という概念を共通認識として、吾輩は猫であるという作品が書かれた世界においては夏目漱石が作者になる。全然納得できる。
同様に日本という国という枠組みがあるとして、山、標高という概念があるとするとして富士山という山を命名したのであることになった。
ダイナマイトというものが認識出来れば、ノーベルが作ったといって自覚的に「とする」要素はあまりないだろう。
事実を書く限り、どの科目においても大きな差異はないらしい。

・万有引力の法則によって距離の2乗に反比例する力がかかる
・麻雀の実力を測るには100試合ではあまりに足りない
・日本国憲法に則り日本は戦力を保有しない
・ゲイ男性の役をヘテロ男性が演じるのは差別にあたる
そろそろ「~とする」感が強まってきたのではないだろうか。
ちなみに筆者は工業大学中退であるので、この辺りにわかで厳密性に欠けるかもしれない。

万有引力が正とすれば、、、あれ?現実では万有引力の法則って厳密には間違っているんでは?だから万有引力が正しい「とする」ならか。
ただし、実際これで説明がつくものも多いし、積分して近似する感じでまぁまぁ「である」と言えなくもないか。現実問題では。

麻雀はあまりに実力差があれば、1試合でも期待点数があまりに違うので実力差はでるぞ!牌の並べ方だけ教えた小学1年生3人とちゃんとルールを分かっている自分なら100回やって100回近く勝つぞ。
何をぬかしているんだ、実力差は100回で足りる!
そのレベルの話をしているわけじゃないですよね。
中級者と上級者で競技レベル上位20%と2%ぐらいとしましょうか、でしたら余裕で上振れ下振れでひっくり返ります。
※詳しくはとつげき東北著「科学する麻雀」等を参照ください。
統計的にかなり「である」といえるわなぁ、、、

自衛隊は実際戦力といわないのか?
しかも戦力を持たないと言いながら軍事予算は拡大傾向だぞ、時代によるのか?
流石にこれは持たない事「とする」といった要素が大きくなるのではないかなぁ。
9条があれば攻められない、軍備をしなければ攻められない、そんなわけないしなぁ、これは建前として戦力を持たないってポーズをとってるだけなので「である」要素がほとんどない。

じゃあ反転テストをしてみましょう、ヘテロ男性の役をゲイ男性が行ったら差別になるだろうか。
いや、誰も怒らなそうな気がする、という事は差別にはならない。
「である」の反対「でない」だ。
あれ?怒る人たちがいるな、社会学??あ、ふーん。。。差別だって?
どうやら「差別とする」ことらしいですね。お目覚めましたありがとうございます!

ここで、くっきりと輪郭が見えてきました。
自然科学や統計学は、恣意的な運用がしにくく、誰かの意志が介在しないので「である」であろうとするように見え、一方で法学や社会学などといったものはそういったルール「とする」ことを前提に話が進んでいます。
もちろん、これはグラデーションであり、100%であることもとすることもしません。
しかし、自然な感覚でどちらに寄ってるかぐらいは判断がつくと考えます。

ズルをする人たちはここをまぜっかえします。
「法律を守らなくてはいけない」とすると、違法行為はいけません。
ですが、アプリオリに違法行為が法律に反していなくてもいけないかのような立ち振る舞いを行います。
しかも、観測上多くの人は厄介なことに無自覚です。

そして、ここに都合の良い概念があります。
題名にも書いた通りの「正義」と「差別」です。
正義とは

なんとなく西洋と東洋の正義をwikiから引っ張ってきましたが、シンプルにいうとなんとなく皆が正しいと思うと信じ込まれていること。
と近似するのが一番いいかなと思いました。

つまり、正義は可変で言ったもん勝ちな概念です。そりゃ「Aは正義です、なぜなら皆が正しいと思ってるから!」と言えば良い訳ですから簡単ですね。うーん暴力的!「Aは正義ではない、理由はデータXにより、、、」などと客観的なデータで反論されても、Aが実はBであったり、正義のゴールラインをズラしてしまったり、方法はいくらでもあります。
しかも、そうしながら正義は不変で正義”である”というつらをして、悪を叩く棒として大活躍です。勝手に自分ルールで正義としただけなのに自分は正義だからと疑わない人があまりに多く見かけます。

差別も大体一緒です。ポリティカルコレクトネスわたしがNGを出したものは差別で、OKなものは区別。これは差別である、これは区別である。なんて自分が誤らないという無茶な仮定をしなければなりません。もちろん全てが「とする」問題です。

かつて東浩紀著『一般意志2.0』を読んだだけの雑なルソー知識ですが、かつて、ルソーは一般意志は誤らない、つまり『一般意志である』としました。ですが、全体意志は誤りますし、なんなら個人レベルの特殊意志はバラツキがあり誤りまくりです。そもそも、一般意志が成功した例なんて一つもありません。2.0の時代になっても。
なんてものは実現不可能な概念とすると考えるのが自然であって仮に誤らないとしたらなんてことを考えても仕方ないなと思わされる次第であったりします。
一般意志的なもの正しさを素朴に無自覚に信じてしまっているからこそ、こんなことが起きてしまうと考えています。あなたの意志は実現不可能な一般意志ではなく、自分の欲望を叶えるための特殊意志にすぎません。

じゃあ、もう一歩踏み込んでなぜ正義とか差別とかを信じてしまう人がいっぱいいるのかというと、自分の本能的な感情を正当化したいからと考えると自然でしょう。
当たり前ですが人は感情のために目的を捏造します、気持ちよくなりたいんです。
その感情を満たすための道具として、めちゃめちゃ便利なんです、正義と差別。正義や差別はゴールを動かし放題です。「これは正義とし、差別である。なぜなら自分は正義であり、差別かどうかを決める正しい者だから。」こんな気持ちの良いものはありません、被害者以外にとっては。

ただ、正義や差別というものが相対化されたのは割と最近の話なので、すぐに浸透するのは難しいかもしれません。
その昔は、宗教が担っていました。神様が正しいことと間違ったことを決めてくれるので正しいこと、間違ったことは存在すると認識していました。
そして、近代になると国家がその位置が移り変わっていきました。いわゆるナショナリズムであり、国家が正義を与えてくれる大きな物語が機能していた時代、ここまでは正義が絶対化されている時代だったといえるでしょう。

そして、大きな物語が機能しなくなったのがポストモダン。ここでやっと正義が各々が「とする」だけのものとして濫用は避けなければならないことを人々が認知しだした時代です。第二次世界大戦以後として、70年ぐらいのものですか。
しかも、大きな物語の終焉は簡単に起きるものではなく段階的に、グラデーション状に起きているものなのです。この辺りはそのうち別の機会にコンテンツと正義の話で書こうと思う。

でも、人はそんな正しさを与えられずに生きることは難しく、認知ストレスに耐えられない。自分は無謬でありたいし他責にしておきたい。だからこそ、今でも宗教を信じたり、スピリチュアルにハマったりします。彼らは「である」ことを与えてくれる。
それによって、図形の証明のように
Aは正しい(仮定)-①
Bはうんぬんかんぬん、Cはうんぬんかんぬん
で、絶対にAが正義であると信じて疑わない人が生まれ続け、Bは違う、Cは違う、やっぱりDだ、と前提だけは絶対に担保され、またこの結論か、、、となり続ける。

ここを認識することによって、話し合っても分からないことに悩むケースも減り、もしかしたら「である」教からのお目覚めもあるかもしれない。
「である」という装置で作られる正義や差別という武器で殴る人が一人でも減りますように。

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